Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 下谷道(小塚原〜通新町〜三の輪)

   ○ 下谷道
   ○ 下谷通新町
   ○ 円通寺(旧上野の黒門 几号水準点) 別頁
   ○ 真正寺 別頁
   ○ 公春院 別頁
   ○ ジョイフル三の輪
     ・石川屋敷跡(瑞光公園)
     ・中島弁財天
     ・大勝湯 別頁
     ・砂場 総本家 別頁
     ・オオムラパン 別頁
     ・とくとく弁当 ニハマル 別頁
     ・沖縄家庭料理てぃだ食堂 別頁
   ○ 三ノ輪橋 別頁
   ○ 大関横丁/黒羽藩大関屋敷 別頁
   ○ 浄閑寺 別頁
   ○ 背面地蔵尊 別頁
 
 下谷道(上野山下〜坂本〜金杉)別頁

  【下谷】
   ○ 入谷鬼子母神
   ○ 入谷朝顔発祥之地
   ○ 正洞院
   ○ 小野照崎神社
   ○ 三島神社
   ○ 下谷神社(東上野)
   ○ パンダグリーンポスト

  【太郎稲荷】
   ○ 太郎稲荷大明神(入谷)
   ○ 西町太郎稲荷神社(東上野)
 
 鶴御成 別頁


下谷道 荒川区南千住6-48-12 説明板

 江戸時代は、吉野通り(コツ通り)が奥州街道で、現在の国道4号線(南千住〜上野)は「下谷道」と呼ばれました。
 国道4号線から分かれ素盞雄神社の西に突き当る一方通行の旧下谷道が残っています。

     

    

 素盞雄神社周辺は、江戸時代は小塚原町の菅谷耕地と呼ばれ、電信柱に「菅谷」の名が残っています。

    

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 下谷道
 下谷広小路・坂本・三の輪・下谷通新町を通り、素盞雄神社の所で右におれ奥州道中(現コツ通り)に合流する道は、江戸時代、日光道などとも呼ばれ、東叡山門主で日光山門主も兼ねていた輪王寺宮が日光に行く際の道とされていた。周辺には大名屋敷や寺院・町家が軒を連ね賑わったという。
 現在の国道4号線(日光街道)がほぼこの道筋に当たるが、道路の拡張や改修によってその姿は変ってしまった。素盞雄神社に至るこの道は、かろうじて旧道の面影を止どめている。
  荒川区教育委員会」

   

「江戸名所図会」

 「江戸名所図会 飛鳥社 小塚原天王宮」から「下谷道」部分の抜粋です。
 「日光道中」とおなじほど「下谷道」を人々が行き交っています。
 「飛鳥社 小塚原天王宮」の門前にある「茶や」の裏手には、「みたらし」(御手洗池)と池の中に「へん天」(弁天)が見えます。
 「御手洗池」前の下谷道では、天日干しをしている光景が見えます。
 下谷道から左に折れる道には「昔の奥州海道」と記されています。

   

「江戸切絵図」

 江戸切絵図から「下谷道」部分の抜粋です。
 下谷道は、上野山下・坂本・御箪笥町・金杉・三ノ輪・通新町・牛頭天王社を経て小塚原で奥州街道に接続する往還です。

   

「江戸名所図会 東叡山坂本口」

 下谷道は「坂本通り」と記され、「東叡山坂本口」の「新門」(江戸切絵図に坂下門)に突き当っています。
 新門(坂下門)からクランクに曲がって「下寺通り」と並行する道は「車坂下通り」と記されています。

  

「江戸名所図会 山下」

 新門(坂下門)から山内に入る道は「下寺通り」と記されています。
 山下には、大道芸や見世物小屋などの盛り場が見えます。

  

「江戸切絵図」

 上記の江戸切絵図から該当部分の抜粋です。

  

「江戸名所百人美女 上野山下」

 「上野山下」は遊興の地として大きな賑わいを見せていました。
 こま絵には、二階建の料理茶屋と2つの水茶屋が描かれています。
 美人は、上野山下の料理茶屋に出入りする芸者と思われます。

  

「下谷御成道」

 筋違御門(現万世橋)から下谷広小路までは、将軍が寛永寺への参拝に利用した道で、
 「下谷御成道」と呼ばれました。(参考:筋違御門

  

「東都花暦名所案内」

 江戸時代の「東都花暦名所案内」に記されている下谷道と奥州街道部分の抜粋です。
 下谷道は江戸御城の筋違御門から、奥州街道は浅草御門から延びているのがわかります。
 江戸時代の観光マップだけあって、町名と名所・行事が記されており、わかりやすいです。

  


下谷通新町 荒川区南千住1-15-6 説明板

 「立喰生そば 長寿庵」の横に、説明板「下谷通新町」があります。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 下谷通新町
 下谷道(現国道4号線)の両側に発達した町。南は下谷三ノ輪町に続き、北は千住小塚原町に接続していた。町の広さは東西四五間(約八一メートル)、南北六町余(約六五四メートル)、『御府内備孝』によれば、寛文元年(一六六一)の割付に「小塚原新町」、元禄九年(一六九六)の割付に「下谷通新町」と見えるとされ、北隣の小塚原町から分かれて新町として成立したと推定される。町名が下谷通新町に変わった時期は元禄八年(一六九五)頃とされている。町奉行と代官の両方の支配であった。明治一一年(一八七八)には下谷区に属し、翌一二年に下谷真正寺町を吸収した。同二二年に南千住の一部となった。
  荒川区教育委員会」

    

 <立喰生そば 長寿庵

「江戸切絵図」

 江戸切絵図から「下谷通新町」部分の抜粋です。通新町は下谷道の両側の細長い町です。
 真正寺の前だけ通新町に囲まれて「門前町」がポツンとあります。

   


ジョイフル三の輪 荒川区南千住一丁目 HP

     

   


石川屋敷跡 荒川区南千住1-26-10 瑞光公園

 瑞光公園は「瑞光石の光」をテーマに整備した公園です。瑞光石は素盞雄神社創建の起源となった奇岩です。
 なぜか、テレビドラマのロケ地に何度も選ばれています。
 「石川屋敷跡」説明板があります。

<時計塔と瑞光石の光>

 時計塔から「瑞光石の光」が四方八方に放たれています。

     

<石川屋敷跡>

 石川屋敷があった新開地には、かつて大正時代に酩酒屋街がありました。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 石川屋敷跡
 伊勢亀山藩主石川日向守屋敷は、新開地一帯(現在のジョイフル三の輪あたり)にあって、総坪数一万千四十坪(約三万六千四百平方メートル)にも及ぶ広さであった。万治元年(一六五八)、主殿頭憲之の時に、三河島・三の輪・小塚原三か村のうち、一万五百三十坪(約三万四千七百平方メートル)の地を拝領し下屋敷を造築。寛文五年(一六六五)三河島村重右衛門の所有地五百十八坪(約千七百平方メートル)を買上げ、屋敷・庭園を造築した。
 この石川屋敷では、四月から七月までの間に限って鉄炮稽古をしたという。
  荒川区教育委員会」

    


中島弁財天 荒川区南千住1-23-11

 2012年1月に廃業した銭湯「弁天湯」から像を譲り受けた商店街が2012年11月に、祠を設け祀っています。

(説明板)
「中島弁財天の由来
 当商店街至近の「元弁天湯」は大正時代創業で、関東大震災や空襲をくぐり抜けた建物は「都内最古級」と云われ百年近く地域に親しまれてきましたが東日本大震災で配管等に甚大な被害が出て閉業しました。
 その女湯の脱衣場の中庭に置かれていたのが七福神の一つこの弁財天 様です。開運、商売繁盛、弁活、芸術、財神、延寿の神弁財天として安置いたしました。
 かつて、江戸時代から明治二年の版籍奉還まで、大名伊勢亀山藩主石川家(六万石)の下屋敷・抱屋敷として立地し、その屋敷内に大きな弁天池 が有り、その中の島に祀られていた「中島弁財天」に由来するものであります。」

    

    


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