Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 神田須田町/外神田

  ○ 万世橋
  ○ 萬代橋(萬世橋)
  ○ 町名由来板「萬世橋」
  ○ 万世橋駅
  ○ 八ツ小路/八ツ広路
  ○ 柳原堤 別頁
  ○ 筋違門跡
  ○ 御成道(筋違門跡)


万世橋 千代田区外神田〜千代田区神田須田町

<現在の万世橋>

 最初は明治17(1884)年に架けられた木橋で「昌平橋」と呼ばれ、その後、「新万世橋」→「万世橋」と名称を変えました。
 明治36(1903)年に鉄橋に改架、関東大震災で被害を受け、昭和5(1930)年に帝都復興事業で架け替えられました。

    

 橋名板「萬世橋」「昭和五年三月完成」

   

 汽車と燈籠

   

 神田川下流  神田川上流

    

(説明板)
「万世橋
 現在の万世橋と昌平橋の間に江戸城の見附の一つである筋違門がありました。1872年(明治5年)に門が撤去されその石材を用いて架けられたのが萬代橋(萬世橋)です。石造アーチの形状は眼鏡橋と通称され、東京名所として錦絵などにも描かれました。
 1903年(明治36年)、現在の位地に新たに万世橋が架橋された後、石造の萬世橋は1906年に撤去されました。現在の橋は関東大震災後の1930年(昭和5年)に架けられました。甲武鉄道(後の中央線)のターミナル駅として万世橋駅が1912年(明治45年)に開業すると、橋の周辺は交通の要衝としてたいへんな賑わいを見せました。」

     
 
<震災復興と万世橋>

(説明板)
「震災復興と万世橋
 明治5年(1872)に筋違見附が取り壊され、翌年にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成した。この橋は、当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。さらに明治29年(1896)に萬世橋東側に木橋を架けて馬車鉄道が開通する。
 明治36年(1903)に現在の位置に新しい万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は、後に撤去された。この新しい万世橋は、路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で被災し、昭和5年(1930)に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアーチ橋に架け替えられた。
 現在神田川に架けられている橋の多くは、震災復興橋梁と呼ばれる大正末年から昭和初期に架けられたもので、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたという。トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋の御茶ノ水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など、神田川にある震災復興橋梁は、様々な構造で造られ、親柱や欄干のデザインに特徴を見出すことができる。」

  


萬代橋(萬世橋、よろずよばし)

 明治5(1872)年、筋違橋門が取り壊され、桝形石垣を利用して、
 明治6(1873)年、門の跡に東京最初の石橋(石造二連アーチ)の萬代橋(よろずよばし→万世橋→元万世橋と変遷)が架橋されました。
 明治36(1903)年、新万世橋が鉄橋に改架され、
 明治39(1906)年、元万世橋は撤去されました。

<橋名を刻んだ親柱>

 親柱が神田神社の境内に保存されています。

   

「東京神田萬世橋賑之圖」(昇齋一景 明治7(1874)年)

 新しくできた石橋は賑わったようです。

  

「東京名所図会 筋違万代橋」(三代広重)

 新しくできた石橋は名所となったようです。

  

「東京開化三十六景 旧聖堂より萬世橋を見る」(三代広重)

 新しくできた石橋は東京開化三十六景として描かれています。

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「萬代橋朝日出」(小林清親 明治13(1880)年)

 神田川の西から、萬代橋と税務局が描かれています。
 日の出の空は、奥の赤味から明るくなってきています。雲が黄色く輝いています。

  

「萬代橋雨ノ景」(井上安治)

 小林清親と同じ構図ですが、雨の景です。

  

「東京名所帖 萬世橋」(井上探景(安治))

 石橋の上を路面電車が走っています。

  


○町名由来板「萬世橋」 千代田区外神田1-17

 JR秋葉原駅電気街口に「千代田区町名由来板 萬世橋」が設置されています。

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 萬世橋(万世橋)
 この一帯は、橋の名にちなんで「萬世橋(万世橋)」と呼ばれています。萬世橋の名前は、明治六年(1873)、昌平橋よりもやや下流に架けられた「萬代橋(よろずよばし)」に由来します。いつのころからか人々はこの橋を「まんせいばし」と呼ぶようになり、明治三十六年(1903)にほぼ現在の場所に架け替えられました。
 江戸時代、この界隈は、下谷御成道へ出る道筋にあり、人の行き交う町でした。またここは神田川河岸で、年貢米や野菜などを運び込む水運の拠点でもありました。江戸時代の地図にある「神田通船屋敷」は、幕府が手がけた見沼代用水の難工事に協力したことで、将軍より用水路の通船を許可された高田家の屋敷でした。
 当時武家地だった神田仲町と神田花房町は、享保年間(1716〜1736)に町屋となり、商人や職人が移り住みます。また、神田花田町は、明治二年(1869)、武家地だった花房町代地と須田町代地をあわせ、両町から一字ずつ取ってできた町です。地元の萬世橋町会は、戦後その三つの町にまたがって成立しました。昭和三十九年(1964)、住居表示の実施により、これら三つの町は外神田一丁目に変わりました。
 萬世橋地区のなかでも、秋葉原のあたりには、戦前からすでに電気部品やラジオなどを扱う卸問屋や小売店がありました。しかし、戦時下の空襲により、この一帯は焼け野原となってしまいます。そんな秋葉原駅のガード下に、昭和二十四年(1949)、連合軍の命令で、須田町や小川町界隈にあった電気関係の露天商が移動させられたのです。こうして秋葉原は、世界的に有名な電気街として発展することになりました。
 駅名にもなっている「秋葉原」の名前は、明治二年の大火の後、広大な火除地ができ、そこに鎮火神社が祀られました。静岡の秋葉神社が、火伏せの神社だったことから、「あきばのはら」または「あきばっぱら」と呼ばれるようになったといいます。神社の社は、台東区下谷に移された後、現在はJR秋葉原駅の駅長室にその分社が祀られています。 外神田一丁目萬世橋町会」

   
  
   


旧万世橋駅 千代田区神田須田町1-25-4(マーチエキュート神田万世橋内) HP

 交通博物館が2006年5月14日に閉館。
 旧万世橋駅の遺構は、プラットホームが展望デッキ「2013プラットホーム」として開放され、
 ホームに上がるふたつの階段も、公開されています。

「萬世橋停車場」「内神田遠望」「外神田遠望」(日本写真帖 明治45年)
 旧万世橋駅は、辰野金吾の設計です。

    

<2013プラットホーム>

 万世橋駅の開業時(明治45年)に作られたホームです。
 両脇を中央線が行き交います。駅ではないので、通過していく列車は迫力あります。

   

<旧万世橋駅ホーム上屋基礎>

(説明板)
「旧万世橋駅 プラットホーム上屋基礎
 2013プラットホームの工事の際、旧万世橋駅ホーム土中から、古レールを転用して作られたプラットホーム上屋基礎が発見されました。
 その一部を保存し、ここに展示しています。 旧万世橋駅」

    

<1912階段>

 万世橋駅開業当時に作られた階段です。

(説明板)
「旧万世橋駅 1912階段
 1912(明治45)年4月、万世橋駅開業時に作られた階段で、鉄道博物館(後の交通博物館)開館から1943(昭和18)年の駅休止までは、ホームから直接入館できる特別来館口でした。
 階段は花崗岩や稲田石を削りだした重厚なものですが、踊り場は当時の新素材であるコンクリートが使われ、壁面のタイルも、覆輪目地(ふくりんめじ)という高級な施工がされているのも特徴です。 旧万世橋駅」

   

<1935階段>

 鉄道博物館の建設に伴い1935(昭和10)年に増設された階段です。

    

   


八ツ広路/八ツ小路(やつこうじ) 千代田区神田須田町1丁目

 筋違見附の内側が八ツ広路で、ここから八方に道が通じていたことから八ツ小路、八辻小路の名が付いていました。
 通行量が多く、昼夜を問わず開門していました。
 火除地には、小菅村に移転するまで飢饉や水害などに備えた籾蔵がありました。

「江戸名所図会 筋違八ツ小路」

 神田川下流に筋違橋、その上流に昌平橋が見えます。
 神田川沿には、柳が植わっています。
 八ツ広路は、火除地を兼ねた広場となっています。火の見櫓が見えます。
 筋違門に向かう行列が見えます。幕府の行事は描いてはいけないので、
 行列は短く描いて、将軍の寛永寺墓参は描いていませんと主張しているようです。

  

「江戸切絵図」

 「昌平橋」と「筋違御門」が見えます。
 「下谷御成街道」が下谷広小路〜三橋へと続いています。

  

「江戸名所道化尽 十一 下谷御成道」(歌川広景)

 下谷御成道の光景です。質屋「佐野屋」が見えます。
 子どもたちが水鉄砲で遊んでいたら、武士の顔面に鉄砲水がヒットしてしまいました。
 女性が謝っているようです。

  

「絵本江戸土産 筋違八ッ小路」(広重)

 神田川の堤には柳が連なっています。

  

「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重)

 筋違御門を入って来た行列が、八ッ小路を横切っています。
 これを見た瞬間には、将軍の寛永寺への墓参帰りと思ってしまいますが、
 行列には多くの女性のお付が見えるので、輿の主は女性を主張しているようです。
 当時は幕府の行事を描くことは禁止されていたので、将軍の行列は描いていませんとの言い訳かもしれません。
 右手には柳原堤、右手奥に神田明神が見えます。

  

「江戸風俗十二ヶ月之内 七月七夕筋違見附八辻」(楊洲周延 明治22(1889)年)

 これを見た瞬間には、広重を知っている幕臣が、一応敬意を払って笠をとり、将軍の行列を錦絵に描いてはだめだぞと
 これから注意をする場面かと思いました。
 女性に優しく日陰をつくってもらっている杖をついているご老人は、行列は見ないでそっぽを向いており、
 「行列は見てない、こっちを見ている」と言い訳するつもりでしょう。
 楊洲周延の作品には登場しない犬が描かれているのも、広重を想起させます。
 楊洲周延は、広重の「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重は安政5年に死去、安政4年の作品)を知っているはずですから、
 「広重さん、当時は将軍の行列を描けなくて残念でしたね」と語っているようです。(以上、直観だけの感想です)
  さて、筋違見附八辻における七夕の光景です。柳原堤の向こう側には、赤い幟が多数ひらめいています。
 女性は日傘をさし、屋台では白玉水を売っています。暑さが伝わってきます。

   

「江戸名所道戯尽 三十四 筋違御門うち」(歌川広景)

 筋違御門前の八ツ小路が描かれています。柳原堤と柳も見えます。
 人相見が女性客に天眼鏡をかざしています。
 子どもはびっくり、通りがかりの人は振り返っています。

  

「北斎漫画」(北斎)の「天眼鏡」が元ネタですね。

  

「柳原夜雨」(小林清親)

 タイトル名と近景の柳、遠景の消防署から、
 柳原堤から、江戸時代は火除け地で広場だった八ツ小路を見渡した光景かと思います。
 あるいは神田川のもう少し下流にこのような広大な広場はあったのでしょうか。
 
  

「柳橋夜雨」(井上安治)

 タイトルと内容が違っているような気がします。
 師匠の小林清親と同様に、柳原堤から八ツ小路を見渡した光景ではないでしょうか。

  


筋違門跡 千代田区神田須田町1-25JR神田万世橋ビル

 筋違門跡の現在です。広場にモニュメントが建ち、説明パネルが時代を追って展示されています。
 路面にも歴史が書かれています。
 
  

広瀬武夫および杉野杉野孫七兵曹長の銅像>

 GHQの意向を受けて政府から出された通達を受け、東京都では審査委員会設けて検討、
 この像は戦犯銅像と決定し撤去されています。
 渡辺長男(広瀬武夫像)と朝倉文夫(杉野杉野孫七兵曹長像)の兄弟での合作でした。

   

「故広瀬海軍中佐及故杉野兵曹長銅像」(京浜所在銅像写真 諏訪堂 明治43年5月)

  

<筋違門(江戸時代)>

 一番奥の「筋違門」のパネルです。

      

  

<筋違橋見附>(幕末・明治・大正回顧八十年史 東洋文化協会 昭和10年)

  

<旧万世橋駅(明治・大正時代)>

     

<交通博物館(昭和・平成時代)>

    

<万世橋駅のにぎわい>

    

「筋違通夜景」(井上安治)

 筋違通の光線画です。
 
  


御成道(筋違門跡) 千代田区神田須田町1-25

 旧中山道に、説明板「御成道(筋違門跡)」が設置されています。
 将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、筋違門で日本橋を発した中山道に合流しました。
 寛永寺に向かう際は、筋違門から下谷御成道を進み三橋を渡り寛永寺へ至りました。

     

(説明板)
「御成道(筋違門跡)
 御成道とは、徳川将軍が参詣などで通る道筋のことを言います。江戸時代、この場所には江戸城外郭門のひとつ筋違門があり、上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への社参の際に、将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、この門を抜けて上野に向かいました。
 筋違門の名は、日本橋から出発して、本郷・板橋に向かう中山道と御成道が筋違に交差していたためです。門内には火除けの広小路があり八つの口に通じていたため、俗に「八つ小路」と呼ばれていました。 千代田区」

   


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