○ 柳原堤
○ 筋違門橋 別頁
○ 神田ふれあい橋 別頁
○ 和泉橋
・柳原土手跡と和泉橋
・既製服問屋街発祥の地
・岩本町三丁目
○ 新シ橋(美倉橋)
○ 左衛門橋
○ 浅草橋 別頁
○ 柳森神社
神田佐久間町 別頁
○ 佐久間橋跡(秋葉原貨物取扱所)
○ 神田佐久間町一丁目(町名由来板)
太田道灌が、江戸城を造成した際、鬼門の守りのため、土手を築き、水に強い柳の木を植えました。
神田川下流の浅草御門から八ツ小路までの南岸に築かれたのが柳原堤です。
飯田橋駅から和泉橋の江戸城小石川堀(神田川)は、仙台藩が開削工事を行った場所です。
三代藩主伊達綱宗の時代に始まり、万治4年(1661年)、四代藩主綱村の時代に完成しました。
「江戸切絵図」
筋違御門から浅草御門まで、神田川右岸に柳原堤が続いています。
筋違御門と和泉橋の間の柳原堤に沿って籾蔵が見えます。
<柳原通り>
柳原堤に沿って走っていたのが「柳原通り」です。
「江戸名所図会 柳原堤」
古着屋が軒を連ねて、古着が吊るされています。
通りには籾蔵が見えます。
通りを行く人に、車いすの人や視覚障害者が見えます。
和泉橋の南側の袂には、大弓の射的場が見えます。2枚目は切絵図からの抜粋を加工しています。
「絵本江戸土産 柳原 河岸通」(広重)
神田川の和泉橋辺りから上流を描いています。左手の神田川右岸が柳原堤で、柳森稲荷が見えます。
挿絵には「浅草御門より西の方 これを神田川といひて江戸川の末流也
大川へ出るにより川舟左右に競ひ 旦より暮に至るまで盧櫂のおと引きもきらず 賑はひの地なり」とあります。
「大正五年三月完成」
上流
下流 神田川下流には美倉橋が見えます。
(説明板)
「柳原土手跡と和泉橋
柳原土手は、筋違門から浅草門までの約1.1kmにわたり、江戸城外堀(現在の神田川)南岸に築かれていた土手です。昔は町屋が土手の南側下まで建ち並び、人は土手の上を通行していました。土手下には柳森稲荷(現在の柳森神社)や古着や小道具を扱う葦簀張りの床店が並び、繁昌していたといわれます。
1873年(明治6年)に土手は崩されましたが、岩本町周辺には古着屋が集中し、また軍服を扱う羅紗問屋が神田須田町にできたことで、岩本町・神田須田町・東神田の一帯は、現在に至るまで衣料の町として発展してきました。
和泉橋は、江戸城外堀(現在の神田川)にかかる橋の一つです。伊勢津藩(現在の三重県)の藤堂和泉守の上屋敷前に向かう通りに架かることが橋名の由来です。1892年(明治25年)に鉄橋となり、関東大震災後の1927年(昭和2年)には帝都復興事業の一環で拡張され、東京を南北に走る防火帯の役割も兼ねた場所でした。」
<國旗掲揚所> 千代田区神田岩本町
自転車置き場に古い国旗掲揚所があります。
「昭和八年八月建設」
(説明板)
「既製服問屋街発祥の地
江戸時代後期、昌平橋から浅草橋の間にあった柳原土手に沿って古着を扱う床店(露店)が設けられ、日本橋富沢町とともに、江戸市中の古着を扱うマーケットの一つとして知られました。明治維新後の1881年(明治14年)、岩本町古着市場が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。
日常衣類として洋服が普及し、一般の人々の需要の中心が既製服へ代わると、この地域でも既製服を扱う店舗が増加し洋服の町へと変貌していきました。
(神田柳原川岸通りの図 新撰東京名所図会)掲示」
(説明板)
「千代田区町名由来板 千代田区
岩本町三丁目
江戸時代、この界隈を流れる神田川の土手は、柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。岩本町周辺は、江戸城から見れば鬼門(北東方向)にあたります。柳森神社(現・神田須田町二丁目)の社伝によれば、太田道灌が鬼門除けに稲荷を祀り、柳を植えたのが始まりといわれています。
そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本などの武士たちでした。江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。
その伝統は、明治維新後も引き継がれました。明治十四年(1881)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには四百軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると、町内には四階建てのビルまで登場し、「和泉橋ダンスホール」が併設されました。
このように洒落で小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後、この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショーウインドーを飾るようになりました。
現在、数こそ減ってきましたが、岩本町三丁目をささえ、町の礎を築いてきたのは、こうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町、それが岩本町三丁目なのです。」
「江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町」(歌川広景)
和泉橋の橋名由来となった津藩藤堂和泉守上屋敷が描かれています。
上屋敷表門前では、男が烏帽子を凧の糸に絡めとられています。
「東京名所三十六戯撰 柳原元和泉はし」(昇齋一景 1872年)
神田川の和泉橋辺りの柳原での光景です。
女性が舟に乗ろうとして、たぶんこぼれていた汚物に滑って、お隣の汚穢舟に転げ落ちています。
転んでいる女性はゴザを持っているので夜鷹でしょう。
左端の男性は臭くて鼻をつまんでいます。
右端の女性は着物の袖で顔の下をおおい、男性は扇子で顔の下をおおっています。
下肥は、長屋より武家屋敷のほうが高く買い取られ、神田川は汚穢舟が目立った東京の名所でしたか?
江戸切絵図では「新シ橋」とあります。明治初期に美倉橋と改称されています。
「昭和四年三月完成」。神田川下流には、左衛門橋が見えます。
<美倉橋西児童遊園> 千代田区東神田2-3-1
南詰にあるトイレは3つの蔵を形どっています(男女トイレと車いすトイレ)。
「江戸名所道化尽 七 新シ橋の大風」(歌川広景)
神田川の新シ橋(現在の美倉橋)辺りの柳原での光景です。
柳原堤と強風にあおられている柳が見えます。神田川の上流には、火の見櫓が見えます。
新シ橋の上では、吹き荒れる風に人々が翻弄されています。
一人は空高く傘を飛ばされ、一人は笠を飛ばされています。
女性はマリリン・モンロー状態で、紙(浅草紙ですかね)を飛ばされています。
飛ばされている紙は、柳原という場所を考えると御簾紙で女性は夜鷹に思えます。
手がふさがっている男性は布を顔面に飛ばされ前が見えません。
「北斎漫画」(北斎)に、風に翻弄される人たちの絵があります。元ネタですね。
橋の中央が、台東区、千代田区、中央区の境界となっています。
「平成十二年二月完成」
橋の下流に浅草橋が見え、屋形船が停泊しています。
<町名由来板「東神田三丁目」> 千代田区東神田3-1-17 千代田区立左衛門橋北児童遊園
(説明板)
「千代田区町名由来板 東神田三丁目
南に神田川をのぞむ東神田三丁目は、かつて神田八名川町、神田元久右衛門町、神田餌鳥町、神田向柳原町一丁目に分かれていました。
このうち、八名川町という名は、江戸時代初期の元和二年(一六一六)、駿府在城時の徳川家康に奉仕した三河国八名川村出身の旗本二十二名が、この地に屋敷を与えられたことから付けられました。隣の神田元久右衛門町は、同じく元和二年、久右衛門という人物が町屋を草創したことに由来するとされています。このあたりは河岸地で、材木商、薪炭商が多く住んでいました。一時、火事で深川に移転したものの、荷揚げに便利なこの地に願い出て戻り、焼け跡を蔵地として復興しました。
神田餌鳥町は、鷹狩の鷹の餌となる小鳥などを飼う仕事を請け負っていた役人の屋敷が、神田餌鳥屋敷と呼ばれていたことからこの名が付きました。また、神田向柳原町は、神田川南岸の柳原から見て川向こうであることにちなむ名前です。
江戸時代からのこれらの町の名は、明治五年(一八七二)に正式な町名となりました。向柳原町は、浅草区へ編入したのちに一部神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となります。
昭和四十二年(一九六七)、住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。このとき案として出された「秋葉原」や「秋葉」の名前に満足できなかった町の人たちは、要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。こうして江戸時代から続いていた町名は、東神田三丁目という名前に生まれ変わったのです。」
<旧町名由来案内板「浅草上平右衛門町、浅草左衛門町」> 台東区浅草橋1-3-8 台東区立左衛門町児童遊園
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 浅草上平右衛門町、浅草左衛門町
浅草上平右衛門町を開いたのは、平右衛門という人物である。
天正十八年(一五九○)家康の江戸入国に従い江戸へ入り、元和二年(一六一六)、家康が浅草寺へ参詣した際、この地に町家を開くことを命じられた。町名は、平右衛門が住んでいる土地ということで付され、この地の名主になった。
当初、町名には上下の区別はなく「浅草平右衛門町」であったが、俗に浅草御門(現浅草橋南詰にあった)より東側を下平右衛門、西側を上平右衛門と称していた。明治五年(一八七二)になり正式に上下二町にわかれた。昭和九年(一九三四)、上平右衛門町は二分され、東側を浅草橋一丁目とした。残った西側部分も昭和三十九年(一九六四)の住居制度の実施で、浅草橋一丁目となった。(左図町名遍歴表参照)
一方、浅草左衛門町が起立したのは、明治二十三年(一八九○)である。この地には、慶長三年(一五九八)以来、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉邸(明治元年現在で十二万石、領主酒井忠宝)があったが、明治元年(一八六八)に収公され、同五年に町屋が開かれた。当初、平右衛門町の隣にあったことから、新平右衛門町と称していた。後に、神田川に望むこの地を俗に左衛門河岸と呼んでいたのをとって町名となった。
※系図省略 台東区」
太田道灌公が江戸城の東北の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の「伏見稲荷大社」を勧請して創建したとされています。
境内の福寿神は「お狸さん」とよばれ、桂昌院が江戸城内に創建したといわれています。
「江戸名所図会 柳原堤」
「江戸名所図会 柳原堤」の中で「柳森稲荷」が描かれています。
「絵本江戸土産 柳原 河岸通」(広重)
神田川の和泉橋辺りから上流を描いています。左手の神田川右岸が柳原堤で、柳森稲荷が見えます。
挿絵には「浅草御門より西の方 これを神田川といひて江戸川の末流也
大川へ出るにより川舟左右に競ひ 旦より暮に至るまで盧櫂のおと引きもきらず 賑はひの地なり」とあります。
「江戸切絵図」
和泉橋上流の柳原堤に、「籾蔵」と「イナリ」が見えます。
<一の鳥居/社号標>
神田川の南側「柳原通り」沿いに神社入口があります。
石鳥居と社号標「柳森神社」があります。
鳥居より低い位置に境内がある「下り宮」です。
<富士塚・富士講石碑群> 千代田区有形民俗文化財
鳥居をくぐり階段を降りると右手に千代田区指定有形民俗文化財「富士講関係石碑群」があります。
かつての富士塚の溶岩や碑などが積み上げられています。
一番上には「三桂乃大神」、下に「富士宮浅間大社神」が祀られています。
(説明板)
「富士講関係石碑群
千代田区指定文化財
1998年(平成10年)4月1日指定
5つの石碑群は、柳森神社周辺に存在した富士講の名残を今日に伝える石碑群です。富士講とは、富士山信仰をもとに成立した民間信仰の一種で、江戸時代特に町民や農民の間で流行しました。
柳森神社は、1680年(延宝8年)に駿河富士宮浅間神社から分祀した富士浅間神社を、合殿・合祀した経緯から、富士講と深い関わりを持つ場所でした。『東都歳事記』には、天保年間(1830〜1844年)頃の「富士参」(富士浅間神社への参詣)の例として柳森神社のことが取り上げられています。
1930年(昭和5年)には、境内に富士塚と呼ばれる、富士の溶岩石を積み上げて富士山に模した塚も築かれましたが、1960年(昭和35年)に取り壊され現存していません。
石碑群の銘文には、富士塚が築かれた時期に近い、大正や昭和の文字があり、このころに富士講を再興させようという動きがあったことがわかります。」
<力石群> 千代田区有形民俗文化財
13個の力石が集められ壮観です。
(説明板)
「力石群
江戸時代には、若者たちの間で、重量のある石を持ち上げて力自慢を競うことが流行しました。明治時代の中頃から次第に衰退しましたが、大正時代になると再び盛り上がりをみせます。
柳森神社の境内にあるカ石の一群は、当時のカ士で大関として名を上げた神田川徳蔵こと飯田徳蔵と、その一派が生前使った石の一部で、彼らの業績を記念し後世に伝えるために集められたものです。」
<明徳稲荷神社>
商人からの信仰を集めた明徳稲荷神社。
<秋葉大神>
火防・火伏せの神として信仰を集めた「秋葉大神」です。
<水神厳島大明神・江島大明神>
<金比羅宮>
<福寿社(おたぬきさま)>
桂昌院が江戸城内に創建したといわれています。
<福寿 たぬき尊像>
親子狸が鳥居の前におわします。
<鳥居(福寿神)>
鳥居の両側には親子の狸の像が座しています。
鳥居の裏に説明板。
<おたぬきさん 福寿神御由来>
(説明板)
「おたぬきさん 福寿神御由来
江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた五代将軍綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院様によって江戸城内に福寿いなりとして創建された。
桂昌院様は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、三代将軍徳川家光の側室となり、五代将軍徳川家綱吉公の生母となる。
大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいとこぞってお狸さまを崇拝したという。
後世、元倉前甚内橋際 向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治二年現在の柳森神社に合祀されました。
開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。
なお当社において頒与する、“おたぬきさん”と呼ばれる土製の親子狸のお守りは、素朴で、たいへん愛されております。」
<幸神社>
お稲荷様が祀られてる幸神社。
<神楽殿>
<柳森神社由来>
神楽殿の道路側に「柳森神社由来」が掲げられています。
(掲額文)
「柳森神社由来
今を去る五百余年の昔この東京が武蔵野の原と称し足利時代の頃長禄ニ年太田道灌公江戸築城の時その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御祀り申し上げ神田川土堤一帯に柳の木を多数植え繁茂したるに依り柳原の名と共に柳森神社の起源となった其の後江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄しこの柳森神社も商売繁昌の神として非常に殷賑を極めたのである元禄と文政の頃には徳川家より社殿造営の寄進があり其の造営物は大正十二年九月の関東大震災にて惜しくも烏有に帰した尚其頃迄この周辺には柳町小柳町元柳町向柳町柳原河岸などと柳に因んだ町名の有ったことも此の柳の森より起因したものである。
昭和三十年が当神社創建五百年祭に相当するので崇敬者の発願に依って記念事業として此の神楽殿を建立し同年五月十五日楽慶大祭を執行した次第である。
例大祭は毎年五月十四日十五日
昭和三十六年五月吉日」
<手水舎>
元禄6(1693)年の銘です。
<天水桶>
昭和5(1930)年奉納の鉄製天水桶です。
川口町の浅倉庄吉の鋳造です。
、「川口町 「多」(社章) 浅倉庄吉製 昭和五年八月吉日」
「山寅作」の印影
<神狐>
左の神狐は、子狐が親狐を見上げています。
右の神狐さんだけ赤い前掛けです。
<拝殿/本殿>
<天水桶>
文政3(1820)年銘の「江戸深川 釜屋」による製作の天水桶です。社務所前にあります。
「柳原岩井町」の多くの人々による奉納です。
現在の拝殿前にある天水桶は昭和5(1930)年の奉納なので、こちらは役目を終えた先代の天水桶なのでしょう。
<庚申塔>
正徳5(1715)年銘の庚申塔です。千代田区内に2基ある庚申塔のうちの一つです。
社務所前にあります。