○ 佐久間橋跡(秋葉原貨物取扱所)
○ 神田佐久間町一丁目
○ 神田ふれあい橋
○ 和泉橋 別頁
明治23(1890)年に上野からの貨物線が開通し、「秋葉原貨物取扱所」が開設されました。
貨物運搬のための船溜があり、神田川と掘割(運河)で繋がれていました。
この掘割に架けられていたのが佐久間橋と秋葉橋です。
「佐久間町」の町名の由来は、佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来するとされています。
長禄2(1458)年、太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の佐久間町一帯に柳を植樹し柳森稲荷(その後、神田須田町に移転)を創建した地です。
(説明板)
「千代田区町名由来版 神田佐久間町一丁目
「佐久間町」の町名は、かつて佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来するとされています。商人の名がそのまま町名になっていることからもわかるとおり、この界隈はとりわけ江戸商業の発達史にゆかりの深い場所でした。
神田佐久間町一丁目の商人のなかで、とくに目立ったのは材木問屋でした。あまりに多くの材木問屋が集まっていたため、材木商たちの間では神田材木町の通称で呼ばれていたといいます。そのほか町内には、薪や炭を扱う業者も多かったようです。
明治維新を迎え、江戸が東京と名を変えても、神田佐久間町一丁目には数多くの材木問屋や薪炭業者が商いを続けました。とくに幕末から明治にかけては活発な取引がおこなわれたようで、この町における炭の相場の変動が東京全体の炭の価格に影響していたと伝えられています。
江戸時代から続いていた神田佐久間町一丁目の町名は、明治四十四年(1911)の町名変更によって佐久間町一丁目となりました。そして神田区と麹町区が合併して千代田区となった昭和二十二年(1947)、ふたたび神田佐久間町一丁目という伝統ある名前を復活させ、いまに至っています。
佐久間町一丁目町会」
「纏持ち 八番組か組町火消」
説明板に掲示の火消しの纏です。出典は記載されていません。
神田佐久間町は「八番組か組町火消」が担当していました。
「江戸の花名勝会 か 八番組 尾上菊五郎/神田明神の祭/神田」(豊国,貞秀,芳虎 国立国会図書館蔵)
代わりに見つけた、江戸の花名勝会から「か 八番組」の抜粋です。
神田明神社と、その祭神に祀られている平将門の首が飛んで石をかりかりかんだ図柄です。
左上に「将門の亡念打来て首が飛んで石をかりかり神田」とあります。
右下には尾上菊五郎が描かれています。右上に火消し八番組か組の纏が描かれています。
東北・上越新幹線の東京駅乗り入れ工事の鉄橋工事用の橋が、地元の要望により工事完了後も撤去せず、
平成元(1989)年4月から人道橋として供用されています。
幅員が2.5メートルしかないので、並んで歩けない幅です。
神田須田町側 神田佐久間町側 橋名板
柳森神社から神田ふれあい橋 神田ふれあい橋橋上 神田川上流(万世橋)
神田川下流(和泉橋) 神田川下流右岸(柳森神社)
神田ふれあい橋の位置
<欄干>
橋の中央に設けられた2ヶ所のバルコニーの欄干には、
「柳のレリーフ」(橋灯がじゃまで見えにくい)、「江戸名所図会 柳原堤」からの抜粋と、文化3(1806)年の柳原の地図のレリーフがはめられています。
「江戸名所図会柳原堤」からの抜粋には、柳森稲荷や、道行く様々な職業の人々、神田川を行く舟が掲示されています。
「柳のレリーフ」
太田道灌が柳原に植えたとされる柳のレリーフが掲げられています。
「江戸名所図会 柳原堤」
「江戸名所図会柳原堤」からの抜粋で、「柳森稲荷」、道行く様々な職業の人々と神田川の舟が掲示されています。
「江戸名所図会 柳原堤」(国立国会図書館蔵)
欄干に掲示されている図会の抜粋です。
「江戸の地図」
文化3(1806)年の地図が掲示されています。神田川右岸の柳原堤の抜粋です。
2枚目は、地図が横向きに掲示されているので、元の形に回転して抜粋したものです。
「筋違門」「和泉橋」や、小菅へ移転前の「籾蔵」が見えます。
<街灯>
神田川右岸の神田ふれあい橋入口の銘板「神田ふれあい橋 Kanda Fureai Bashi」の街灯です。
<柳原通り/神田ふれあい通り>
神田ふれあい橋の南側の歩道に「柳原通り」「神田ふれあい通り」のプレートがあります。
神田ふれあい通りは、神田ふれあい橋から神田駅へと、高架沿いに続く道です。