浅草見附は、当時36ヵ所あった江戸城の門の一つで、現在は碑が建っているだけです。
見付門と呼ばれる警備施設があった場所で、浅草観音へ向かう通り道であったことから
「浅草御門」とも呼ばれました。
吉原に水路で向かう場合、浅草御門近くの柳橋から猪牙舟に乗り、大川(隅田川)をたどって
山谷堀の最下流の今戸橋で下船して、そこから日本堤を徒歩か駕籠で向かいました。
浅草見附跡碑の裏面に、浅草見附跡の説明が刻まれています。昭和31年10月建立。
(TAITOおでかけナビより引用)
「神田川に架かる浅草橋は、江戸時代には浅草見附があったところで、台東区側の橋のたもとに「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附が置かれたのは寛永13年(1636)、江戸城の警護のため36箇所に設けられた見附の一つで、枡形の門は「浅草御門」と呼ばれ、警護人を置いて浅草観音や遠くは奥州へ往来する人々を取り締まりました。」
<旧町名由来案内 下町まちしるべ>
(説明板)
「旧浅草橋
浅草橋という町は昭和九年(一九三四)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、柵町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。 台東区」
「浅草橋見附」(幕末・明治・大正回顧八十年史 東洋文化協会 昭和10年)
木橋の時の浅草橋です。
「東京開化三十六景 柳橋ヨリ浅草橋」(三代広重)
明治7(1874)年架橋の石造アーチ橋が描かれています。
「浅草橋夕景」(井上探景(井上安治)明治13年)
井上安治が浅草橋を描いています。石造アーチ橋です。
余白には「画工 小林清親」と記されていますが、署名は「井上安次」となっています。
「浅草橋夕景」(井上安治)
神田川上流へ、柳が連なって植わっています(柳原堤)。
「浅草橋雨中之景」(井上探景(井上安治) 明治14年)
光線画の浅草橋です。