○ 聖観世音像
○ 几号水準点
○ 黒門
○ 吉展地蔵尊
○ 彰義隊関係追弔碑群
○ 四十八首塚
・鷹見の松跡
・石造七重塔
・板碑四基
・庚申塔
○ 圓通精舎
○ 境外
「几号水準点」「旧上野の黒門」「彰義隊士の墓」「四十八首塚」「七重石塔」「板碑」「石燈籠庚申塔」「鷹見の松跡」等があります。
「百観音円通寺は東都の古刹にして
延暦十年(西暦七九一年)坂上田村麿将軍により開創せらる。
本尊・聖観世音菩薩(聖徳太子 一刀三礼御作)。屋上聖観音像全長12m原形一寸八分当寺蔵高村光雲大正十二年作。
八幡太郎義家 奥羽征伐して賊首四十八を得て還り、ここに埋め首塚四十八基を築いた。
それから この地を「小塚原」と呼ばれる。旧町名「通新町」は円通寺新町に由来する。
寛永三年三代将軍家光 放鷹の日、円通寺の松に止まる「鷹見の松」と名づけらる。
上野戦争(慶応四年五月十五日)彰義隊士の遺体二百六十六を上野で火葬し当寺に収骨した
太政官の許可状に「懇に供養すべし」を口実に、大ぴらに賊軍の法要ができる当時日本唯一
の寺であった。その因縁で旧上野黒門を帝室博物館より明治四十年十月当寺に下賜さる。」
<百観音 円通寺>
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
百観音 円通寺
延暦十年(七九一)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、この辺りを小塚原とよぶようになったという。
江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政ニ年(一八五五)の大地震で倒壊した。
境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年(一二九六)銘をはじめとする板碑四基(区指定文化財)などがある。
荒川区教育委員会」
高さ12メートルの聖観世音像の原形は、大正12(1923)年高村光雲作一寸八分(円通寺蔵)です。
上野の西郷さんや、皇居前広場の楠公は高村光雲の代表作です。
<仁王像>
本堂入口の仁王像です。
境内入ってすぐの左手に百観音碑があります。
その台石に几号水準点が刻まれています。
(表)「秩父 坂東 西國 百くわんおん 通新町圓通寺」
(裏)「明和元年甲申七月中浣」
(台石)几号水準点
<円通寺堂宇再建碑>
「百観音碑」の右手に「円通寺堂宇再建碑」があります。
<黒門> 荒川区文化財
(標柱)
「荒川区指定有形文化財・歴史史料
旧上野の黒門
この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊氏の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(一九○七)に帝室博物館より円通寺に下賜された。」
「昭和六十一年三月三十一日修理完工」
昭和38(1963)年に起きた「吉展ちゃん事件」の被害者の供養のため、
被害者の遺体が見つかった円通寺に「吉展地蔵尊」が祀られています。
また被害者の菩提寺である小塚原回向院にも吉展地蔵尊が祀られています(こちら)。
彰義隊・旧幕臣関係の三十九基からなる石造物群が、令和3(2021)年に荒川区文化財に指定され、それに伴い標柱が設置されました。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
彰義隊士の墓
慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる彰義隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。
荒川区教育委員会」
(標柱)
「荒川区指定有形文化財・歴史史料
彰義隊関係追弔碑群
旧幕臣たちによって建立された墓碑を含む彰義隊・旧幕臣関係の三十九基からなる石造物群。慶応四年(一八六八)五月十五日の上野戦争直後に、当時の円通寺住職武田仏磨が、官軍に敗れて戦場に放置された彰義隊士の遺体を現地で火葬し、遺骨を円通寺に持ち帰って供養した。その際、彰義隊戦死者墓が建立され、彰義隊供養の拠点となった。以降、この墓塔の周囲に戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑が建立、あるいは他所から移設され、彰義隊ゆかりの寺としての景観が形成されていった。」
<彰義隊戦死者の墓> 東京都旧跡、荒川区史跡
円通寺二十三世「大禪佛磨大和尚」は、彰義隊士の遺骸266体を上野山内にて荼毘に附し当寺に埋葬しました。
墓石は明治37(1904)年5月に、榎本武揚によって建てられ、「戦死墓」も榎本武揚の書です。
<死節之墓>
三河屋幸三郎が向島の別荘で、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の供養をしていましたが、当寺に移築されたものです。
<二十三世仏磨大和尚之墓>
円通寺の二十三世住職仏磨和尚は、寛永寺御用商人三河屋幸三郎、侠客新門辰五郎らとともに、
遺骸を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬しました。
<三河家之墓/三幸翁之碑>
「三河家之墓」と「三幸翁之碑」があります。
三河屋幸三郎は寛永寺御用商人で、彰義隊士の遺骨を埋葬する際、金銭、人的に助力し、
その後も法事の施主となるなど、旧幕臣の戦死者の供養に尽力しました。
「三幸翁之碑」は明治23(1890)年の建立です。
新門辰五郎は浅草の町火消しの頭です。
浅草神社末社の被官稲荷神社を勧請しています。(こちらで記載)
円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎、侠客新門辰五郎らが遺骸を集めて上野山内にて荼毘に付し円通寺に埋葬しました。
明治41(1908)年5月の建立です。
<小芝長之助墓>
旧幕臣、将軍家御庭番。晩年は円通寺の住み込み墓守です。
<正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑>
大鳥圭介は明治44(1911)年6月15日に亡くなり、
碑は同方会と碧血会によって、明治44(1911)年7月に建てられました。
「大鳥圭介肖像」(近代日本人の肖像 国立国会図書館)
天保4年2月25日〜明治44年6月15日(1833年4月14日〜1911年6月15日)
榎本武揚は、彰義隊士や旧幕臣の法要に積極的に参加しました。
明治41(1908)年10月26日に亡くなり、
碑は、江戸会、同方会、旧交会、碧血会の有志によって、明治42(1909)年に建てられました。
※榎本武揚について、こちらで記載。
八幡太郎義家は奥羽征伐して賊首四十八をこの地に埋め四十八塚(首塚)を築きます。
「賊首 源義家」と刻まれた石が見えます。
「鷹見の松跡」、「石造七重塔」、(荒川区文化財)、「板碑四基」(荒川区文化財)、「庚申塔」(荒川区文化財)があります。
(案内板)
「三代将軍 鷹見の松」
「義家が供養のため築いた 四十八首塚 小塚原地名の原因」
「基部四面に右の伝誦を刻む 七重塔 荒川区最古の文献」
<鷹見の松跡>
寛永3(1626)年、将軍徳川家光が放鷹の日、円通寺の松に止まり、それから「鷹見の松」と呼ばれました。
松はなく、切株があります。
<七重石塔> 荒川区文化財
首塚の上に建っているのが、この寺の由緒「重興圓通寺記幵塔銘」を刻む七重石塔です。
享保7(1722)年銘です。
<板碑四基> 荒川区文化財
板碑四基が七重石塔の台座脇にあります。
(標柱)
「荒川区指定有形文化財・歴史史料
板碑四基(永仁四年十月日銘他)
円通寺の板碑四基の内、三基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁四年(一二九六)十月日銘は、日慶寺の正応二年(一二八九)銘に次いで二番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦四年(一三ニ九)正月二十九日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。」
平成四年二月七日指定 荒川区教育委員会」
<石燈籠庚申塔> 荒川区文化財
首塚の手前の両脇に燈籠が建っています。金網の柵の中に置かれて近寄れません。
左の燈籠は六十六部供養の燈籠で、正徳3(1713)年4月の造立。
地蔵菩薩が陽刻されており、「奉納大乗妙典六十六部」「四國西國秩父坂東」と刻まれています。
右の燈籠の台座には三猿が陽刻されており、宝永3(1706)年11月銘の庚申塔です(近寄れないので荒川区文化財サイトで確認)。
火袋に左の燈籠は日、右の燈籠は月が形どられています。
六地蔵の左手の石造物は、台座に馬頭の文字が見えます。
寺号額には「圓通精舎」「武揚書」とあります。
大砲が一門置かれています。
<聖観音菩薩像>
円通寺の裏、南西角のブロック塀に聖観音菩薩像がポツンとあります。