○ 回向院
・吉展地蔵尊
・観臓記念碑(荒川区文化財)
・志士墓石の再建
・明治維新殉難志士墓所
・小塚原の刑場跡回向院(荒川区史跡)
【桜田門外の変】
・田中光顕歌碑
・烈婦瀧本之碑(渋沢栄一篆額)
【安政の大獄】
・橋本左内の墓(荒川区文化財)
・橋本景岳之碑(荒川区文化財)
・吉田松陰の墓(荒川区文化財)
・頼三樹三郎の墓(荒川区文化財)
・梅田雲浜の墓
【その他】
・悪役四人組
【別格】
・カール・ゴッチ之墓
○ 延命寺
荒川区HPの回向院の項目によると、
「寛文7年(1667)に本所の回向院が、牢死者や刑死者等を供養するために、この地に回向院を開創しました。なお、ここより南にある延命寺境内(南千住二丁目34番5号)には、無縁となったこのような人々を供養するために建てられた首切地蔵があります。
回向院には、安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本左内らの墓所があります。
また、杉田玄白や前野良沢らがここで刑死者の腑分けに立会い、それをきっかけに「解体新書」を翻訳したと言われています。これを記念して、本堂入口右手に「観臓記念碑」が建てられています。」
<史蹟小塚原回向院>
「史蹟小塚原回向院」と掲示されています。
扁額は「豊国山」
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
回向院
回向院は、寛文七年(一六六七)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当寺は常行堂と称していた。
安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
明和八年(一七七一)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された。
荒川区教育委員会」
昭和38(1963)年に起きた「吉展ちゃん事件」の被害者の供養の為、菩提寺である小塚原回向院に吉展地蔵尊が祀られています。
また被害者の遺体が見つかった円通寺にも吉展地蔵尊が祀られています。
(碑文)
「観臓記念碑
蘭学を生んだ解体の記念に
一七七一年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心の末、ついに一七七四年・安政三年八月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。
さきに一九ニニ年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、一九四五年ニ月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。
一九五九年・昭和三十四年三月四日
第十五回日本医学会総会の機会に
日本医史学会
日本医学会
日本医師会」
「道路拡張のためあたらしく設計された本堂の落慶式が今月十日におこなわれた その機会に この場所を解体記念碑のために提供されたので よそおいをあらたにしてここに移し 今日除幕の式をあげた それは解体新書の出版から二百年にあたる年にできたことになる
一九七四年・昭和四十九年十月二十六日
解体新書出版二百年記念の年
日本医史学会
日本医学会
日本医師会」
「観蔵記念碑(「荒川区史」 昭和11年)
荒川区史に掲載の、戦災に遭う前の「観蔵記念碑」です。
志士の墓石の再建は、小塚原烈士常行会、小琢原回向院烈士遣蹟保存会、小塚原烈士遺墳再建会という3つの組織が担いました。
そのうちの一つ、小塚原回向院烈士遣蹟保存会は、殉難烈士の墳墓が荒廃している状態を嘆き、渋沢栄一を会長として、大正8(1919)年に発足しました。
大正9(1920)年に無縁仏供養塔、大正10(1921)年に渋沢栄一の篆額、岩崎英重の撰文で烈婦瀧本之碑を建立しています。
観臓記念碑の裏側に「明治維新殉難志士墓所」があり、墓碑26基と碑がまとめられています。
小塚原烈士遺墳再建会が昭和6(1931)年に創設され、昭和17(1942)年まで遺墳の再建を行っています。
「烈士遺墳再建碑」
一般墓地と区分けされた「史蹟エリア」があります。
エリアには、墓碑61基と木製標柱1基がまとめられています。
(説明板)
「荒川区指定記念物(史跡)
小塚原の刑場跡 回向院
小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行30間余り(約54m)、約1800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけはでなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。
明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。(平成18年1月13日指定)
平成20年3月 荒川区教育委員会」
史蹟エリアに入ると、「田中光顕歌碑」があります。
「偲ぶけふかな
花とちり雪ときえにし
桜田の
ますらたけを
九十四叟田中光顕」
「田中光顕肖像」(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)
天保14年閏9月25日〜昭和14年3月28日(1843年11月16日〜1939年3月28日)
勤王運動を経て明治政府に出仕。貴族院議員、宮内大臣等を歴任しました。
政界引退後は、維新烈士の顕彰に尽力しました。墓所は護国寺です。
<史蹟エリア内>
<木標柱「史跡小塚原志士墓」>
「大正十四年六月」建立の木標柱です。
<題目塔(南無阿弥陀仏)>
大正9(1920)年秋に行われた墓域修理時に発掘された35体余りの遺骨を供養するため、烈士遺蹟保存会が建てた無縁仏供養塔です。
(碑表)「南無阿弥陀仏」
<無縁仏供養塔>
同上です。
左「為殃罰殺害諸無魂離苦得楽也」
右「為前亡後滅非人等往詣楽邦也」
<勤王烈士追悼碑>
(碑表)「南無阿弥陀仏」
小塚原回向院烈士遣蹟保存会が、大正10(1921)年に「烈婦瀧本之碑」を建立しています。
渋沢栄一の篆額、岩崎英重の撰文です。
「大正十年七月 子爵渋澤榮一篆額」
桜田門外の変の実行隊長だった水戸藩士、関鉄之介の愛人・瀧本(いの)(遊女名:瀧本、本名:伊能)は、元、新吉原・谷本楼の遊女で、
関鉄之介の逃亡の手助けをしたため拷問にあい、伝馬町牢屋敷にて獄死しました。享年23歳。
裏面の「発企人」には「谷本楼」ではなく新吉原「玉中楼」「水常楼」とあります。
<関鉄之介妾伊能遺墳>
瀧本(伊能)の墓が、「烈婦瀧本之碑」の右手にあります。
右面には万延元年と没年が刻まれています。享年23歳。
左面には「明治ニ年己巳三月改葬 于谷中天王寺」とあります。
天王寺で調べても手掛かりがありません。
【桜田門外の変】
<関鉄之介の墓>
関鉄之介は、桜田門外の変の実行隊長だった水戸藩士です。
【安政の大獄】
史蹟エリアの一番奥右に「橋本左内の墓」があります。
「標柱」
(表)「橋本景岳先生墓所」
(裏)「昭和四十九年十月建之 景岳會」
「橋本岳先生の生涯と墓所の由来」
(掲示文)
「橋本岳先生の生涯と墓所の由来
橋本景岳先生は、天保五年(一八三四年)三月十一日、福井藩の藩醫橋本長綱の長男として生れ、名を綱紀、通称を左内、号を景岳又は黎園といった。
幼少の時から學問を好み、やがて藩儒の吉田東篁について儒學を學び、ついで大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿等について蘭學を修め、その見識は当時の第一流の人々を驚かせるまでに至った。有名な「啓發録」は、嘉永元年、十五歳の時、自戒のために書いたもので、先生の人物、思想は、すでにこの著書の中に示されている。
嘉永六年(一八五三)のペルリ来航以来、わが国は急速に内外の問題が多事多難となり、しかも藩主松平春嶽公は、幕政改革の先頭に立ってゐたので、この俊秀なる青年を抜擢してその側近に加へ、これより先生は公の理想の具現のために心血を注ぐこととなる。しかるに春嶽公の政策は、新たに大老に任ぜられた井伊直弼のそれと相容れず、公は幕命によって隠居慎しみを命ぜられ、ついで先生も幽因の身となり、翌六年十月七日、江戸伝馬町の獄内において死刑に處せられて、二十六歳の短い生涯を終へた。長州藩の吉田松陰とともに、安政の大獄において日本が失った最も惜しい人物である。
先生刑死の日、同藩の長谷部恕連は、春嶽公の命を受けて先生の遺骸を小塚原の回向院、すなはちこの地に埋葬して、「橋本左内墓」と刻んだ墓表を建てたが、幕吏は刑人の墓を建ててはならないといつて、これを許さなかったので、改めて「黎園墓」の三字を刻んだものを建てた。しかるにその後、井伊大老は倒され、先生の罪も許されたので、文久三年(一八六三年)五月、この墓石は遺骸とともに福井に移され、善慶寺の橋本家墓所に改葬されたが、明治二十六年、その墓石のみ、再び回向院のもとの地にもどして再建され、さらに昭和八年、破損の甚しくなった墓石を風雨より守るために新たに套堂が設けられて今日に至つた。
套堂の向つて右に聳えている巨碑「橋本景岳之碑」は、明治十八年、先生と信仰のあった福井藩士及び先生門下の人々によって建立されたもので、碑文は先生の盟友西郷隆盛の友人重野成斎の作により、巌谷修が書し、三條實美が蒙額したものである。
昭和四十九年十月 景岳會」
巨碑「橋本景岳之碑」は、明治18(1885)年、福井藩士及び門下の人々によって建立されたものです。
<橋本左内の墓旧鞘堂> 荒川区南千住6-63-1(荒川ふるさと文化館)
「松陰二十一回猛士墓」
史蹟エリアの一番奥左に「吉田松陰の墓」があります。
文久3(1863)年に、高杉晋作等の門人により長州藩主の別邸に改葬され、明治15(1882)年に松陰神社が創建されています。
墓石は文化財として保存されています。
安政の大獄により処刑された頼三樹三郎の墓です。吉田松陰墓石のすぐ右手にあります。
吉田松陰とともに改葬されており、墓石は文化財として保存されています。
墓石には三樹三郎の号「鴨崖」の名が刻まれています。
<成就院信海の墓>
頼三樹三郎の墓の右手にあるのが尊王攘夷派の僧侶「信海の墓」です。
<小林良典の墓>
信海の墓の右手にあるのが「小林其典」と刻まれている小林良典の墓です。
公家家臣の尊王攘夷派で、吉田松陰とともに改葬されています。
「梅田源次郎遺墳」と刻まれた梅田雲浜の墓です。
右側面に辞世の句が刻まれています。
「君が代を思ふ心の一すぢに わが身ありとも思はざりけり
雲濱先生辞世 有馬良橘敬書」
※ 当初当地に葬られましたが、海禅寺(台東区松が谷)に改葬(仮埋葬)されています(こちらで記載)。
【坂下門外の変/他】
<中野方蔵先生遺墳>
史蹟エリアの右側の一番手前です。
中野方蔵は幕末の佐賀藩士で、文久2(1862)年に坂下門外の変に関係したとして捕らえられ獄死しています。
明治2(1869)年に賢崇寺に改葬、墓石が残されています。
<相馬大作・関良助供養碑>
史蹟エリアの右側の手前から4つ目です。
文政4(1821)年の津軽藩主暗殺未遂事件で小塚原刑場で斬首された、相馬大作と関良助の供養碑です。
左から
「鼠小僧次郎吉」 大名屋敷専門の盗賊。本来墓は墨田区の回向院です。
「片岡直次郎」 江戸後期の小悪党。
「高橋お伝」 明治初期の稀代の殺人悪婦。
「腕の喜三郎」 喧嘩で斬られた腕を子分に切り落とさせた侠客。
【二・二六事件】
<磯部浅一・妻登美子の墓>
史跡エリアの墓所に入ってすぐ左手です。
磯部浅一は、二・二六事件の計画・指揮に当たり、昭和12(1937)年に銃殺刑に処されています。
【その他】
カール・ゴッチ氏は、2007(平成19)年に82歳で亡くなり、10年を経て2017(平成29)年7月、同氏の墓が建立されました。
ゴッチ氏の遺志により遺骨の9割は海に散骨され、残りの1割が墓に納められたということです。
墓所を探すのに苦労されたようですが、関係者以外立ち入り禁止の一般墓地ではなく、史蹟エリアに墓はあるので、
より多くの方々が墓参できるので、多くのワインや花などが供えられています。
(墓誌)
「Karl Gotch
1924.8.3〜2007.7.28
Known as God of Wrestling in Japan
カール・ゴッチ 本名 カール・イスターチ
ベルギー・アントワープ出身
来歴
1968年日本へ移住 日本プロレスのコーチとしてアントニオ猪木にストロングスタイルレスリングの確立を成さしめプロレスの神様と称された
言葉
Never lie, never cheat, never quit.
技術と精神は常に一緒だ
決して嘘をつくな 決してごまかすな
決して放棄するな
2017年7月吉日
アントニオ猪木
西村修 他有志 建之」
<小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵> 荒川区史跡
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵
小塚原刑場は、火罪・磔・獄門などの刑罰、無縁の埋葬・供養、刀の試し斬り、腑分け(解剖)などが行われ、また、徳川家の馬の埋葬地としても利用された。間口は六十間余(約百八メートル)、奥行き三十間余(約五十四メートル)の敷地があったが、明治初年に廃止となり、回向院の境内地や官有墓地、宅地などになっていった。
首切地蔵は、寛保元年(一七四一)に造立された石造の延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年(一八九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。
明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、二十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露店や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという。
荒川区教育委員会」
<題目塔> 荒川区文化財
元禄11(1698)年に寄進され、土中に埋もれていたのを慶応3(1867)年に再設置された題目塔です。
「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれています。
(標柱)
「荒川区指定 有形文化財・歴史資料 題目塔(元禄十一年二月中浣五日銘」
「元禄十一年(一六九八)ニ月十五日に京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により造立された題目塔。十七世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に、一切衆生の救済のため造立した題目塔のひとつであり、品川の仕置場等一○○基以上が確認されている。
十九世紀前半には土中に埋もれていたが、慶応三年(一八六七)、江戸の法華信者らによって再設置された。その際に小塚原の仕置場南端の日光道中沿いに移設し、小塚原の首切地蔵(区指定有形文化財)と並んで安置された。明治二十九年(一八九六)、土浦線・隅田川線開通時に線路の南側から現在地に移動した。近代以降、小塚原の仕置場跡を象徴する石造物として紹介され、広く知られるようになった。」
<馬頭観世音菩薩>
万延元(1860)年銘の馬頭観世音菩薩塔です。
<百度石>
大正5(1916)年銘の百度石です。
<子育て地蔵>
<金光稲荷>
三方に社号がありました。
<小塚原の首切地蔵> 荒川区文化財
寛保元(1741)年銘の首切地蔵です。
(標柱)
「荒川区指定 有形文化財・歴史資料
小塚原の首切地蔵
寛保元年(一七四一)に造立された延命地蔵菩薩。花崗岩製。台座に「願主 東都 浄心」、大坂西横堀住 石工 中村屋半六」、施主名の他、「奉納経 天下泰平 国土安穏」とあり、法華経の納経が行われたことが窺える。刑死者や行倒人等の無縁供養のため造られたといわれ、日光道中沿いにあったため、江戸に出入りする多くの人が、この地蔵の前で手を合わせたという。明治二十九年(一八九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。平成二十三年三月十一日、東日本大震災で被災して、解体されていたが、荒川区及び公益財団法人文化財保護・芸術研究助成財団の補助を始め、多くの方々の支援を受け、同二十四年修復工事が完了した。
昭和六十一年一月十三月指定 荒川区教育委員会」
「小塚原石地蔵」(「江戸の今昔」歌川広重 昭和7年)
左手に「題目塔」「馬頭観世音菩薩塔」が見えます。
○首切地蔵の修復
首切り地蔵ですが、東日本大震災で、お地蔵さんの左腕が落下、胴体部分がずれるという事態が発生しました。
解体し、復元されました。(2012年8月23日修復完了)
<「小塚原の首切地蔵」修復寄付募集のお願い>
<「小塚原の首切地蔵」修復事業のお知らせ>
修復工事は清水建設が担当しています。
「「小塚原の首切地蔵」は、江戸の刑死者をはじめとする無縁の供養のために小塚原の仕置場に建立されました。この地蔵尊は、鈴ヶ森と並び称された江戸の二大刑場の1つ「小塚原の仕置場」の象徴であり、柔和なお顔で時の流れを静かに見守り、江戸の歴史を今日に伝えてきました。
建立年代 寛保元年(一七四一)
法量 一丈二尺(約三・六m)
願主 東都浄心
石工 大阪西横堀 中村半六
材質等 花崗岩 20数個の石を組み合わせて建立
もとは、隅田川貨物線の南側に安置されていましたが、明治二十八年(一八九五)、鉄道敷設工事のため現在地に移設されました。地元の南千住の皆様に「延命地蔵尊」と呼ばれ、暮らしの安穏を見守る地蔵尊として親しまれています。
しかしながら、平成二十三年三月十一日午後ニ時四十六分に発生しました東日本大地震により、延命地蔵尊の左腕が落下、また胴体部分も大きくズレが生じ、倒壊の危険性が高くなったことから、三月十七日、荒川区文化財保護条例に基づく文化財修復のための補助を受け、第一期修復工事(解体施行:清水建設株式会社)を実施しました。
(以下、第二期修復工事の予定と寄進について記載)
平成二十三年三月吉日 延命寺住職 水野了尚」