Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 橋本左内

  国立国会図書館「近代日本人の肖像」を加工)
   天保5年3月11日(1834年4月19日)〜安政6年10月7日(1859年11月1日)

  


○橋本左内の墓旧鞘堂 荒川区南千住6-63-1(荒川ふるさと文化館)

 橋本左内は、福井藩主松平慶永に仕え、14代将軍に一橋慶喜を擁すべく奔走しましたが、
 安政の大獄により伝馬町牢屋敷に入牢、5日後に評定所にて死罪を申し渡され、伝馬町牢屋敷に戻り斬首されています。
 荒川ふるさと文化館の前には、芭蕉3Dアートなどの他、橋本左内の墓旧鞘堂と橋本左内像があります。

 ※評定所での死罪申し渡し後、伝馬町牢屋敷に戻されて斬首されたのか、小塚原で斬首されたのか、どちらが正しい?
  伝馬町牢屋敷で斬首が通例かと思いますが、
  中央区教育委員会「タイムドーム明石」の伝馬町牢屋敷の資料では小塚原で斬首とあります。
  福井市の「橋本左内の墓」碑では、「小塚原の露と消えるや、」とあります。
  旺文社日本史事典には「江戸小塚原で刑死。」とあります。

<橋本左内の墓旧鞘堂>

   

(説明板)
「荒川区登録有形文化財(歴史資料)
 橋本左内の墓旧鞘堂
 この套堂は、昭和八年(一九三三)に橋本左内の墓(区登録有形文化財<歴史資料>)を保護する(納める、覆う)ために造られた建造物です。大正十二年(一九二三)の関東大震災後に耐震性と不燃性の観点から注目されるようになった鉄筋コンクリート造で、規模は方一間(柱間一・九四メートル)、宝形造の屋根、軒裏および柱・梁等の軸部には、表面に人造擬石洗出・研出仕上げを施しており、伝統的な建築の意匠と近代的工法との折衷を図った近代仏教建築といえます。もとは回向院(南千住五丁目)境内入口にありましたが、平成十八年、套堂のみ区に寄贈され、同二十一年、ここに復元されました。
 当時、套堂の施主となったのは、橋本左内を追慕し、道徳を広く発揚することを目的として、明治三十五年(一九○二)に設立された景岳会で、事務所は福井県出身の学生を育英するため設けられた舗仁会内に置かれました。設計には、同会会員で建築家でもあった原田正があたり、歴史学者黒板勝美(古社寺保存会委員・東京帝国大学教授)に助言を求め、日本建築史を体系化した建築家伊東忠太(東京帝国大学教授・史蹟名勝天然記念物保存協会評議員)の監修を受けています。また、正面に据え付けられた陶製の橋本家の家紋のデザインは、福井県出身で、日本の陶彫のさきがけとして知られる沼田一雅(東京美術学校教授)によるものです。当代一流の学者の知識・技術・感性が結集した近代の貴重な文化財といえます。
  平成二十一年三月二十六日 荒川区教育委員会」

   

<橋本左内の墓旧套堂の復元と福井県の交流を記念して>

(説明板)
「橋本左内の墓旧套堂の復元と福井県の交流を記念して
 橋本左内の墓旧套堂」(区登録有形文化財<歴史資料>)は、もと回向院(南千住五丁目)の境内入口にあったものです。平成十八年、同院の境内整備の際、荒川区に寄贈されることになり、平成二十一年、ここに復元・保存されました。
 南千住には、この套堂ばかりではなく、福井県ゆかりの史跡や幕末の史跡が多く所在しています。回向院境内北側に新たに設けられた史跡エリアには、福井藩士橋本左内の墓、小浜藩士梅田雲浜の墓があり、また、回向院内には、小浜藩医杉田玄白らの「ターヘルアナトミア」の翻訳と「解体新書」の刊行を記念してつくられた観臓記念碑があります。これらは、地域の人びとにとって身近なものであり、福井県にとっても重要な史跡となっています。
 多くの方々のご協力を得て、この地に復元が叶った今、「橋本左内の墓旧套堂」は地域の歴史を伝えるモニュメントとして、また荒川区と福井県との交流の場として、新たなスタートを切ることになりました。
 平成二十一年三月二十六日  荒川区」

  

(橋本左内関連)
 ○ 伝馬町牢屋敷(終焉の地)
 ○ 橋本左内の墓(供養塔)


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