○ 日本橋小伝馬町
○ 十思公園
・時の鐘
・吉田松陰終焉の地
・杵屋勝三郎歴代記念碑
・忠魂碑・表忠碑
・十思公園裏門
○ 十思スクエア
○ 十思スクエア別館
・十思之疏
・牢屋敷の石垣
・小伝馬町牢屋敷展示館
○ 企画展「発掘!伝馬町牢屋敷」(タイムドーム明石)
○ 竹森神社
小伝馬町交差点にある地図です。
「日本橋小伝馬町名所・旧跡案内
旧石町時の鐘 伝馬町牢屋敷跡 吉田松陰終焉の地」
「三縁史蹟の碑」 中央区日本橋小伝馬町3-8
東京メトロ日比谷線小伝馬町駅4番出口の前に「三縁史蹟」の石碑があります。
「石町宝永時鐘」「江戸伝馬町牢屋敷跡」「吉田松陰先生終焉之地」の3史跡のことが刻まれています。
「昭和甲午歳」とあるので、昭和29(1954)年の建碑です。
「小伝馬町交差点 中央区」カッパ?カエル?の挿絵
水天宮のカッパでしょうか。
平成7(1995)年3月、地下鉄サリン事件の現場の一つとなった小伝馬町駅。
当時、サリンの撒かれた列車の後の列車に乗っていて、小伝馬町駅の手前で列車が停車。
車内アナウンスで先行列車でガソリンが撒かれたとの放送がありました。
列車はようやく動き、小伝馬町駅で運転打ち切り。地上に出ると異様な光景に驚きました。
撒かれたのはガソリンではなくサリンだとニュースで知って驚愕しました。
「時の鐘通り」
大安楽寺と十思公園との間の道は、「時の鐘通り」。小伝馬町から室町に至ります。
<十思公園ご案内>
文字の多い案内板です。
「江戸三縁史蹟
東京都指定有形文化財 鐘楼石町時の鐘 一口
所在地 中央区日本橋小伝馬町
所有者 中央区
銅鐘 高さ一・七米口径九三糎 宝永辛卯四月推名伊予藤原重休
昭和二十八年十一月三日 東京都教育委員会
江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鐚で四文ずつを商業地区の大町小町横町計四百十ヶ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京都に寄進した。」
「東京都指定旧跡 傳馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町五 所有者 東京都(中央區管理)
地積 一三・四五坪(二二尺四方)
昭和二十九年十一月三日 東京都教育委員会
伝馬町牢は慶長年間、常磐橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。
今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。
牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御?場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当ったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合せて九十六士に及ぶという。これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。」
「吉田松陰先生終焉之地
吉田松陰先生は天保元年(西暦一八三〇年)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。
幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の動きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から初めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の三回の取調べで死刑を覚悟した十月二十二日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に托したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問応答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。」
「平成二十六年八月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。
(昭和二十九年十一月「江戸史跡保存協賛会の江戸三縁史蹟」より作成)
中央区環境土木部水と緑の課」
オランダ商館長と随員一行の江戸参府の際の江戸での宿所が本石町の長崎屋で、長崎屋の裏の北側には石町の時の鐘があったことから、
「石町の鐘は紅毛(オランダ)まで聞こえ」と川柳に詠まれました。
(説明板)
「東京都指定有形文化財
銅鐘 石町時の鐘 所在地 中央区日本橋小伝馬町五 十思公園
江戸で最初の時の鐘は、本石町三丁目(現在の本町四丁目・室町四丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。
石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永三年(一六二六)に本石町三丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。
本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永八年(一七一一)に鋳造されたことがわかります。
「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和五年(一九三○)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。
平成十七年三月 中央区教育委員会」
石燈籠両基と石碑が三基建っています。
・中央の石碑
「吉田松陰辞世の歌碑」
「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂
十月念五日 二十一回猛士」
・右の石碑
「吉田松陰終焉の地碑」
表「松陰先生終焉之地 文部大臣荒木貞夫書」
裏「萩城址の東麓 宮崎八幡宮の附近より 掘り出したる石
昭和十四年六月 萩市有志者寄贈」
・左の石碑
「吉田松陰先生畧歴」
<吉田松陰像>
文政13年8月4日〜安政6年10月27日(1830年9月20日〜1859年11月21日)
「近世名士写真 其2」(近世名士写真頒布会 昭和10年)
(吉田松陰関連)
○吉田松陰終焉の地(十思公園) 本頁
・吉田松陰辞世の歌碑
・吉田松陰終焉の地碑
・吉田松陰先生畧歴
○伝馬町牢屋敷
○延命地蔵尊 (大安楽寺)
○御題目供養塔(身延別院)
○吉田松陰の墓(回向院)
○正松神社 (乃木神社境内摂社)
杵屋は江戸長唄三味線の家名です。
長唄の碑は、上野不忍池の弁天堂の境内にもありました。
「忠魂碑 明治丙午夏希典書」明治39(1906)年夏の建立。
「表忠碑 陸軍大将鈴木壮六書」昭和7(1932)年11月の建立。
福祉や医療の在宅支援の複合施設となっています。
十思スクエア別館の外壁に掲示されている「十思之疏」。
「旧十思小学校「十思之疏」の由来
旧十思小学校の前身となる「第一大区第一中学区第十六番小学十思小学校」は、明治10年(1877)に大伝馬塩町の地で創立されました。明治初年の行政区画(大区・小区制度)では「第十四小区」の学校として開校し、明治末年に大伝馬上町22番地(旧十思小学校の敷地)へ移転した後は、平成2年(1994)に閉校するまで多くの卒業生を輩出してきました。
なお、現存ずる旧十思小学校校舎(明治4年竣工)は、閉校後の改修を経て十思スクエア(複合施設)として活用されています。
開校以来の校名として用いられてきた「十思」の名は、中国・北宋時代の歴史書「資治通鑑」(1084年完成、司馬光著)に記されている「十思之疏」(天子がわきまえるべき十カ条の戒め<同百九十四巻>)の「十思」と、開校時の所在区画の「十四」が同音好字であることにちなんで名づけられたといわれています。
校訓でもある「十思之疏」の教えは、学び者なき芋もなお、人が生きていく上での大切な教えや智恵の道標として掲げられています。
平成29年3月」
「ー原文ー
見可欲則思知足
将興繕則思知止
処高危則思謙降
臨満盈則思?損
遇逸楽則思?節
在宴安則思後患
防壅敝則思延納
疾讒邪則思正己
行爵賞則思因喜而僣
施刑罰則思因怒而濫」
「ー意約ー
欲しいものがあっても、多くを望まないことを思う。
物事を行う時には、度をこさないようにすることを思う。
立場や地位が高くても、控えめな態度をとることを思う。
十分満足な時には、むしろ減らすようにすることを思う。
楽しみを味わうときには、程よく控えめにすることを思う。
遊び暮らしていると、身を滅ぼしてしまうことを思う。
正確な情報を得るには、周囲の意見を良く聞くことを思う。
悪口を憎むより、自分の言動を正しくすることを思う。
優れた功績をあげても、必要以上に褒めないことを思う。
過ちを罰する時には、感情的にとがめないことを思う。」
<地下から現れた牢屋敷の石垣>
十思公園に面した十思スクエア別館の壁際に、牢屋敷の石垣の一部が移築復元されています。
(説明板)
「地下より現れた牢屋敷の石垣
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長18年(1618)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。明治維新後、明治8年(1875)に市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。
平成24年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここに移築復元した石垣をはじめとして、複数の石垣の連なりが発見されました。牢屋敷は高さ7尺8寸(約2.4m)の高い塀でかこわれていたようですが、出土した石垣は、さらにその内側でもしっかりと敷地内を仕切っていたことがわかった貴重な発見です。石垣には一部途切れる箇所があり、そこに門柱の礎石が見つかりました。これは、角度によって門が見えにくい「埋門」と言われる、お城などによく用いられた施設と推測されます。
このほか、多数の上水木樋が見つかっています。木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある神田上水から引き込まれたものと思われます。
ここに展示してあるのは、図中の石垣Aを出土時とほぼ同じ形に積み直して移築復元したものです。これ以外のものには、当時の姿ではありませんが、同じく牢屋敷跡から出土した石を使って積んだものもあります。石は伊豆周辺で切り出された、主に安山岩が四角錘に加工されたものです。石には切り出す際についた矢穴という窪みが見られるものもあります。
平成26年 中央区教育委員会」
旧十思小学校の校舎が十思スクエアとなり、
小学校の体育館とプールが解体され、十思スクエア別館が建っています。
「十思スクエア別館」の2階は銭湯で、1階のエレベーターホールに「小伝馬町牢屋敷展示館」があります。
小伝馬町牢屋敷の模型とパネル数枚、外の地下に牢屋敷の井戸と水道管があり、
展示館というより展示スペースといった印象です。
(説明掲示)
「小伝馬町牢屋敷展示館
まちかど展示館は、地域に根づいたまちの歴史や記憶を区民等が自ら掘り起こし、展示や公開をすることで、地域文化の継承や住むまちに誇りや愛着心を育んでいただくため、区が公認し設置しているものです。
小伝馬町牢屋敷模型
牢屋敷は、慶長年間(1596年〜1615年)に常盤橋際から移って、現在の日本橋小伝馬町の十思小学校、講演、大安楽寺、見延別院などがある一帯の地域にありました。その面積2,618坪(8,637平方メートル)。周辺に土手を築いて堀をめぐらし、土塀に囲まれた場内に模型の諸施設がありました。
明治8年(1875年)市ヶ谷監獄ができるまでの約270年間に入獄した者は数十万人を数えたといいますが、幕末にいたり、蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英が投獄され、また安政の大獄の際、吉田松陰、橋本左内ら多くの志士たちが斬首の刑に処せられた痛ましい歴史を残しました。なお、磔や火刑に処せられる大罪人は、江戸市中引廻しのうえ、小塚原や鈴ヶ森へ送られました。
中央区まちかど展示館」
(文中の「講演」は「公園」、「見延別院」は、「身延別院」の誤記です。)
「主な施設の説明」
「伝馬町牢屋敷に収監された有名人@」
収監されていた人物の説明。
吉田松陰、高野長英、橋本左内、頼三樹三郎、渡辺崋山
「伝馬町牢屋敷に収監された有名人A」
八百屋お七、鼠小僧次郎吉、平賀源内
<出土した牢屋敷の井戸と水道管>
建物の外には、牢屋敷内のために使われていた上水井戸と上水木桶(水道管)を見ることができます。
(説明板)
「出土した牢屋敷の井戸と水道管
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康公が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長18年(1613)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。明治維新後、明治8年(1875)に市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。
平成24年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここに移築復元した井戸や水道管をはじめとして、多数の水道施設が発見されました。半ば外部と遮断された牢屋敷内において、水の確保がとても重要であったことを物語っています。この井戸は上水井戸、水道管は上水木樋と呼びます。上水井戸は上水木樋とつながって、水が中に溜まる仕組みになっています。
上水木樋は木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある、神田上水から引き込まれたものと思われます。いずれも「舟釘」と呼ばれる大形の釘でしっかりと固定、密閉されており、水が外に漏れ出さない工夫がされています。
このほか、複数の石垣が連なるように見つかりました。牢屋敷の内部も石垣で仕切られていたことがわかった貴重な発見です。
平成26年 中央区教育委員会」
タイムドーム明石(中央区立郷土天文館 中央区明石町12-1)で、企画展「発掘!伝馬町牢屋敷」が開催されていたので見てきました。
伝馬町牢屋敷跡から発見された石垣や上下水道などの遺構の写真、磁器や漆器などの食器、げた、瓦などが展示されていました。
(参考)企画展おしらせ(2022年2月26日(土)〜3月21日(月祝)
・常設展示室 100円 写真撮影不可
・特別展示室 無料 写真撮影可
(チラシ)
(資料)
伝馬町牢屋敷の図や、牢屋敷奉行石出帯刀の説明、牢屋敷に入牢した人物などが紹介されています。
伝馬町牢屋敷に入牢した人物のうち、鼠小僧次郎吉と橋本左内は伝馬町刑場ではなく小塚原刑場でそれぞれ磔・獄門及び斬首となっています。
小伝馬町牢屋敷は、現在の大安楽寺や身延別院、十思公園、十思スクエア辺りとされており、
大安楽寺は処刑場のあった場所とされています。
大安楽寺は、明治8(1875)年に大倉喜八郎と安田善次郎の所有地に、両氏等の発願により創建されました。
寺名の大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田の名に由来します。
<縁起等>
外壁に「縁起」と「江戸伝馬町処刑場跡」碑があります。
「江戸伝馬町処刑場跡」碑の裏面は「百度石」となっています。
<江戸伝馬町牢石垣之一部 江戸伝馬町牢井戸跡>
江戸伝馬町牢井戸跡の石垣の一部があります。
かつての処刑場の場所に延命地蔵尊が祀られています。
台座に「為戦歿殉難諸霊菩提」と刻まれています。
さらに下に「為囚死群霊離苦得脱」(山岡鉄舟筆による陽物額)と刻まれています。
「子育 息災
延命地蔵尊
真言 おん かかかび さんまえい そわか
安政の大獄で名高い吉田松陰を始めとする人々の伝馬町牢、
処刑場跡を供養するために建立された。
製作者 日展審査委員横江嘉純
御縁日は二十四日」
「江戸傳馬町牢御(たく)場跡」
裏面「刑場のあと」
<辯財天使神>
<宝安稲荷大明神>
<江戸八臂辯財天>
日薩上人が吉田松陰・橋本左内等小伝馬牢の獄死者追善のため建立したもの。
裏にあるのは、誰かの供養塔でしょうか。
<本堂>
<油かけ大黒天神>
<光明稲荷>
<鰻塚>
日本橋蒲焼商組合による鰻の供養塔です。昭和58(1983)年4月3日の建立です。
竹森神社は、龍閑児童遊園の横にあります。江戸七森の一つです。
<手水鉢>
<再建記念碑>
「竹森神社再建記念」
「昭和三十年十一月
竹森神社保存会
小伝馬町三丁目町会」
(掲示)
「小伝馬町三丁目の守護神である「竹森神社」は、江戸時代よりこの付近に竹やぶが多く、竹につながる町、竹職人の町ともいわれ、竹藪にちなんで竹森神社としたと言われている。
神体は伏見稲荷からもらいうけ、俗に「江戸七森」の一つに数えられて、江戸市中、数多い稲荷神社の中で由緒深いものとされている。
江戸七森
「椙森」すぎのもり 堀留
「烏森」からすもり 新橋
「初音森」はつねのもり 馬喰町
「柳森」 柳原土手
「あずまの森」 向島
「笹森」ささのもり 谷中
「竹森」 小伝馬町」
<神狐>
金網に囲まれた神狐です。
<社殿>
<例大祭>
例大祭は、5月の第二金土のようです。