Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 旧乃木邸と乃木神社

  ○ 乃木公園
  ○ 旧乃木邸
  ○ 乃木坂
  ○ 乃木神社
  ○ 宝物殿

 (参考)乃木将軍墓所


乃木公園 港区文化財 港区赤坂8-11-32

 乃木将軍の遺言により、乃木邸は東京市に寄贈され、大正2年に乃木公園が開設されました。現在は港区により管理されています。
 公園内に入ると、オブジェ「ひねり、うつり、ながれ」(津久井利彰、平成8年作)。
 公園入口右手に、東郷平八郎書の社号標「乃木神社 東郷平八郎書」があります。

    

(案内板)
「公園付近沿革案内
 この公園附近は、江戸時代の初期、青山常陸介忠成が家康の命をうけ、馬を乗り廻して賜わった土地で、力尽きて死んだ馬の塚を築き、駒留八幡といったという伝説がある。青山氏の敷地は現在の南北青山および赤坂7、8丁目を含む広大な地域であった。
 江戸時代末期このあたりは美濃郡上藩青山大膳亮の邸地で、明治維新後この一帯は新坂町と呼ばれ、名士の邸宅街となった。
 陸軍大将乃木希典は明治12年この地を買い求め、同35年新築をした。大将は大正元年9月明治天皇のあとを追い、夫人静子とともに自害して果てた。邸宅はその遺言により、東京市に寄付され、整備ののち公園として開園された。現在では、旧乃木邸を含めて区立公園として管理している。」

  
 

<江戸切絵図>

  
 

「樹に染まり96」

 津久井利彰、平成8年の作

   


旧乃木邸 港区文化財 港区赤坂8-11-32

 乃木希典は明治12(1879)年この地を買い求め移りましたが、母屋の老朽化が甚だしくなり、明治35(1902)年に改築(ほぼ新築)したのが現存する建物です。
 ドイツ留学の折に視察したフランス陸軍の兵舎をスケッチしたものをもとに自ら設計しています。

<門柱「舊乃木邸」>

 「舊乃木邸」「昭和四年三月建設 東京市」

    

(説明板)
「旧乃木邸
 旧乃木邸は、日清・日露の両戦役に従事し、明治天皇崩御と共に殉死された陸軍大将乃木希典の邸宅です。この邸宅は、フランス軍隊の建物を模して自ら設計したものと言われています。明治35年(1902年)に新築されたものです。
 本館は、木造の日本瓦葺きで、正面玄関から見ると全体が2階建てに見えますが、傾斜した地形が巧みに利用され、実際は半地下も含め3階建ての構造となっています。建築面積が168平方メートルの建物です。
 半地下には、台所・茶の間・納戸・浴室・書生部屋・女中部屋があり、1階は、応接室・客室・次室・来賓室・大将居室・夫人居室があります。屋根裏には、2人の令息の居室と物置・書庫が造られています。
 旧乃木邸と馬小屋は、大正元年9月13日乃木夫妻殉死後、遺言で東京市に寄付され、現在は港区が管理しています。
 また、夫妻の命日に合わせ毎年9月12日・13日に邸内を一般公開(無料)しています。
  高橋是清翁記念公園管理事務所」

   

(説明板)
「東京都港区指定文化財 有形文化財 旧乃木邸及び馬小屋
 旧乃木邸は、明治三十五年(一九〇二)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(一九一二)九月十三日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は一六八u、木造平屋建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。
 馬小屋は、平屋建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治二十二年(一八八九)に建てられた。間口約十二・五m、奥行約四・五mの細長い建物は、四つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。
  昭和六十二年十月二十八日  東京都港区教育委員会」

   

(説明掲示)
「乃木邸の由来
 乃木邸は明治十二年に買い求め、明治三十五年に改築されたものです。
(此の建物は明治十九年にドイツ留学中、フランスの陸軍訪問の折にスケッチした聯隊本部を参考に建てられています。) 」

  

 5・9・11月の一般公開以外は、乃木邸の周りに巡らされている外通路から、部屋内の見学となります。

     
 

「大東京寫眞帖」(1930年 国立国会図書館蔵)

 昭和5(1930)年の写真帖ですが、外通路がすでにあります。
 皆さん、外通路から覗いています。

  
 

<御供待所>

(説明掲示)
「乃木将軍は言うまでもなく日清、日露の両役に武功輝き又高風清節徳学高き人格者として一世の崇敬をうけた。
 陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵に叙せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ専ら華冑子弟の薫育に蒸したが大正元年九月十三日明治天皇御大葬の当日六十四才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。
 将軍の殉死せらるるや遺言して自邸を東京市に寄附せられた時の東京市長男爵阪谷芳郎は中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。
 将軍は嘉永二年十一月十一日麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ、「少年乃木無人所載年譜」安政五年十一月将軍十才の砌り一家と共に長門国長府に移った、幼名を無人とよび慶応二年六月十八才の折文蔵と改名した。明治二年十一月二十一才の時藩命により佛式練兵教習のため伏見御親兵営に入隊しその後京都市河東練兵場御親兵練武掛を命ぜられ又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台供の教育に盡したが明治四年十一月二十三才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。
 明治八年二十七才の時熊本鎮台歩兵第十四聯隊長心得となり同十年には西南の役に従軍四月二十二日中佐に任ぜられた。
 将軍の父希次は 同年十月東京に於て病没した。
 翌年十一年一月二十六日熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第一聯隊長となり、八月二十七日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが夫人は時に二十才であった。
 当時将軍は 芝桜川町に住んでいた。「山路愛山著乃木将軍」
 翌明治十二年八月二十八日長男勝典が生れ十一月に新坂町五十五番地に初めて邸宅を設けたのである。
 同十三年四月大佐に進み翌十四年二月次男保典が出生した。その後ドイツ留学、日清、日露両役に従軍 英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間 那須別邸に自適されたこともあったが本邸は依然として比地に在り、明治十二年以来三十四年間に及んだ。
 本旧邸は、素朴高潔であった。将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。
 因みに長男勝典中尉は 明治三十七年南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は 同年十一月三十日二〇三高地に於て戦死した。時に長男は二十六才、次男は二十四才であった。
 大将夫妻 及び両息子の墓はともに青山墓地にある。」

    
 

<旧乃木邸の煙突>

(説明掲示)
「旧乃木邸の煙突
 The Chimneys of Nogi Residence
 この煙突は、実際に旧乃木邸の屋根に設置されていた煙突の実物です。
 平成23年の東日本大震災の影響により被災したため、撤去しました。
 現在、旧乃木邸の屋根にある煙突はレプリカです。」

   
 

<乃木将軍銅版レリーフ>

 「献 大正四年九月十二日 陸軍大佐 塚田清市」

  
 

<乃木将軍と辻占売少年像>

 昭和43年に、乃木将軍の生誕地である旧ニッカ池(六本木六丁目)の縁に造立されましたが、
 六本木再開発に伴い池は消失、像は平成13年にこの地に移建されています。

    

(説明板)
「乃木將軍と辻占売少年像
 今に伝えられる「乃木大将と辻占売りの少年」の話は、明治二十四年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時八歳の今
越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。
 この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和四十三年に旧ニッカ池(六本木六丁目)の縁に造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることとなり、希典所縁のこの地に移建されました。
  平成十三年九月」

  


○厩と馬用井戸

 明治22(1889)年に、現存の母屋改築より先に建築されたもので、英国より取り寄せたレンガで作られています。
 人々は母屋に比べ厩が立派であったので『新坂の厩』(新坂は旧町名)と評しました。
 ステッセル将軍から贈られた壽号もここで過ごしました。

(説明掲示)
「厩(うまや)
 明治二十二年に新築されたものです。」

 愛馬用井戸も残されています。

    

(説明板)
「愛馬の由来
 正馬壽号は、「ステッセル」将軍の愛用した「アラビヤ」産の牡馬で明治三十八年一月五日水師営会見の際に乃木大将に贈らんとしたが大将はその志を謝し直ちにこれを受けとることは軍規の許さない事なので後日約してこれを「壽」号と名づけて戦役中乗用し凱旋後拂い下げを受け自分の馬として愛用した。
 大将は壽号を明治三十九年末に種馬として鳥取県赤崎町佐伯友文氏に贈られた。後大正四年五月同氏より島根県隠岐島村上寿夫氏に贈られ海士村渡辺淳三氏方で飼育中大正八年五月二十七日終命した。馬齢二十三歳でその仔馬は二十余頭に及んでいる。副馬「璞」号は去勢馬で仔馬なし。」

  


【庭】
<水師営のナツメ>

 日露戦争、水師営の会見の際、乃木将軍の副官である兼松が記念に持ち帰ったナツメ樹の3代目です。

(説明掲示)
「棗(なつめ)の標
 「水師営棗の樹の孫」」

  
 

<乃木大将えい血之處>

(説明掲示)
「乃木大将夫妻
 えい血之處
 (殉死された時の血のついた物を埋めるところ)」

    
 

<乃木家祖霊舎>

(説明掲示)
「ご祭神ご生前には、大神宮殿と、祖先の霊を祀る家廟があり、ご祭神はこれらを篤く祀っておりました。
この2つの神殿は、遺言に基づき、浄火で焼き、その後にご祭神が所持していた中野の家にあった社殿を移築したものです。
この小社には、乃木家祖先と御令息との御霊をお祀りしてあります。」

   
 

<灯籠>

(説明掲示)
「灯籠
 石材は門柱として準備されましたが適当でなかったため、そのまま邸内に保存してあったものを死去後親族が灯籠として建てたものです。」

   
 

<マッカーサーの植樹>

(説明掲示)
「マックアーサーの植樹
 終戦後マックアーサー将軍が植樹したアメリカハナミズキの樹」

   
 

<希典歌碑>

(碑文)
 「武士は     
  玉も黄金も
  なにかせん
  いのちにかへて
  名こそをしけれ 希典」

  
 

<旧乃木邸裏門>

 旧乃木邸裏門は、乃木神社参道に接しています。

    


乃木坂 港区赤坂8-11・9-6

 大正元(1912)年9月19日、乃木夫妻葬儀の日に赤坂区議会の決議により、幽霊坂は乃木坂と改名されました。

(碑文)
「乃木坂
 由来
 乃木大將の殉死された大正元年九月以来幽霊坂が乃木坂と改名された
  寄贈 東京赤坂ライオンズクラブ」

  


乃木神社 港区赤坂8-11-27 HP

 令和5(2023)年は乃木神社が鎮座してから百年という記念の年を迎えます。
 「令和五年 乃木神社御鎮座百年」

   
 

<乃木神社案内記>

  
 

<乃木神社境内案内図>

    
 

<社号標>

  
 

<洗心の井戸>

 非常災害用井戸(港区)で、手水舎にも供されています。

   
 

<手水舎>

 空襲により本殿以下社殿は焼失しましたが、手水舎と二の鳥居は戦災を免れました。

  
 

<乃木神社之碑>

 昭和6(1931)年5月の建立です。

  
 

<乃木神社復興之記>

 昭和53(1978)年6月の建立です。

  
 

<乃木神社参拝記念>

  
 

<茅の輪>

  
 

<竹添井々文学碑>

 「竹添井々文學碑」

「竹添井々略歴
 竹添進一郎、光鴻号は井々、天保十三年天草郡大矢野島に生る。出熊木下(韋華)村の門に学び、時習館居寮生となる。幕末戊申の役には肥後藩の参謀。時習館の訓導助勤後、明治五年から七年まで天名郡伊倉村に開塾。上京仕官、詩文の才を認められ朝鮮公使、東京帝大教授となる。棧雲峡雨日記、論語会箋、毛詩会箋、春秋左氏会箋等の著述多し。文学博士、大正六年歿七十六歳墓は東京小石川の護国寺」

 「雙殉行 井々竹添光鴻 大正元年作
  昭和五十六年七月 寄進」

    
 

<楷樹>

 楷の木は孔子の墓に植えられていることから日本では「孔子木」とも呼ばれています。
 樹姿端正で一点一画が整っていることから書法の楷書の語源であるとも言われている樹です。
 この楷は、孔子墓より種を持ち帰り育成された系統のもので、大正15年(1926)5月、林学博士中村弥六氏による奉納植樹です。

(説明掲示)
「楷樹
   植樹 大正十五年五月六日
   港区保護樹木指定 昭和四十九年九月
 林学博士・中村弥六氏の奉納植樹と伝えられています。大正四年日本で最初に白沢保美博士が 中国山東省曲阜県の孔子廟の子貢より種子を持ち帰り、育成された由緒正しい偕で 神田湯島聖堂と岡山県閑谷学校の楷と同系統のものです 楷とは樹姿端正で一点一画が整っていることから書法の楷書の語源になっています。
 また境内には、昭和天皇御在位六十年の記念樹の楷樹もあります」

  
 

<教育の碑>

 明治41(1908)年1月に乃木希典が学習院院長に任命された際、明治天皇から賜った御製(和歌)です。

(説明板)
「教育の碑
 明治天皇御製御製
   教育
  いさをある人を
   をしえの親にして
  おほしたてなむ
   やまとなでしこ
 明治四十年一月に御祭神乃木将軍が学習院院長に任命された頃に生徒心得の為に明治天皇より賜った御製であります 乃木将軍のような国家に勲功のある立派な人を学習院院長にして 大切な皇国の未来を担う子弟の教育に當らせたいという明治天皇のお気持ちがこめられています
 この碑は当時の御歌所所長 高崎正風氏が謹書したものを刻んだものであります」

   
 

<拝殿/狛犬>

    
 

<雷神木>

(説明掲示)
「昭和四十七年九月十二日午後七時天空より閃光走り轟音凄まじき落雷あり あはや本殿に多大な損害を被る処 この楠身代はりとなりその一撃を受け樹片境内に飛散するも本殿にひとつとして損すること無し その後もこの楠 枯れる事なく亭々として葉を茂らせ活気旺盛の霊力を示したり
 それよりこの楠を雷神が宿り悪事災難を取り除く雷神木と称したり」

   
 

<赤坂王子稲荷神社>

 昭和37年12月22日鎮座、王子稲荷神社の勧請です。

    

(説明板)
「境内末社
 赤坂王子稲荷神社 
   昭和三十七年十二月二十二日鎮座
 御祭神  宇伽之御魂神 宇気母智神
      和久産巣日神
 御鎮座の由来
 當神社は乃木将軍御夫妻又御両親崇敬特に篤く 月詣りまでせられた北区王子に鎮座の王子稲荷神社を乃木神社戦災復興竣成を機に勧請した縁の神社であります」

  
 

正松神社/さざれ石>

 「よりそひ橋」を渡って正松神社へ。
 橋の左手に「さざれ石」があります。

    

 昭和38(1963)年1月22日鎮座、萩の松陰神社からの勧請です。

   

(説明板)
「境内摂社
 正松神社
   昭和三十八年一月二十二日鎮座
   御祭神  正木文之進正?命
        吉田矩方松陰命
御鎮座の由来
 玉木文之進先生は 幕末維新に際し多くの偉人傑士を輩出した長州萩の学者であり 松下村塾の開祖であり 吉田松陰先生は 玉木先生の甥に當り その村塾を受継いで幾多の國士を養成せられた大教育者であり 國事に仆れた烈士であります 乃木将軍は吉田松陰先生の弟弟子として玉木先生に薫陶せられ 又吉田松陰先生を深く敬い 之が人格形成の基になったものと拝察致します 依て乃木神社戦災復興竣成を機に萩の松陰神社より二柱の御分霊を請受け 境内に鎮祭した縁の神社であります」

  


宝物殿

 入場無料です。
     

 乃木希典石膏像で、渡邊長男作です。朝倉文夫は渡邊長男の実弟です。
   

 ニューヨークタイムズ紙に乃木大将夫妻の自刃が第一面に写真入りで報道されました。
   

 殉死当日朝の写真。左に「純誠剛毅 澁澤榮一敬書」とあります。 (右は忠勇義烈、東郷平八郎書)
    


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