○ 尾崎家墓所
○ 斎藤家墓所
○ 大久保利通墓
○ 乃木将軍墓所
○ 三島家墓所
○ 赤い靴の女の子モデル(佐野きみ)像
○ 赤い靴の女の子・佐野きみ墓
尾崎紅葉は、塩原では、三島通庸、奥蘭田とともに、塩原発展の三恩人として奉られています。
<紅葉尾崎徳太郎墓>
正面「紅葉尾崎徳太郎墓」
裏面に、尾崎藤枝(尾崎紅葉の長女)、尾崎夏彦(尾崎紅葉の長男)。
<尾崎谷斎供養塔>
(碑文)
「赤羽織の谷斎として知られる尾崎谷斎(本名 惣蔵)は 文豪尾崎紅葉の実父で 幕末から明治にかけて活躍した象牙彫り 角彫りの名工であった
主に根付 髪飾り 茶道具等を得意とし その卓越した技芸に支えられた斬新 軽妙洒脱な作風は 明治の粋人 好事家に持て囃され一世を風靡した
近年世界各国の美術愛好家の間でも谷斎人気は高く 掌の彫刻と賞賛され 熱烈なコレクターも多い
2010年吉日 曾孫 尾崎伊策他 建之」
尾崎伊策氏は、尾崎紅葉の長男夏彦の次男です。
(参考)尾崎紅葉ゆかりの地
齋藤家墓所に、「齋藤家之墓」「墓誌」「茂吉之墓」とあります。
墓誌には、斎藤茂吉、斎藤てる子(茂吉の妻)、斎藤茂太(茂吉の長男)、斎藤徹三(茂太の三男)、美智子(茂太の妻)の没年が刻まれています。
<斎藤茂吉の墓>
斎藤茂吉の自筆の文字が刻まれています。
正面「茂吉之墓」
裏面「昭和二十八年二月二十五日没」
(参考)斎藤茂吉ゆかりの地
<大久保公神道碑>
明治43(1910)年9月建の巨大な「神道碑」です。
「贈右大臣従弐位大久保公神道碑」
巨大な手水鉢があります。
<大久保公夫人の墓>
「贈右大臣大久保公夫人増子君墓」
<大久保家墓所>
<大久保利通墓>
亀趺の墓石です。青山霊園では唯一の亀趺かと思います。
「贈右大臣正二位大久保公墓」
囲碁が趣味だった大久保利通の墓石には、亀趺の前に碁石が供えられています。
(説明板)
「東京都指定旧跡 大久保利通墓
所在地 港区南青山二 青山霊園内
(二区一種イ一五〜一九側一番)
標識 昭和十五年二月
指定 昭和三○年三月二八日
大久保利通(一八三○〜一八七八)は鹿児島藩大久保利世の長男として鍛冶屋町に生まれました。西郷隆盛とともに公武合体運動から倒幕運動に進み、岩倉具視らとは、王政復古を成功させます。明治政府が成立すると参与・参議として中核を担いました。明治四年に岩倉欧米使節団の副使として諸外国をめぐり、帰国後は内政の充実を唱え征韓論の西郷らと対立します。内務卿として権限を振るい、佐賀の乱や西南戦争などの反政府騒動を鎮圧する一方、地租改正反対一揆に対して地租を引き下げて農民を擁護し、板垣退助らと国会開設などの協議(大坂会議)を行います。大久保は、官僚政治家として日本の資本主義国家への基礎を築きましたが、明治一一年、島田一郎らに紀尾井坂で暗殺されました。
西郷隆盛・木戸孝允とともに、明治維新の三傑といわれています。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
<国葬/標>
大久保卿の葬儀は日本の国葬のモデルとなりました。
事件の際に大久保公が身に着けていた衣服が納められています。
(説明板)
「標
内務卿大久保利通は明治11年5月14日早朝、三年町(現在の千代田区霞が関)の自宅から赤坂の仮御所(現在の港区元赤坂)に向かうところを不平士族の襲撃に遭い、落命しました。公の遺骸は、日本の国葬のモデルとなった葬儀ののち、この地に葬られ、事件のあった場所近くの清水谷公園には哀悼碑が建立されています。事件の際に公が身に着けていた衣服は子孫により長年にわたって保管されていましたが、昭和に入り、ここに納められました。
平成30年5月14日 寄贈 植木由紀」
<中村太郎の墓 大久保家・馬の墓>
大久保利通が暗殺された際に、馭者台にいた中村も難にあい命を落とし、馬も斬られました。
手綱を握っていた中村と馬は大久保公に寄り添うように眠っています。
(説明板)
「中村太郎の墓 大久保家・馬の墓
中村太郎(1852?〜1878)は大阪(一説には大井川附近)で大久保利通と出会い、その人柄を見込まれ従僕として召抱えられました。身寄りがなく“中村太郎”の名は大久保公から賜ったものと伝えられています。大久保公の馭者を務めていたため、明治11年(1878)5月14日に清水谷(現在の千代田区紀尾井町)で公と時を同じくして難に遭い、短い生涯を終えます。
大久保家ではよく仕えた彼の誠心に報いて公と同日に葬儀を執り行い、公の傍らに手厚く葬りました。
また、遭難時に馬車を牽いていた馬も命を落としました。丁重に埋葬されたのち、墓も建立され、手綱を握った中村と共に公に寄り添うようにこの場所に眠っています。
平成30年6月14日 寄贈 吉田美穂」
「大久保利通肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
文政13年8月10日〜明治11年5月14日(1830年9月26日〜1878年5月14日)
<乃木将軍墓所>
平成10(1998)年に、乃木神社及び親族により外壁が補修されています。
<「勝典」「保典」墓>
日露戦争で戦死した二人の息子「勝典」「保典」の墓です。
側面に没年が刻まれています。
<乃木将軍父母の墓>
乃木将軍の父の希次、母の寿子の墓です。
<乃木希典、静子の墓>
「近世名士写真」(昭和10年 国立国会図書館蔵)(近代日本人の肖像)
嘉永2年11月11日〜大正元年9月13日(1849年12月25日〜1912年9月13日)
「乃木将軍写真画報」(大正15年 国立国会図書館蔵)
「乃木將軍御肖像/乃木靜子夫人御肖像」「乃木將軍夫妻御兩親、兩子息之寫眞及乃木家の系圖」
「乃木靜子夫人と勝典、保典兩氏」「乃木勝典、保典兩氏御肖像」
<乃木希典将軍と那須温泉>
乃木希典将軍は、毎年那須へ湯治に訪れていました。
大丸温泉旅館ロビーの一画に、乃木将軍の当時の着物や日記、旅館へ宛てた手紙などの品々が常時展示されています。
(参考)
・旧乃木邸と乃木神社
<殉死>
明治39(1906)年、帰国した乃木希典は明治天皇への復命に際し、多大な犠牲を出し(およそ5万、自分の息子2名も含む)「罪を償いたい」という乃木希典に対して、
明治天皇は今は死ぬべき時ではない。どうしてもというのであれば、朕が世を去った後にせよ、という旨を伝えたといわれます。
大正元(1912)年9月13日、明治天皇の大葬が行なわれた日の夜に乃木希典は自刃しました。
日露戦役紀念碑の揮毫は乃木希典による書が圧倒的に多いのも、5万人の犠牲者を出した自責の念から日露戦役紀念碑の揮毫に積極的に応じた証左かとも感じます。
戦国時代及び江戸時代前期の殉死は「衆道」と関わりがありましたが(「衆道と殉死」で記載)、乃木将軍の殉死はこれとは性格を異にしています。
三島通庸は、塩原では、尾崎紅葉、奥蘭田とともに、塩原発展の三恩人として奉られています。
塩原には「三島通庸紀恩碑」があります(こちらで記載)。
<三島通庸/和歌子の墓>
棹石が回転してずれています。
<三島通庸頌徳碑碑>
「三島通庸肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保6年6月1日〜明治21年10月23日(1835年6月26日〜1888年10月23日)
<三島弥太郎の墓>
三島通庸の長男。日本銀行総裁在職中に亡くなりました。
裏手には五男の三島弥彦の普通の大きさの墓がありました。
「三島弥太郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
慶応3年4月1日〜大正8年3月7日(1867年5月4日〜1919年3月7日)
<三島家之墓>
三島通陽(みしま みちはる)
明治30(1897)年1月1日〜昭和40(1965)年4月20日
三島弥太郎の長男。
ボーイスカウト日本連盟の創設者です。
ボーイスカウト日本連盟の那須野営場(那須塩原市西三島)は、三島家別荘の土地と家屋を通陽が寄附したものだそうです。
三島通陽にかかるモニュメントがあります。
「三島和歌子/三島弥太郎/三島弥彦」(塩原もの語り館掲示より)