○ 善養寺(江戸三閻魔)
・東叡山坂本口
・庚申塔
・木造閻魔王坐像(豊島区文化財)
・墓地への通路
【墓地】
・武蔵川喜偉之碑
・尾形乾山の墓(東京都旧跡)
・湯浅年子の墓
・町田家の墓
・一龍斎貞水顕彰の碑
薬王山延寿院善養寺と号します。
天長年間(824-833)に慈覚大師が上野山内に創立したと伝えられる天台宗の寺院です。
寛文年間(1661-72)に下谷坂本に移転した後、鉄道用地の拡張にかかるということで、明治45(1912)年に現在地へ移転し現在に至っています。
本堂には木造閻魔王坐像(豊島区文化財)が鎮座し、江戸三閻魔の一つです。
当寺は何回か類焼にあっているので現存の閻魔さまは運慶作ではないであろうと思われますと天台宗HPには記載されています。
「江戸東京四十四閻魔」の第三十番です。
右手前に「養玉院」、その上に「善養寺」が記されています。
境内に「ゑむま」が記されています。
本文には、薬王山善養寺の境内にある閻魔堂の閻魔王像は運慶作とあります。
ある人が言うには、野洲足利学校にあった霊像を移したものとあります。
「江戸切絵図」
善養寺が善性寺と誤記されているようです。
現在の当地(台東区上野7-15)は、鉄道が敷設され、多くの列車が行き交っています。
<善養寺>
「天台宗 善養寺」
(説明板)
「善養寺は、天長年間(八二四〜八三三)に、開基である慈覚大師が上野山内に創立したと伝えられる天台宗の寺院で、正式には薬王山延寿院善養寺という。東叡山寛永寺の末寺で、本尊は薬師如来像である。
江戸時代の寛文年間(一六六一〜七二)に下谷坂本(後の下谷区善養寺町、元台東区上野公園)に移転した後、境内地が鉄道用地の拡張にかかるといいうことで、明治四五年(一九一二)に北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字庚申塚三四七番地(現在地)へ移転し、現在にいたっている。
本堂には高さ約三メートルの木造閻魔王坐像(豊島区登録有形文化財)が鎮座し、広く信仰を集めていることから「おえんまさまの寺」とも呼ばれ、また、杉並区松ノ木三丁目に所在する華徳院、新宿区新宿二丁目に所在する太宗寺とともに、江戸三閻魔の一つとしても親しまれてきた。
境内には、寛永六年(一六二九)造立の石燈籠をはじめ、延宝八年(一六八〇)の駒型庚申塔、天明八年(一七八八)の宝篋印塔、また江戸時代中期に陶工・絵師として活躍した尾形乾山の墓(東京都指定旧跡)や、フランスでジュリオ・キュリー教授(キュリー夫人の娘婿)の指導を受けた原子物理学者湯浅年子の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。
平成十四年三月 東京都豊島区教育委員会」
<標柱「えんま大王」>
昭和47(1972)年と比較的新しい標柱「えんま大王」です。
参道敷石に悠々と寝そべるのは閻魔大王の眷属ですか?
茶色の猫はすぐ逃げます。
<石カエル>
境内と墓地に石カエルが置かれています。
本堂左手にある延宝8(1680)年銘の庚申塔です。
本堂扁額「薬王山」。
賽銭箱が扉内にあり、扉を少し開けると、ライトが点灯し閻魔王がライトアップされました。
<茶釜塚>
当寺には、茶道にも通じていた尾形乾山の墓があり追善茶会が行われたようです。
「有難や茶碗たのしみ一生を 道の教で吾ら極楽
塵外庵悟明 表千家宗悟」
<石仏群>
左から「地蔵」と「六地蔵」
右に4基の地蔵
<六地蔵>
<道標>
道標があります。大正元年9月建立なので、善養寺の下谷坂本から西巣鴨の移転に際して、
現地に道標を残したと思われます。
鉄道建設用地となった善養寺跡の東側(4丁23間)に建てた道標を、後年引き取ったのでしょう。
(正面)
「元下谷坂本善養寺道
是レヨリ四丁廿三間」
(左側面)
「大正元年九月立之」
<石燈籠>
寛永6(1629)年造立の石燈籠と思われます。
<尾先照稲荷>
四匹の狐に守られている「尾先照稲荷」です。
石祠の右側面に「尾先照稲荷 天長二乙巳年安置 薬王山 善養寺」とあります。
天長2年とは825年、善養寺創立当時です。どういった経緯なんでしょうか不思議な稲荷です。
小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人の小野篁ですが関連があるのでしょうか。
<井戸>
こし布が茶色に染まっているので、井戸水は鉄分が含まれているようです。
<宝篋印塔>
天明8(1788)年銘の宝篋印塔です。
墓地に入ってすぐに、「市川」と刻まれた石燈籠があり、
「武蔵川喜偉之碑」(日本相撲協会第4代理事長)があります。昭和63(1988)年1月30日の建立です。
「市川」「昭和廿九年三月廿三日」と刻まれた石燈籠です。
(碑文)
「武蔵川喜偉は明治四十二年三月一日東京府下南葛飾郡大島町に生る 姓は駒沢 名は国一 実父の知人本所警察署高野署長が横綱常陸山と同郷の縁にて出羽海部部屋に入門 大正十四年一月初土俵を踏む 入門後も府立三中現両国高校に通学し向学の念極めて強し 大正十四年五月出羽ノ子と名乗り新序 昭和二年一月出羽ノ花と改む 昭和七年二月新入幕時に二十四歳幕内在位十六場所 昭和十五年五月引退 市川姓に更る 年寄武蔵川を襲名し昭和二十年推されて理事兼勝負検査役 昭和三十五年取締となる この間経理建築土木を学び協会経営の近代化に盡瘁す 昭和四十三年理事長に就任 多年培いたる才能を発揮し顕著なる功績を挙ぐ 昭和四十九年相談役 昭和五十一年相撲博物館長となる 生来頭脳明明? 性情清廉潔白事に処するに熟慮断行協会の体制改革に敏腕を揮う 蔵前国技館の建設に当っては東奔西走 数多くの艱難を克服して完成し着々と業績を伸ばし経営の合理化健全化に全力を投入 両国新国技館新築の財源を蓄積してその基盤を鞏固にし、昭和六十年一月新国技館完成を見るや往時を顧み感慨無量なりしと推察す 昭和四十五年十一月多年の功を以て藍綬褒章を受章 昭和五十四年十一月勲三等瑞宝章を拝受する光栄に浴す 昭和六十二年五月三十日宿病のため天命を完す 協会は昭和六十二年六月二日協会葬を以て其霊を慰す 生前の功績を讃えて正五位に叙せらる 其栄誉燦として霊前に輝く
昭和六十三年一月三十日
理事長 春日野清隆撰文
九代目 出羽海智敬建立
二十五代式守伊之助謹書」
尾形乾山は琳派を創設した画家の尾形光琳の弟で、寛文3(1663)年に京都で生まれました。
画家としてだけではなく、書道や茶道にも精通し、陶芸では享保16(1731)年に入谷に窯を開き、作品は「入谷乾山」と呼ばれました。
(参考)「入谷乾山窯元碑」(こちらで記載)
寛保3(1743)年に亡くなり下谷坂本にあった善養寺に葬られます。
その後、墓の存在は忘れ去られていましたが、文政6(1823)年に酒井抱一らによって発見され、顕彰碑「乾山深省蹟」が建てられました。
明治末期に、善養寺の鉄道建設に伴う現在地への移転に際し、乾山の墓並びに酒井抱一の顕彰碑の所有権に紆余曲折があり、
複製を寛永寺境内に安置することで決着した経緯があります(天台宗HPを参照しました)。
(参考)「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟(寛永寺)」(こちらで記載)
戒名「霊海深省居士」
(説明板)
「東京都指定旧跡 尾形乾山墓並びに碑
所在地 豊島区二市巣鴨四の八の二五 善養寺墓地内
標識 昭和七年七月一日
指定 昭和三〇年三月二八日
尾形乾山(一六六三ー一七四三)は、京都の呉服商の家に生まれました。名を惟允、通称を権平、新三郎といい、乾山は号です。江戸時代中期の陶工、絵師として知られています。画法を兄光琳に、陶芸を野々村仁清に学び、京都の鳴滝、次に二条丁子屋町で作陶に励みました。その後、享保一六年(一七三一)に江戸下谷の入谷村に移り住み、窯を開きました。
寛保三年(一七四三)に亡くなり、下谷坂本の善養寺に葬られました。その後、彼の墓の存在は忘れ去られていましたが、江戸琳派の酒井抱一らによって発見され文政六年(一八二三)に顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられました。善養寺の移転などにより、数度の移動を経て現在の場所にあります。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
「乾山深省居士二百五十回忌供養」(平成3年6月2日 乾山顕彰会)
「乾山深省蹟碑」
文政6(1823)年銘の「乾山深省蹟碑」です。
裏面は、文政の文字は視認できますが、達筆すぎて読めません。
尾形乾山の顕彰碑の裏側に「ウイルソン・リチャード・L 小笠原佐江子」と刻まれた墓があります。
ウイルソン・リチャード・Lと妻の小笠原佐江子は尾形乾山及び乾山焼の研究家です。両者ともご存命です。
隣に石川狛山先生墓があります。
石川狛山は、江戸時代の書家、尾形乾山の弟子です。享保17年10月17日死去。
フランスでジュリオ・キュリー教授の指導を受けた原子物理学者湯浅年子(1909年〜1980年)の墓です。
<顕彰碑>
(碑文)
「湯浅年子
国際的に活躍した日本女性初の物理学者
一九〇九年東京に生まれる。東京文理科大学卒業後、四〇年渡仏。ジョリオ=キュリー夫妻に師事して原子核の実験的研究を開始。四三年フランス国家理学博士。大戦のため四五年帰国。母校・東京女子高等師範学校教授として後進の育成、お茶の水女子大学の設立に尽力。四九年再渡仏。以降フランスの原子核研究所にあって、β崩壊、原子核反応、少数核子系などの最先端の問題に挑戦、その優れた業績により世界的地歩を築いた。また日仏の研究協力に努めて学術交流に貢献した。比類なき行動力、溢れるばかりの知性と感性は人々を魅了し、その深い真情・思索に満ちた著作と、広い交友により、日仏の文化交流にも大きな足跡を残した。
一九八〇年パリに没す。享年七〇歳。
紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章
二○〇一年六月 有志一同」
<歌碑>
原子物理学者らしい歌碑です。
(碑文)
「ウィルソン霧函にヘリウムを満たして32Pのβ線軌跡を眺めつつよめる
淡雪の あはさにきゆる 霧の跡
ながある刹那を 我がとこしへに 年子
一九五〇年のノートより臨模」
新門辰五郎が婿入りした江戸町火消浅草十番組「を組」の組頭である町田仁右衛門ほか、町田家の墓です。
新門辰五郎も分骨されているとされています(ウィキペディア)。
新門辰五郎の墓は、近くの盛雲寺にあります。両寺とも、下谷からの移転です。
墓域修繕紀念
新門辰五郎の娘、お芳との説もあります。
「法林妙市信女
俗名町田いち 明治四十二年
行年六十二才 十二月一日歿」
人間国宝の講談師、一龍斎貞水さんの顕彰碑が建てられています。令和3(2021)年11月28日の建立です。
生前、お別れの会の開催を望んでいたものの、コロナ禍のため実現できなかったことから、故人を偲ぶ場所として顕彰の碑が建立されました。
正面「六代目一龍斎貞水」、左側面に直筆の座右の銘「言葉は心、芸は人」と刻まれています。
釈台と張り扇を模したものが置かれています。
右横には、長井好弘氏による弔文が刻まれた碑が建てられています。