Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 下谷道 背面地蔵尊/薬王寺


○背面(うしろむき)地蔵尊 台東区根岸5-18-5

<参道入口>

 吉野家の壁に「背面地蔵尊 参道入口」とあります。
 吉野家とスーパーの間が背面地蔵尊の参道です。

    

<参道>

 進みます、右手の排気ダクトから牛丼の香りの熱風にさらされます。
 排気ダクトからの熱風で、幟がくすんでいます。

     

 吉野屋の壁を抜けて振り返ると「背面地蔵尊」が祀られている地蔵堂があります。

   

<背面(うしろむき)地蔵尊の縁起>

 背面地蔵は正保4(1647)年の創立で、奥州裏街道の傍、 道路仏として西向きに立てられていました。
 後に明和元 (1764)年に道筋が寺の東側に改り、 地蔵尊を前向きに建て直したところ、
その夜、僧と石工の夢に、なぜ東に向けたのだ、古陸奥道の西に向いていたいと告げられ、すぐに西に向け元に戻しました。
 一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられて、 この尊称が起こったといわれています。

(説明板)
「背面(うしろむき)地蔵尊の縁起
 昔の昔この地蔵尊は上野から奥州へ向かう旧街道の傍らに在した。
その後道筋が改り、後背の箕輪町通りが新しく拓け、旧道に面していた地蔵尊が新道からはうしろ向きに見えるので、恰も此の尊称が起こったのである。
記録には、
「ここに又・不思議なるは御遷座の夜、主僧の夢に神人現わる。告げて曰く汝如何なれば我が面を東に向わしめたるや そもこの寺の西辺は古陸奥への駅道なり、我はその道に臨み西に向い立ちたるなり、とありければ主僧驚きて遂に石工を招き寄せ事の仔細を語り聞かせしに、石工も夢に同じ告を蒙りたりとて その夜のうちに御像を動かし面を西に向わし奉りぬ。
 さればその後参詣せし人々はその有様を見て、さても不思議なるかな昨日は東に向ひたまいしに今日は西に向はせられたりとて、その事たちまち四方に伝わり、背面地蔵の御名遠近に聞え渡りぬ」頃明和元年(一七六四)
こうして薬王寺の背面地蔵尊は本尊薬師如来の冶眼信仰と共に毎月の縁日で賑い栄えたのであった。
道路仏でもあり、延命子育てとしての地蔵信仰は今でも多くの人々に語り継がれている。
  寺史より抜粋」

  

「江戸切絵図」

 背面地蔵尊が存する薬王寺部分の抜粋です。

  

<背面地蔵尊>

 真新しい白い地蔵尊と、後ろに古い地蔵尊がいらっしゃいます。

     

 手水鉢

    

 古い地蔵尊の左右の脇に「正保四年亥十一月七日権大僧都西性慎白」と刻まれているようです。

   

 「創立一六四七年
  オンカァカァカ
  ビサンマエイソワカ」

  

<薬王寺社殿>

 左手の階段を上がると、薬王寺の社殿に出ます。

    
 

○東光山長命院薬王寺 台東区根岸5-18-5

 薬王寺は、寛永年間、天海大僧正の開山と伝えられています(一説には室町時代の創建とも)。
 西向きの正門です。「史蹟背面地蔵尊」の案内板が掲示されています。
 標柱「薬師瑠璃光如来 東光山薬王寺」とあります。

    

 表面から「史蹟背面地蔵尊」へ

   

<板碑> 台東区文化財

 台東区のHPによると、正平7(1352)年2月銘の阿弥陀三尊を主尊とする板碑です。台東区文化財です。
 天台宗東京教区の寺院紹介によると、南北朝時代の南朝年号は珍しく、貴重な歴史資料とされています。

   

<故陸軍歩兵一等卒勲八等埜中長太郎墓>

 砲弾が2発添えられているので日露戦争かもしれません。

   

<六十六部供養塔>

 墓地奥にある、明和4(1767)年銘の六十六部供養塔です。

    


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