Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○公春院
 ○真正寺


公春院 荒川区南千住1-32-9 HP

 徳川歴代将軍が三河島での鶴御成の際、鷹が鶴を捕らえて落下したのが、大抵、公春院の松の辺で、
 この松を頼りに捜索したといわれ「目当ての松」といわれていました(寺HP)。
 円通寺には将軍家光の放った鷹がとまった「鷹見の松」がありました。
 元文元(1736)年、九代将軍家重が三河島で鶴御成を行った際には、日慶寺(南千住)が御膳所にあてられました。
 三河島の鶴の「飼付場」は水田と湿地で、近くに木々があるのは、寺院の連なる下谷道です。
 鷹に追われた鶴は、下谷道沿の木々に向かって逃げたのでしょう。
 

<江戸切絵図>

 下谷道に面して「観音堂」「真正寺」「公春院」と並んでいます。
 下谷道の両側に通新町が細長く続いています。

  
 

「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)

 三河島村での「鶴御成」の位地関係です。

  
 

<参道>

 国道4号線に面して、参道があります。

    

 左の門扉には葵紋があります。

   
 

<公春院の松>

 公春院の松は、昭和9(1934)年に枯死したため伐採されています。3つの由縁がありました。

 ・将軍秀忠公がこの地に鷹狩りした時、一羽の鷹が梢にとまったので「鷹止り松」といわれていました(荒川区史)。
 ・徳川歴代将軍が三河島方面狩猟の際(鶴御成)、鷹が鶴を捕らえて落下したのが大抵この辺で、
  この松を頼りに捜索したといわれ「目当ての松」といわれていました(寺HP)。
 ・当寺が新しい寺院ではないことをこの松が証明したため「証拠の松」といわれていました(荒川区説明板)。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 公春院の松
 公春院の巨松は、明治の末ごろで周囲が約四メートル、高さ十四メートル、樹齢は優に五百年を越すものであったといわれる。
 『遊歴雑記』(文政十ニ年(一八ニ九))にも、東武三十六名松の1つ「証拠の松」として記されている。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当寺の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明した。以来「証拠の松」とよばれるようになったという。
 寺内に、天明七年(一七八七)銘太鼓、紙本着色仏涅槃図、寛文十年(一六七○)銘手水鉢などがある。
  荒川区教育委員会
 欄外:松は現存しません。昭和九年六月に枯死したため伐採されました。
 明治四十二年撮影の写真のみあります。」

   
 

<車善七の墓>

 荒川区史(昭和11年)によると、車善七の墓があったと記載されています。
 過去形で記載されているので、当時から現存していないのでしょう。

  
 

<題目塔>

 文化13(1816)年銘の題目塔です。

   
 

<三界萬霊塔>

  
 

<手水鉢> 荒川区文化財

 寛文10(1670)年銘の荒川区内で最古の手水鉢です。

  
 

<観音堂記/子育地蔵>

 「観音堂記」と「子育地蔵」です。

  
 

<本堂>

 公春院の正式名称は「満海山 公春院 千日寺」で、扁額「満海山」が掲げられています。

   


真正寺 荒川区南千住1-56-9

 円通寺の隣に真正寺はあります。
 四ツ谷天龍寺を開山した特賜心翁永伝禅師大和尚の隠居寺として、慶長13(1608)年に湯島に開山。
 浅草への替地を経て、寛文元(1661)年に当地へ移転してきました。
 「真正寺門前町」も同時につくられ、明治2(1869)年に「下谷真正寺町」と改め、明治12(1879)年に「下谷通新町」に合併されました。
 

<江戸切絵図>

 下谷道に面して「観音堂」「真正寺」「公春院」と並んでいます。
 下谷道の両側に通新町が細長く続いている中、ポツンと「門セン」があります。

  
 

<山門>

 国道4号線に面して、山門があります。

  

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 真正寺門前
 寛文元年(一六六一)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約千六百平方メートル)ほどの土地であるが、本区におけるただ一つの門前町である。
 町奉行支配地で、寛延ニ年(一七四九)三月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治ニ年(一八六九)地名を下谷真正寺町と改めたが、明治十ニ年(一八七九)下谷通新町に合併された。
 荒川区教育委員会]

  
 

<藤棚と噴水>

 参道に噴水があります。水はありません。

  
 

<有縁無縁永代供養塔>

     
 

<本堂>

    


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