下谷は寛永寺(現上野公園)の東側一帯をさし、台地であった上野に対する名称です。
○ 下町まちしるべ「旧南稲荷町」 別頁
〇 下谷神社 別頁
〇 西町太郎稲荷神社 別頁
〇 下町まちしるべ「旧北稲荷町」
〇 廣徳禅寺遺趾
〇 永昌寺(講道館柔道発祥の地)
〇 東京メトロ上野検車区 別頁
〇 斎藤長秋三代の墓(法善寺) 別頁
〇 源空寺/史蹟墓地 別頁
下谷神社前交差点の北側に「旧北稲荷町」、
交差点の南側の下谷神社の境内に「旧南稲荷町」の旧町名由来案内が設置されています。
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 北稲荷町
明暦三年(一六五七)の江戸大火後、江戸各地の寺院がこの付近に移転してきた。そして、唯念寺、成願寺、宗源寺、西蓮寺の各門前に町屋が形成された。この頃、唯念寺の門前町屋は、町内に
稲荷神社があったので、俗に稲荷町一丁目と呼ばれていた。また、成願寺の門前町屋は稲荷町といっていた。
明治二年(一八六九)、これら門前町屋 は、隣接する辻番屋敷を合併して下谷稲荷町と名付けられた。稲荷神社は、現在の下谷神社のことである。
明治五年、下谷稲荷町は現在の浅草通りで南北でわけられるとともに、この地は永昌寺、広徳寺ほか六ケ寺の寺地を合併して下谷北稲荷町が誕生した。そして明治四十四年に下谷の二字をはずして北稲荷町となった。
「永昌寺」は講道館柔道発祥の地である。創始者の加納治五郎は明治十五年に東大を卒業すると永昌寺に下宿し、学習院の教師をしながら寺の一室で柔道を始めた。 台東区」
廣徳禅寺遺趾は、昭和46(1971)年まで当地にあった広徳寺の趾です。
広徳寺は、早雲寺の子院として元亀・天正の頃(1570-92)小田原に創建された寺院で、
小田原城落城の際に焼失し、徳川家康が神田に再興、寛永12年(1635)当地に移転しました。
「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれるほど広大な敷地を擁していました。
広徳寺は、練馬区へ移転し、跡地に台東区役所が建っています。
石碑には、練馬区への移転に際して住職雪底和尚の詠んだ句が刻まれています。
(説明板)
「廣徳禅寺遺趾
この地は、昭和46年まで廣徳寺があった場所で、この石碑は、練馬別院に移転の際に、廣徳三十世雪底和尚によって詠まれた七言絶句を記したものです。また、石碑の裏側には、廣徳寺が移転した理由が記されています。
なお、この解釈にあたっては、廣徳寺海雲和尚のご協力を賜わったものです。
【七言絶句】
高掲法幢三百戴 タカク ホウトウヲカカゲテ サンビャクネン
(禅宗を掲げて下谷の地に移って、300年が経った)
已憂斯地累兒孫 スデニ コノチヲウルエテ ジソンニツナグ
(時代の移り変わりや環境の変化もあったが、今日まできた)
無邊廣大先人徳 ムヘンコウダイナル センジンノトク
(未来永劫受け継がれるためにも、代々、世のため人のためにおこなってきた)
纔勒碑陰去故園 ワズカニ ヒインヲオサメテ コエンヲサル
(碑陰(石碑の裏面)を記して この地を去ります)
【石碑裏面】
廣徳寺は、希叟宗罕禅師が明叟和尚を小田原に招き、創建したとされ、その年代は元亀天正の頃と推定される。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉により小田原城が落城し、その際、廣徳寺も焼失した。
その後、徳川家康が江戸の神田(昌平橋付近)に再興。そして寛永12年(1635年)に下谷に移っておおよそ300年が経った。当時は、江戸屈指の禅林と仰がれた。
昭和45年9月、台東区より敷地を新庁舎建設用地として懇望され、時代の情勢を鑑み、これを受託し、練馬の別院へ移すことにした。
この地を去るにあたり、先人達の深い恩に感謝し、石碑を建て移転の経緯を記し、後世に残すものである。
平成二十九年十月十三日 台東区」
(碑文)
「広徳禅寺遺趾
頌日
高掲法幢三百載
己憂斯地累兒孫
無邊廣大先人徳
纔勤碑陰去故園
廣徳三十世 雪底謹織」
<台東区役所>
<カタツムリに乗っているこどもの像>
公園内にある像ですが、ネットで探すも作品名、作者名、設置年と不明です。
カタツムリに乗っているのは妖精?こどもが巨大化カタツムリに乗っている?
空に向かって何を表現しようとしているのかも不明です。
<蝉>
公園内の時計塔に蝉のオブジェがとまっています。
京町公園(台東区千束)でも同じ時計塔と蝉を見ました(こちら)。
開けると時計の操作盤があるのでしょうか?
「江戸名所図会」
広大な広徳寺が描かれています。
手前の道は「下谷通り」と記載されており現在の浅草通りです。
「江戸切絵図」
下谷の広徳寺とその周辺の抜粋です。
広徳寺前の「下谷稲荷」が小さく見えます。
「永昌寺」は「永照寺」と記されています。
「江戸の花名勝会 を 十番組 中村歌右衛門/下谷広徳寺/下谷」(三代豊国 国立国会図書館)
「江戸の華名勝会」は、江戸町火消「いろは四十八組」の各組の名所旧跡を紹介しています。
「を組」(新門辰五郎が有名)には、「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれるほど広大な敷地を擁していた「下谷広徳寺」が描かれています。
「大田南畝」(肖像2之巻 野村文紹)
大田南畝は「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺」と詠んだといわれています。
出典がみつけられないので、大田南畝が詠んだことにされているのかもしれません。
朝日山願成院永昌寺と号します。
永昌寺は、朝日長者が尊譽榮全を招いて永禄元(1558)年に下谷長者町に創建、寛永14(1637)年当地へ移転したといいます。
「講道館柔道発祥の地」として知られています。
<講道館柔道発祥の地>
(説明板)
「講道館柔道発祥の地
台東区東上野五丁目一番二号 永昌寺
明治十五年(一八八二)、講道館柔道の創始者嘉納治五郎(一八六〇〜一九三八)が
友人や門弟とともに稽古をはじめたところが、当下谷永昌寺の書院であった。
これが今日、 世界各国に普及し国際的な広がりを持つ講道館柔道の発祥とされている。道場となった書院の広さは十二畳、初年の門弟は九人であった。
同年夏、 当時の住職朝舜法(一八三七?一九一四)の協力を得て、玄関脇の空地に、十二畳のバラック建て道場を新築したが、
翌十六年(一八八三)神田に移った。
永昌寺は、浄土宗で永禄元年(一五五八)下谷長者町に創建、寛永十四年(一六三七)現在地に移転した。大正十二年の大震災により当時の建物は焼失している。
境内の「講道館柔道発祥之地」と刻む自然石の記念碑は、 昭和四十三年十月、嘉納治五郎没後三十周年を記念し、講道館が建立した。
平成十三年三月 台東区教育委員会」
(碑文)
「明治十四年 嘉納治五郎は東京大学を卒業 学習院に奉職したが翌十五年二月より当寺内に居住して同寺書院を道場として学生を養柔道を中心とする訓育を始めた。これが今日国際的な広がりを持つに至った唯一の国技講道館柔道の発祥である
時に治五郎は年二十三才 道場の広さは十二畳 初年の入門者は九名 当時住職は朝舜法大和尚であった」
「講道館柔道発祥之地 嘉納履正書」
<本堂/下谷長者墓塔>