○ 江戸町一丁目
○ 江戸町二丁目
○ 揚屋町
○ 角町
○ 京町一丁目
○ 京町二丁目
江戸町通り「吉原公園」入口脇に設置されています。
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 浅草新吉原江戸町一丁目
元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五カ町であった。そのうちの江戸町一丁目は元和四年の吉原開設とともにできたが、はじめは本柳一丁目と呼ばれていた。その後、江戸が大変繁盛していたことから、これにあやかって江戸町一丁目と改称した。 台東区」
「動力龍吐水格納庫」「吉原六ヶ町会 浅草防犯健全協力会」
吉原公園内に「動力龍吐水格納庫」が置かれています。
江戸時代に、龍吐水(りゅうどすい)と呼ばれる木製の腕用ポンプが開発され、町火消組で使用されていました。
放水する様子が、龍が水を吐くように見えたことから名付けられたといわれています。
放水距離が短く水量も少なく、火災を消火できるほどではありませんでした。
(板橋区立郷土資料館の解説では、龍吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものと言いきっています。)
火災の延焼阻止には家々を破壊するいわゆる破壊消防がもっぱら用いられました。
さて、動力とあり、どんな消火ポンプが格納されているのでしょうか。京町公園にもあります。
浅草防犯健全協力会のHPを見ると、個室付き浴場業者と物件所有者で組織されています。
(参考)
石神井神社(越谷市西新井)の龍吐水(こちらで記載)
(参考)
ポンプ車及び輅車(らくしゃ) 板橋区立郷土資料館(こちらで記載)
(説明板)
「ポンプ車及び輅車
明治3年(1870)にイギリスから輸入されたのが、この形式のポンプ車の始まりである。同17年には警視庁で製作され、実際に配備された。こうして江戸時代以来の「竜吐水」は廃止された。
竜吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものであり、直接消火に役立つものではなかったが、ポンプ車はこの意味でも画期的なものだった。
輅車は普通、消防自動車に詰まれ、火災現場に到着すると降ろし、これを引いて走りながらホースを伸ばすものである。」
仲之町通り「よし原大門」の脇に設置されています。
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 浅草新吉原江戸町二丁目
元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五カ町であった。そのうちの江戸町二丁目は元和四年(一六一八)にできたが、はじめは本柳二丁目と呼ばれていた。その後、江戸が大変繁盛していたことから、これにあやかって江戸町二丁目と改称した。 台東区」
千束四丁目交差点の仲之町通り側に設置されています。
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 浅草新吉原揚屋町
元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。揚屋町ができたのは、吉原が新吉原へ移転する際に、それまで各町にあつたいくつかの揚屋を一力所にまとめたときである。 台東区」
千束四丁目交差点「新吉原会館」の角町通り側に設置されています。
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 浅草新吉原角町
元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。そのうちの角町は寛永三年に京橋角町の傾城屋約十軒が移転してできた町である。 台東区」
「千束保健センター交差点」の京町通り側に設置されています。
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 浅草新吉原京町一丁目
元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊廓開設を許可した。遊廓は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。そのうちの京町一丁目は元和四年にできた町で、名の起こりは、そこで営業していた者の多くが京都出身者であったことに由来している。 台東区」
京町通り「京町公園」内に設置されています。
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 浅草新吉原京町二丁目
元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊廓開設を許可した。遊廓は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。そのうちの京町二丁目は一丁目より遅く、元和六年(一六二○)頃にできた町で、大阪や奈良から移ってきた人達が営業をはじめた。 台東区」
<京町公園>
京町公園は、間口が狭く奥行きが長く、かつての楼閣の名残りです。
時計塔には蝉のオブジェがとまっています。
トイレの外には、起きているフクロウと寝ているフクロウがいます。
以前のすべり台 現在のすべり台
フラワーカップの遊具や、回転遊具などがあります。
「動力龍吐水格納庫」「吉原六ヶ町会 浅草防犯健全協力会」
公園内に「動力龍吐水格納庫」が置かれています。
江戸時代に、龍吐水(りゅうどすい)と呼ばれる木製の腕用ポンプが開発され、町火消組で使用されていました。
放水する様子が、龍が水を吐くように見えたことから名付けられたといわれています。
放水距離が短く水量も少なく、火災を消火できるほどではないため、
火災の延焼阻止には家々を破壊するいわゆる破壊消防がもっぱら用いられました。
さて、動力とあり、どんな消火ポンプが格納されているのでしょうか。吉原公園にもあります。
浅草防犯健全協力会のHPを見ると、個室付き浴場業者と物件所有者で組織されています。