Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 板橋区立郷土資料館

  ○館外展示
  ○館内展示
  ○屋外展示


○板橋区立郷土資料館 板橋区赤塚5-35-25 HP

   

館外展示】

<新藤楼玄関>

 板橋仲宿にあった遊郭「新藤楼」は、昭和18(1943)年で営業を終了し、その後は病院などとして転用されます。
 建物を取り壊すことが決まったため、明治19(1886)年建造の玄関部分が昭和49(1974)年に、ここに移築・保存されています。

(プレート文)
「新藤楼(しんふじろう)玄関
 江戸時代中山道第一の宿場として栄えていた板橋宿は、明治16年の鉄道開通、同17年の火災により次第にさびれていった。そのため、宿場の旅籠業者は再起策の一つとして明治19年に建てられた北豊島郡役所(板橋3丁目)周辺に移り、旅館業というよりは、実態を遊郭に変え営業を開始した。
 この建造物は、板橋遊郭中最大の規模を誇った新藤楼の玄関で、寺社建築に用いられている、唐破風造りを取り入れた豪華なつくりとなっている。区内では残り少なくなった明治期の建築として貴重であるばかりでなく、板橋宿の旅籠の変貌を伝える資料でもある。
 現在地へは昭和49年に移築したが、長い間の風雪により痛みがひどくなったため平成4年に保存修理工事を行った。」

   

<板橋と遊郭>(館内展示)

 「近代の板橋宿の遊郭概略図」に新藤楼などが記載されています。

   

<砲口三基>

 郷土資料館入口前に、砲口が三基並んでいます。
 カノン砲が3基と、カルロンナーデ砲(船用)が1基です。

   

    

館内展示】

 写真撮影可です。

   

<板碑>

 左は建長4(1252)年銘板碑(延命寺複製)と、右は建長7(1255)年銘板碑(龍福寺複製)。

     

<元徳元年銘宝篋印塔(複製)>

 松月院の墓地にある元徳元(1329)年銘の板橋区内最古の宝篋印塔です。

   

<志村坂上富士大山道道標(複製)/庚申塔(複製)>

 左は、志村坂上の寛政4年(1792)年建立の道標。
 右は、志村坂上の万延元年(1860)年建立の庚申塔道標。
 (現地の道標をこちらで記載しています。)

  

<大堂銅鐘(国重要美術品)>

   

<いたばしの成り立ち/いたばしの遺跡>

  

<いたばしの中世>

  

<いたばしの近世>

  

<鉄砲稽古場徳丸原>

 鉄砲稽古場徳丸原と高島秋帆関連の展示があります。

   

「高島四郎太夫砲術稽古業見分之図」(天保12年(1841)5月)

 天保12(1841)年に徳丸ヶ原で行われた砲術演習を描いた絵図です。
 高島秋帆が指揮し、多くの大名や鉄砲方が見学に訪れました。

  

 徳丸原出土砲弾(砲術調練の不発弾)が展示されています。

  

<モルチール砲>

 展示室入口に、モルチール砲が展示されています。

    

<江戸近郊の農村>

 江戸近郊の農村について徳丸大根の絵図などの展示があります。

   

<彩色大根之図>

 様々な大根について描かれた絵図です。
 練馬大根以外にも、徳丸大根や志村沢庵大根や志村夏大根など、板橋区内の地名を冠する大根が描かれているとのことです。

  

 徳丸大根の背景には、左手に「徳丸村」「御用畑」「御洗所」「納屋」「干場」とあります。
 御用畑で収穫した大根が干場で干されています。
 右手に「御本丸」「日本橋」とあり、日本橋を経て御本丸(江戸城)へ運ぶことを示唆しています。

    

「彩色大根之図
 江戸時代
 板橋区域の地名のついた大根(志村沢庵大根・志村夏大根・徳丸大根)など、10種の野菜が描かれています。」

  

(参考)御前栽畑(こちらで記載

屋外展示】

<ポンプ車及び輅車(らくしゃ)>

(説明板)
「ポンプ車及び輅車
 明治3年(1870)にイギリスから輸入されたのが、この形式のポンプ車の始まりである。同17年には警視庁で製作され、実際に配備された。こうして江戸時代以来の「竜吐水」は廃止された。
 竜吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものであり、直接消火に役立つものではなかったが、ポンプ車はこの意味でも画期的なものだった。
 輅車は普通、消防自動車に詰まれ、火災現場に到着すると降ろし、これを引いて走りながらホースを伸ばすものである。」

    

<古民家>

     

(説明板)
「古民家ー母屋・納屋・井戸小屋
◆古民家
 昭和四十六年に徳丸五丁目の田中茂雄氏から寄贈されたもので、屋根は茅葺きの寄せ棟造りで、内部は土間と四つ間取りの部屋がある関東地方では代表的な造りの農家建築です。
 建築時期は江戸時代後期のものと推定されますが、移築されるまでのおよそ百年間に改築が行われ、 建てられた当時のものではありません。
◆納屋
 昭和四十七年に蓮根二丁目の中村辰三氏から寄贈 されたもので、切り妻・瓦葺きで一階の床が板張りとなっていました。
◆井戸小屋
 昭和四十八年に大門の須田新次氏から寄贈されもので、このような「つるべ井戸」は、庭の東隅に 掘られることが多かったようです。
  郷土資料館」

  

<旧田中家住宅> 板橋区文化財

(説明板)
「景観重要建造物
「旧田中家住宅」
 旧田中家住宅は、板橋区有形文化財に登録されており、建物は江戸時代の典型的な茅葺を施した農家建築として、その外観は、かつての武蔵野の面影を残す貴重な景観資源であることから、板橋区景観計画における景観重要建造物に指定しています。
(景観法台十九条第一項)
  板橋区都市整備部都市計画課」

  

<漬物樽(つけものだる=とうご)>

(説明板)
「漬物樽(つけものだる=とうご)
 沢庵漬け用の大樽である。板橋区や練馬区は、江戸時代から練馬大根の生産地として有名で、大半は漬物として年間を通じて重宝された。ここにある木製の漬物用大樽は、板橋区大門の漬物商が使用していたもので、別名「とうご」と呼んでいる。この樽で大根4千本以上が入る。
 このような大樽は、最初酒造用に用いられ、次に味噌・醤油と経て、最後が漬物用となった。100年間は持つといわれ、ときどき竹製のタガを取り替えた。樽の値段は、昭和10年代で新品200円、昭和40年頃の中古の樽では5〜10万円であったという。」
  板橋区大門 本橋金平氏寄贈」

   

<石造文化財>

(説明板)
「郷土資料館中庭所在の石造文化財
 当館の中庭には、この後ろと左手の植え込み内に、庚申塔三基と、馬頭観音、不動明王、石燈籠、狂歌碑、狛犬、種類不明各一基の、合計九基の石造文化財があります。
◆庚申塔
 庚申塔は庚申信仰の庚申待・庚申講によって造立された石造物です。
 康申信仰とは、人の体内にはみな三尸という三匹の虫がいて、毎日宿っている人の罪や過ちを観察し、庚申の日(六十日に一回まわってきます)に人が眠ると、三尸が人の体内から抜け出して天帝に宿っていた人の罪過を報告し、それによって天帝がその人の寿命を削ると考えられた信仰です。
 そこで、庚申の日の夜に人々が集まり、三尸が体内から抜け出さないように、お祈りや飲食をともにして徹夜をするという風習がありました。この集まりが庚申待・庚申講です。
 板橋区では、平成十六年時点で確認できた区内所在一九四基を、同年度区の文化財として登録しました。
◆石製馬頭観音
 馬頭観音は六観音の一つで、慈悲を本誓とする菩薩であるにもかかわらず、この観音像だけは常に恐ろしげな表情をし、頭上に馬の頭をつけています。
 この観音は動物や畜生道に苦しむものを擁護するとされ、また馬頭を持つところから、江戸時代以降馬の守り仏として信仰されるようになり、大量の路傍の石仏が造立されました。
 板橋区では、平成十八年時点で確認できた区内所在五三基を、同年度区の文化財として登録しました。
◆石製不動明王
 不動明王は大日如来の忿怒像として、種々の煩悩を焼き尽くし、悪魔を降伏させ、行者を擁護して菩提を得させる明王として信仰されました。
 板橋橋区では、平成十八年時点で確認できた区内所在二〇基を、同年度区の文化財として登録しました。
  平成二十五年十一月  郷土資料館」

  

<建物前所在資料寄贈文化財銘文等 ご案内>

 このような案内板には感謝します。

  

<庚申塔>

 宝永元(1704)年銘の庚申塔です。

  

<馬頭観世音>

 文政3(1820)年銘の「馬頭観世音」です。

  

<奉献石燈籠>

 寛永寺の四代将軍家綱霊廟への
 伊予国大洲藩三代藩主加藤泰恒(奉献時は初名の泰経)による奉献石燈籠です。
 「奉献上石燈籠兩基
  東叡山
  嚴有院殿 尊前
  延宝九(1681)年辛酉五月八日
  従五位下 加藤遠江守藤原泰経」

   

    

<庚申塔道標>

 若木から移設の庚申塔道標です。
 (左側面)「東ハ いた者"し 江戸道」
 (右側面)「南ハ 祢里ま 大山道」

  

<不動明王像/庚申塔>

 宝暦10(1760)年銘の不動明王像です。
 享保8(1723)年銘の庚申塔です。

  

<狂歌碑>

  

<庚申塔三基>

 庚申塔が三基並んでいいます。左から、
 元禄16(1703)年銘の青面金剛庚申塔
 貞享5(1688)年銘の庚申文字塔、下に三猿
 宝永7(1710)年銘の庚申文字塔、下に三猿

  

【古民家裏】

<石造物群>

 一番左の珍しい形の庚申塔を始め、石造物がズラリと並んでいます。
 馬頭観世音文字塔、宝永5(1708)年銘の聖観音菩薩像、享保8(1723)銘の地蔵菩薩像(墓石)、
 文政13(1830)年銘の馬頭観音菩薩坐像、稲荷大明神御宝前(享保17(1732)年)と並びます。

   

    

<出世稲荷神社>

 出世稲荷神社の石祠、神狐、扁額とあります。

   

    


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