Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 石川啄木ゆかりの地

 【本郷
  ○ 石川啄木・金田一京介旧居 赤心館跡 (本郷)
  ○ 石川啄木歌碑 (本郷:蓋平館別荘跡)
  ○ 喜之床旧跡  (本郷:理容アライ)
  ○ 近代文学発祥の地本郷(石川啄木歌碑)
  ○ 当地ゆかりの文人たち(石川啄木)
  ○ 松坂屋質店跡 (本郷:利用した質店)
  ○ 青山博士像  (本郷:主治医の銅像)

 【千駄木】
  ○ 観潮楼歌会  (千駄木:森鴎外居宅)

 【湯島】
  ○ 石川啄木歌碑 (湯島:切通坂)

 【銀座】
  ○ 石川啄木歌碑 (銀座:朝日新聞社跡)

 【小石川
  ○ 石川啄木終焉の地(小石川:終焉の地)
  ○ 石川啄木歌碑 (小石川:終焉の地)
  ○ 石川啄木顕彰室(小石川:終焉の地)

 【西浅草】
  ○ 石川啄木歌碑 (西浅草:等光寺)

 【上野
  ○ 石川啄木歌碑 (上野駅)
  ○ 石川啄木歌碑 (上野駅前商店街)

 【浅草】
  ○ 十二階下   (啄木遊興の地)

 【神楽坂】
  ○ 相馬屋    (愛用の原稿紙購入先)

  石川啄木像(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
   明治19(1886)年2月20日〜明治45(1912)年4月13日

    


○日記に見る啄木の実像と短歌の解釈

 石川啄木の「ローマ字日記」を読むと、「一握の砂」や「悲しき玩具」は、啄木の実像から真意が読み取れる気がして感心します。
 明治42(1909)年4月7日から6月16日までは、ローマ字で日記を書きましたが、妻に読ませたくないからがその理由ですが、
 節子夫人は女学校で英語も勉強していたからローマ字は読めたはずでしょう。
 啄木は「日記」は燃やすように妻に言いましたが、妻は啄木への愛着から燃やしませんでした。
 経緯を経て遺族(石川正雄)から昭和23(1948)年に出版されました。
 ※日記からの引用は、「石川啄木 啄木日記」から行いました(感心・感謝)。

 ・ 一握の砂
 ・ 悲しき玩具
 ・ 見舞金
 ・ うそつき
 ・ 推論


一握の砂】
 啄木が生前に出した唯一の歌集です。
 悪行のかぎりが歌の背景にあるので、タイトルは「一悪の砂」とも理解できます。

○「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」に見る実際の啄木像

 『一握の砂』に収録されている歌です。

<はらけどはたらけど>

 石川啄木の態度は日記に見ることができます。
 東京朝日新聞社に入社して、病気ではないのに仮病でよく休みました。
 晩年は本当の病気で入院・自宅療養で休みました。休んでいても基本給と賞与は支給されました。
 「神よ、もしあるなら、ああ、神よ
  私の願いはこれだけだ、どうか、
  身体をどこか少しこわしてくれ、痛くても
  かまわない、どうか病気さしてくれ!
  ああ! どうか……」(「ローマ字日記」明治42年4月10日)

 東京朝日新聞社での勤務内容は日記に見ることができます。
 昼食後に出勤して17時半に帰る日課が「はたらけどはたらけど」とは思えませんね。
 「昼飯を食っていつものごとく電車で社に出た。
  出て、広い編集局の片隅でおじいさんたちと一緒に校正をやって、夕方五時半頃、第一版が校了になると帰る。
  これが予の生活のための日課だ。」(「ローマ字日記」明治42年4月7日)
 第一版の校了が早く済むといつもより早く帰ります。
 「社では今日第一版が早く済んで、五時頃に帰って来た。」(「ローマ字日記」明治42年4月9日)
 この他に夜勤が月に5日ありました。
 明治43年10月から、3日に一度と夜勤が増えますが、健康と才能を尊重するため12月をもって夜勤は辞めます。
 「健康と才能とを尊重する意味に於て十二月末、事を以て之を辞したり。」(「日記」明治44年、前年(四十三)中重要記事より)

<一握の砂の執筆>

 東京朝日新聞社は何でクビにならなかったのかと思えるほど仮病でよく休みました。
 「にせ病気をつかって五日も休んだのだから、予は多少敷居の高いような気持ちで社に入った。無論何の事もなかった。」(「ローマ字日記」明治42年4月18日)
 いったん出社しますが、また仮病で休みます。
 「手を見つつ」という散文を一つ書き上げた。」(「ローマ字日記」明治42年5月5日)
 「「一握の砂」というのを別に書き出した。」(「ローマ字日記」明治42年5月7日)
 会社を仮病で休んで働けど働けど書いた歌です。

<日記に見る収入>

 石川啄木は、朝日新聞社で、月に5日以上の夜勤がある校正係の仕事をしています。
 生活が苦しくなるほど朝日新聞社の正社員の給料は安かったのでしょうか。
 日記には「月給二十五円前借した」(「日記」明治43年4月1日)とあるので、現在の価値にして月給は25万円です。
 月給25万円は基本給で、これに夜勤手当1万円が5日分プラスされて、月給は30万円です。
 ちなみに嘱託社員(在宅勤務)の夏目漱石は200万円、二葉亭四迷は100万円、森田草平は60円の給料でした。
 彼らは文筆が仕事なので在宅勤務ですが、石川啄木は新聞紙面の第一版の校正が仕事なので会社に出社する必要がありました。

 「妻の勘定によると、先月の収入総計八十一円余。」(「日記」明治43年4月4日)とあるので、
 給料と他社からの原稿料・歌壇選者の謝礼で月の収入は81万円です(借金も収入に含めているようです)。
 月収81万円で生活が苦しいのは、遊興費につぎ込むからではないのですか。

 遊ぶ時は「いかにして誰から金を借りようかと考えている」(「ローマ字日記」明治42年4月10日)とあります。
 給料の前借は自分の金ですが、借金は返済するつもりのない他人の金なので、日記では前借するとお金のないことを嘆き、借金と区別しています。
 明治43年10月から、夜勤は3日に一度と増え収入は増加しますが、健康と才能を尊重するため12月をもって夜勤は辞めます。
 「健康と才能とを尊重する意味に於て十二月末、事を以て之を辞したり。」(「日記」明治44年、前年(四十三)中重要記事より)
 明治43年12月に「俸給二十八円」に昇給します(よく休むのに昇給するとは朝日新聞社の対応に感心します)。
 なお、賞与も支給されています。

 明治43年12月の収入を見ると165円65銭で、このうち朝日新聞社からの給料は44円(本俸27円前借+夜勤手当9円+朝日歌壇手当8円)と賞与が54円です。
 支出は164円です。なぜこんなに支出が多いのか理解に苦しみます。夏目漱石の破格の月給200円でようやく生活できるレベルです。
 女遊びは日記をローマ字から日本語に戻してからは記載が見られませんが、
 飲食を伴う西洋料理の外食、自宅での高級な食事、文房具や書籍等、金銭感覚なく消費しているとも推測されます。
  明治44年2月4日に入院、3月15日に退院してからの日記には、病後の心は浅草の雑踏に堪えなかったと心境に変化があります。
 「土岐君と丸谷君が来た。夕方三人で出かけて初めて電車にのつて浅草に行き、米久といふ牛屋に入つてひどい目にあつた。
  予の病後の心はとてもあの雑沓に堪へなかつた。一刻も早く浅草を逃げ出したい! さう言つて早速帰つて来た。」(「日記」明治44年4月7日)
 明治44年3月15日に退院してから明治45年4月13日に亡くなるまで、自宅療養で出社していませんが、
 節子夫人が毎月の給料前借27円(28万円全額はダメだったようで)を受け取りに行っています。12月には前年の54円の半額以下ですが賞与20円を受け取っています。

(参考)明治43年12月の収入(「日記」明治44年巻末補遺)
 「五四、〇〇   社の賞与
   五、〇〇   米内山より御礼
   三、六五   十二月分俸給前借残り
   三、〇〇   精神修養稿料
   一、〇〇   秀才文壇稿料
   一、〇〇   早稲田文学稿料
  二五、〇〇   宮崎君より補助
  二七、〇〇   一月分俸給の内前借
   九、〇〇   夜勤手当
   八、〇〇   朝日歌壇手当
  一五、〇〇   協信会より借入
   五、〇〇   書籍質入
 計 百六十五円六十五銭
 而して残額僅かに一円二十一銭に過ぎず。不時の事のための借金及び下宿屋の旧債、医薬料等の為にかくの如し。猶次年度に於て返済を要する負債は協信会の四十円及び蓋平館に対する旧債百余円也。」
 (※宮崎郁雨からの借入は補助扱いにしています。蓋平館に対する旧債百余円が残っている状況です。)

<勤務期間>

 明治42(1909)年3月1日に採用されます。明治44(1911)年2月4日「慢性腹膜炎」のため東京帝国大学医科大学附属病院に入院します。
 明治44(1911)年1月30日の最後の出社まで、東京朝日新聞社に出社していた期間は1年11ヶ月です。
 明治44(1911)年3月15日に退院しますが、明治45(1912)年4月13日に亡くなるまで自宅療養のため出社はしていません。
 働いていませんが給与28万円が引き続き支払われ、明治44(1911)年12月には賞与も支給されています。
 働いていないのに給与も賞与も支給されたのは、盛岡中学の先輩である佐藤編集長の取り計らいのようです。
 出社していない期間を含めて3年1か月半の東京朝日新聞社の社員の期間でした。

<違った解釈>

 一般に解釈されている内容とは違った解釈をすれば、
 いくら小説を書いても、小説では評価されず、執筆に苦労するわりには儲からない状況です。
 小説で売れている夏目漱石の手は、東京朝日新聞から月給200万円をもらっています。
 自分は文学で身を立てるはずが、文学を紡ぐ天才のこの手でなぜ身を立てられないのかと考え込んでいるように思えます。
 収入より支出が多ければ生活は苦しいはずです。いくら手を見つめても生活は楽にはなりません。
 石川啄木は本心を歌に詠み、読み手は字句通りに解釈することを想定した壮大な掛け言葉の歌かもしれません。
 松尾芭蕉「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」に通じる天才を感じます。
 

○「京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」に見る実際の啄木像

 日記に仕事の忙しさを探してみましたが、普段は煙草を吸う余裕ある校正の仕事で、早く終われば五時半には家に着いています。
 普段は忙しくなく灯がともる前に帰っていますが、二人休んだ時が忙しかったとありました。自分は平気で欠勤しますが、他の人が休むと忙しいと言う啄木です。
 「社では木村、前川の両老人が休んだので第一版の校了まで煙草ものめぬ忙しさ。」(「ローマ字日記」明治42年4月22日)

<違った解釈>

 いつもはさほど忙しくない校正の仕事である。予を含めて五人で校正をしているが、今日はたまたま老人が二人休んだ。
 第一版が校了する頃は灯がともっていて、いつものように明るいうちに帰れず煙草を吸えないぐらい忙しかったことを歌っています。

 東京朝日新聞社跡の歌碑
  
 

○「殴らむといふに 殴れとつめよせし 昔の我のいとほしきかな」に見る実際の啄木像

 『一握の砂』に収録されている歌です。
 小樽日報社では無断欠勤をとがめられ事務長と口論となり殴られて辞めています。
 「十二日夕刻の汽車にて帰り、社に立寄る。小林寅吉と争論し、腕力を揮はる。退社を決し、沢田君を訪ふて語る。」(「日記」明治40年12月12日)
 東京朝日新聞社では仮病で休んでも殴られることもないどころか何も言われないので仕事を続けらたことが伺えます。
 「にせ病気をつかって五日も休んだのだから、予は多少敷居の高いような気持ちで社に入った。無論何の事もなかった。」(「ローマ字日記」明治42年4月18日)
 

○「小奴といひし女の やはらかき 耳朶なども忘れがたかり」に見る石川啄木の実像

 『一握の砂』に収録されている歌です。
 小樽日報で一緒に働いていた野口雨情によれば、妻子がありながら恋することができたのは心の焔があったからで作品に現れていると書いています。
 「石川啄木と小奴 野口雨情
 妻子がありながら、しかも相愛の妻がありながら、しかもその妻子までも忘れて、流れの女と恋をすることの出来たゆとりのある心こそ詩人の心であつて、石川の作品が常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、皆恋する事の出来る焔が絶えず心の底に燃えてゐたから、それがその作品に現れてきてゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつたならば、その作品は死灰しかいの如くなつて、今日世人から尊重されるやうな作品は生れて来なかつたかも知れない。」(「青空文庫」より引用)
 

○「一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと」に見る実際の啄木像

 『一握の砂』に収録されている歌です。
 友人たちの援助で放蕩三昧の生活ができているのに、金を借りた相手を死ねと祈っていたとはなんということでしょう。
 普通なら心に思うだけですが、啄木はこの歌を『一握の砂』に採用して出版しています。
 そんな啄木に金田一京助は、自分の蔵書を売ってまで金を工面しました(総額で100円(現在の価値で100万円)。
 そんな啄木に息子の金田一春彦は、母から聞かされた話から「石川五右衛門は石川啄木の兄貴か何かであるように思った」。
 石川啄木から酒と女を教えられた北原白秋からは10円(=10万円)、土井晩翠夫人からは10円(=10万円)借りています。
 小樽日報で同僚だった野口雨情からは金を借りた記録はありません。
 夏目漱石からは本を借りただけですが、夏目漱石夫人からは病気見舞で7円(=7万円、森田草平が尽力)と10円(=10万円)の2度もらっています。
 若山牧水は啄木の最期をみとった友ですが、雑誌出版と自宅建設に伴う多額の借金を抱えており、金を借していない友人ですが、
 土岐とともに「悲しき玩具」の出版に奔走し、前渡しで20円を得て啄木に渡しています。
 相馬屋の原稿用紙に書いた啄木借金メモによると、啄木の記録だけで借金は1372円50銭にのぼっていました。
 友人からの借金は収入簿では補助と記載しており、返すつもりはなかったようですが、
 蓋平館の下宿代の滞納等は返済を要する負債として日記に記しており、返すつもりだったようです。
 蓋平館に対する負債130円は、啄木の死後刊行された『啄木全集』の印税から、100円に減額してもらって返済されました。
 蓋平館の下宿代は、部屋代が4円、食費が7円(まかないの食事は下宿代滞納で出されなくなる)で、
 9か月の生活での滞納金にしては多いように思えますが、下宿代のほかに宿に立て替え払いさせていた分もあるようです。

<違った解釈>

 友が金を貸してくれるのは、予を憐れんでいるからで、愛されることは耐えがたい侮辱だ。
 みんな死んでくれればいいと思っても誰も死なない、敵にしてくれればいいと思っても敵にもしてくれない。
 金がないことによる束縛から逃れたい。

 以下日記から、上記のように解釈しました。
(日記)
「みんな死んでくれればいい。」そう思っても誰も死なぬ。「みんなが俺を敵にしてくれればいい。」そう思っても誰も別段敵にもしてくれぬ、友達はみんな俺を憐れんでいる。ああ!なぜ予は人に愛されるのか?なぜ予は人を心から憎むことができぬか?愛されるということは耐えがたい侮辱だ!」(「ローマ字日記」明治42年4月10日)
 宮崎君からの啄木の家族を連れて上京させるとの手紙を読んで、家族に対してもみんなが死んでくれるか、予が死ぬかと思った啄木です。
(日記)
「宮崎君の手紙を読んだ。ああ!みんなが死んでくれるか、予が死ぬか。二つに一つだ!」(「ローマ字日記」明治42年4月16日)
「そして返事を書いた。予の生活の基礎は出来た、ただ下宿をひき払う金と、家を持つ金と、それから家族を呼び寄せる旅費!それだけあればよい!こう書いた。そして死にたくなった。」(「ローマ字日記」明治42年4月16日)
 みんな死なないから自分が死にたくなった啄木ですが、蓋平館別荘での下宿代の滞納は、金田一君の保証で119円余を10円ずつ月賦にしてもらい、引っ越し先の費用と家族の旅費は宮崎君が支払いました。
 

○「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」に見る実際の啄木像

 『一握の砂』に収録されている歌です。
 浅草の活動写真館の館内の様子が歌われています。啄木は活動写真館を出た後、一時期、浅草十二階下の銘酒屋で遊びました。
 啄木は日記では「塔下苑」と名付けて、「地上の仙境」と書いています。
 啄木の借金は生活のためと言いつつ、遊興費に消えていきました。
「凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり、此処に住むものは皆女なり、若き女なり、家々御神燈を掲げ、行人を見て、頻に挑む。或は簾の中より鼠泣するあり、声をかくるあり、最も甚だしきに至つては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、“チヨイト”“様子の好い方”“チヨイト、チヨイト、学生さん”“寄つてらつしやいな”塔下苑と名づく。蓋しくはこれ地上の仙境なり。」(「日誌」明治41年8月21日)

   浅草十二階と銘酒屋                    等光寺の歌碑
    
 

○「たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず」に見る実際の啄木像

 『一握の砂』に収録されている歌です。
 啄木の妹である三浦光子(ミツ)さんは、兄が母をおんぶするなど、絶対にあるはずがありませんと書いています。
 「老体にて二階の上り下り気の毒なり」(「日記」明治44年8月2日)と思っても戯れに背負うことはありません。
 「私には母をなるべく長く生かしたいといふ希望と、長く生きられては困るといふ心とが、同時に働いてゐる……」(「日記」明治45年1月23日)とも書いています。
 「もうお前の心底をよく見届けたと、夢に母来て 泣いてゆきしかな。」(「悲しき玩具」収録の歌)

<違った解釈>
 次のような理解も成り立つのではと思いました。
 この歌は親孝行を歌ったものではなく、長生きされては困るから、たわむれに母を背負って捨てにいこうとしているところです。
 あまりに軽くて労せずに捨てられると思うと長生してほしい希望が交錯して悲しくなって母を捨てまいと三歩歩まず泣いてしまいます。
 捨てられることを察して背負られている母も泣いています。
 松尾芭蕉のごとく、文学作品上の創作のようです。
 

○「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」に見る実際の啄木像

 『一握の砂』に収録されている歌です。
 日記から上野に関する記事を探すと、上野駅に夜行列車で上京した母親と妻、子を迎えに行ったことや、
 上野から田端まで汽車に乗ったこと、4月は花見に上野によく行ったことが記されています。
 明治42年4月の日記には、下宿代の催促があり、どこかへ行きたい。金田一君のインバネスを松坂屋へ持って行って、二円五十銭借り、
 人の沢山いるところは厭、雨の後の人の少ない上野だ!と思って行くと、上野ステーションの汽笛が聞こえ、
 行ったことのない所へ行きたい!と思いますが、馬鹿な!と思いながら西洋料理を食べて帰ります。
 「故郷の自然は常に我が親友である。しかし故郷の人間は常に予の敵である。」(「日記」明治39年7月19日)と思っている啄木です。
 日記からは、借金の催促がつらくなってどこかへ行きたいと上野に行くことはあっても、故郷を懐かしんで上野駅に行くことはありません。
 会社へ行く路面電車の中で、たまたま見かけられて故郷の人に話しかけられることが度々ありましたが、懐かしむことのない啄木です。
 読者の解釈を想定して文学作品として創作できる天才啄木です。

<違った解釈>
 故郷のなまりを聞くと、故郷の人間は嫌いだから懐かしくないが、故郷の自然は懐かしく思い出される。

 金田一春彦揮毫歌碑(上野駅前商店街)  上野駅15番腺ホーム歌碑
   


悲しき玩具一握の砂以後―】
 『悲しき玩具一握の砂以後―』は啄木没後、土岐善麿と若山牧水によって刊行された第二歌集です。
 タイトルは啄木の随筆『歌のいろいろ』に記載されている「歌は私の悲しい玩具である」から、土岐善麿が命名しました。
 収録の歌に「玩具」が二首出てきますが、「おもちゃ」と振り仮名が振られています。
 啄木にとって「玩具(おもちゃ)」は「歌」のことで、歌は創作(嘘)なので
 タイトルは「悲しき嘘」とも理解できますし、金のないことが背景にあるので「金なき玩具」とも理解できます。
 

○「何故かうかとなさけなくなり 弱い心を何度も叱り 金かりに行く」に見る実際の啄木像

 『悲しき玩具』に収録されている歌です。
 遊ぶ時は「いかにして誰から金を借りようかと考えている」(「ローマ字日記」明治42年4月10日)石川啄木でした。
 明治42年5月1日の日記では、給料を前借して金を手にして、
 質屋に入れていた友人の時計を出すか、下宿代を払うかどちらにするか悩んだ末に、千束町に行って、女遊びで金を使います。
 「宿に帰ったのは十二時であった。不思議に予は何の後悔の念をも起さなかった。」後悔しないから同じことを繰り返すのですね。

<解釈>
 借金をするときの借金先へ、本心とは異なる口上を詠んだものとも解釈できます。
 

○「二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな。」に見る実際の啄木像

 『悲しき玩具』に収録されている歌です。
 東京朝日新聞社での校正係の仕事は、月に5日の夜勤がありました。
 明治43年10月から、3日に一度と夜勤が増えますが、健康と才能を尊重するため12月をもって夜勤は辞めます。
 「健康と才能とを尊重する意味に於て十二月末、事を以て之を辞したり。」(「日記」明治44年、前年(四十三)中重要記事より)

 夜勤の帰りは、瀧山町の社屋を出て、銀座通りにある東京電車鉄道の竹川町停留場で新橋方面から来る赤電車(最終電車)に乗って、
 上野広小路停留所では乗換える切通線は終わっており、上野広小路から人力車に乗って、あるいは歩いて本郷弓町の借家へ帰りました。
 (※明治44(1911)年に東京市が民間鉄道三社を買い上げて、東京市電気局鉄道となりました。)

 「途中にて乗換の電車なくなりしに、
  泣かうかと思ひき。
  雨も降りてゐき。」(『悲しき玩具』より)

 回数券を買っていた啄木ですが、電車賃がないことも多々でした(その時は会社に行かないだけです)。
 「社に行って何の変ったことなし。
  昨夜最後の一円を不意の宴会に使ってしまって、今日はまた財布の中にひしゃげた五厘銅貨が一枚。
  明日の電車賃もない。」(「ローマ字日記」明治42年4月28日)

<解釈>
 啄木の実情は、夜勤は月に5回で2晩おきまでの夜勤はしていません。なお、昇給した時に夜勤はやめています。
 また、切通坂は12時前の通過と思われます(12時過ぎとか遅くても12時半には家に着いている)。
 天才啄木が夜勤をヒントに文学上の創作として「はたらけどもはたらけども〜」を踏襲して詠んだ歌と理解します。

 現在の切通坂と歌碑
   
 

○「晴れし日のかなしみの一つ! 病室の窓にもたれて 煙草を味わふ。」に見る実際の啄木像

 『悲しき玩具』に収録されている歌です。
 入院中も病室内で煙草を吸っていて、同室の入院者から苦情が出て室内禁煙となります。
 禁煙となった日は、廊下に出て1本吸います。
 翌日は何度となく廊下に出て吸います。その翌日は窓から首を出して吸うようになります。
 「隣の寝台の男が、煙草の煙で咳が出ると看護婦に言ひ出した。予はかくて室内に於て禁煙せねばならなかつた。
  夕方にはこらへきれなくなつて廊下に出て一本のんだ。(中略)煙草!」(「日記」明治44年2月10日)
 「何度となく廊下に出て煙草をのんだ。」(「日記」明治44年2月11日)
 「窓に首をつき出しては煙草をのんだ。」(「日記」明治44年2月12日)

 日記には煙草のことがよく出てきます。
 「今日は社に行っても煙草代が払えぬ。休むことにした。」(「ローマ字日記」」(明治42年4月30日)
 「前借は首尾よく行って二十五円借りた。今月はこれでもう取る所がない。先月の煙草代一円六十銭を払った。」(明治42年5月1日)
 朝日新聞に出社している時は、つけで煙草を買っています。煙草代のつけが月に一円六十銭で敷島8銭で割ると、20箱です。
 家にいる時はつけでは煙草を買えないので、衣類を質に入れ、本を売り、金田一君の煙草を吸う、
 訪ねてきた人の煙草を吸う、友人と出かけた時に煙草をおごってもらったりしています。
 石川啄木の喫煙は、月に20箱+@だったことが伺えます。

<解釈>
 病室の窓を開けて煙草を吸うと、晴れた日には浮世のことが恋しくなって病室にいることが悲しくなる。
 薬や牛乳の時間に追われて浮世を恋しくなって悲しめるのは、煙草を吸っている時だけとなった。
 (※注 当時牛乳は薬扱いでした。)

 現在の東京大学附属病院
  

 石川啄木が東京帝国大学医科大学附属病院に入院した時は、青山胤通博士が啄木の主治医でした。
 啄木の日記に「青山博士の廻診」との記載が度々見受けられます。
 当時最先端の医療を受けていたことが伺えます。
 東京大学附属病院に青山博士の銅像が建っています(こちらで記載)。
 青山胤通は、明治20年(1887)29歳で帝国大学医科大学教授に就任し、明治34(1901)年9月東京帝国大学医科大学長となっています。
 明治天皇や大隈重信の主治医も務めました。

   

<日記に見る入院の経緯>

 青山胤通博士は森鴎外の親友で、樋口一葉は森鴎外の紹介で受診していますが、石川啄木の場合は日記を見るとたまたまだったようです。
 三浦内科で診察を受け、青山内科に入院しています。
「午前に又木君が来て、これから腹を診察して貰ひに行かうといふ。大学の三浦内科へ行つて、正午から一時までの間に青柳医学士から診て貰つた。一目見て「これは大変だ」と言ふ。病名は慢性腹膜炎。一日も早く入院せよとの事だつた。」(「日記」明治44年2月1日)
「大学病院青山内科十八号室の人となつた。」(「日記」明治44年2月4日)

 ※三浦内科 東京帝国大学医科大学内科学第二講座 三浦謹之助内科学教授
 (出典:東京帝国大学 小川一真 明治33年及び明治37年)

   

 ※青山内科 東京帝国大学医科大学内科学第一講座 青山胤通内科学教授
 (出典:「男爵青山胤通先生(略伝)」「東京帝国大学」明治33年及び明治37年)

    

<石川啄木が入院した内科病室>

 石川啄木が入院した内科病室は、運動場下の通路の反対側に建ち並んでいました。

 「東京帝国大学一覧 明治43年」     運動場下通路「東京帝国大学 明治37年」     内科病室「東京帝国大学 明治37年」
    


見舞金

 入院中の啄木に東京朝日新聞社の社員たちは見舞金80円(=80万円)を渡します。
 「十一時頃に佐藤さんが、社の皆からの見舞金八十円持つて来て下すつた」(「日記」明治44年3月11日)
 夏目漱石夫人は入院中に7円(=7万円)、自宅療養中に10円(=10万円)と、2度の見舞金を出します。
 自宅療養中の啄木に東京朝日新聞社の社員たちは見舞金34円50銭(=34万5千円)とを新年宴会酒肴料3円を届けます。
 「社の人々十七氏からの醵集見舞金三十四円四十銭を佐藤氏が態々持つて来て下すつた。
  外に新年宴会酒肴料(三円)も届けて下すつた。」(「日記」明治45年1月29日)
 金を手にした啄木は翌日に4円50銭(=4万5千円)を使い、金を使うまいとする心とそれを裏切る心に悲しくなります。
 以前は金を浪費して後悔することなどなかった啄木ですが、死の2か月半前には、金を使ってしまう心に後悔はしませんが悲しくなります。
 「俥にのつて神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひに出かけた。(中略)
  本、紙、帳面、俥代すべてで恰度四円五十銭だけつかつた。
  いつも金のない日を送つてゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心!それからまたそれに裏切る心!私はかなしかつた。」
  (「日記」明治45年1月30日)

        相馬屋              原稿紙
   


○「うそつき」に見る啄木の才能

 借金のためには、人の胸を打つ嘘の手紙を書けた啄木。
 明治34(1905)年5月、自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し土井晩翠を訪ね歓談しました。
 そして土井晩翠夫人に母危篤との妹からの嘘の手紙を創作し夫人に見せ10円(=10万円)を引き出しました。
 仙台での旅館の宿泊代のつけも、土井晩翠夫人が支払いました。なお、自分の結婚式はばっくれて出席しませんでした。

 借金のために人の胸を打つ手紙は嘘でも、文学作品は創作です。啄木の才能は短歌創作に生かされています。
 啄木の雅号である「きつつき」から「うそつき」を連想してしまいます。
 雅号である「啄木」の正式名は「啄」に「、」(点)があります。
 失礼ながら雅号まで「うそ字」かと思いましたが、旧字でした。

 「啄木が嘘を云ふ時春かぜに吹かるる如くおもひしもわれ」(与謝野晶子)
 石川啄木は、与謝野晶子のことを「女史は親身の姉の様な気がする。」(明治41年7月28日)と日記に書いています。
 嘘は上手につくものと放蕩三昧の時は思っていた啄木ですが、晩年は嘘を悔やむようになった啄木です。
 しかし、嘘がなくならない自分を素直に歌っています。
 「あの頃はよく嘘を言ひき。平気にてよく嘘を言ひき。汗が出づるかな」(「悲しき玩具」)
 「もう嘘をいはじと思ひき―― それは今朝―― 今また一つ嘘をいへるかな。」(「悲しき玩具」)

 石川啄木が最晩年に口にしていたのは、蒲焼、寿司、刺身、ビスケット、コーヒー、煙草・・。
 最後に口にしたのは見舞のいちごジャムで、あまりにあまいから田舎に住んで自分で作ろうと言い妻を泣かせます。
 辞世の言葉も嘘ですが、与謝野晶子は子どもたちに嘘を言って喜ばせている啄木に「春かぜに吹かるる如くおもひしもわれ」となったのでしょう。
 石川啄木の嘘に才能を見ていた与謝野晶子が短歌で見事に表現したことに感心します。

   


推論「発達障害だった石川啄木」

 人の感情を理解する能力に欠けていることからとる行動、相手がどう思うか理解できずに思ったままのことを歌にしてしまうこと、
 親や妹に対して自分の感情のままストレートに接すること、煙草の銘柄「敷島」や原稿用紙「相馬屋」へのこだわり、
 才能のある短歌ではなく才能のない小説へのこだわり、
 人間の感情の機微を理解できないから人の琴線に響く小説は書けないことを理解できないこと等は、発達障害を思わせます。
 発達障害は脳の障害なので、啄木の生育環境には起因していません。また、遺伝もしません。
 勤務先の朝日新聞社では、仕事内容が校正という同じことの毎日の繰り返しでイレギュラーなことはないこと(仕事中は安心と日記に記載)、
 また、編集長と社員の啄木への根気強い理解と支援があったからこそ、仮病で休むこと多々でしたが3年も仕事が続き、短歌の才能が発揮できたと思います。
 金田一京助と土岐善麿は、最後まで、また亡くなってからも啄木を見捨てませんでした。
 「石川五右衛門の子孫かなにかだろうか」と思った金田一春彦ですが、啄木歌碑を揮毫しています(上野駅前商店街)。
 現在は、発達障害について社会全体で理解して支援を行っていくために、議員立法により成立した「発達障害者支援法」が施行されています。


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