○ 石川啄木歌碑 (銀座:朝日新聞社跡)
〇 石川啄木と東京朝日新聞社
【明治42(1909)年3月〜明治45(1912)年4月13日】(東京朝日新聞社勤務)
大阪で創刊した朝日新聞は、明治21(1888)年に京橋区瀧山町(現在の銀座6丁目)に建物を取得、
昭和2(1927)年に有楽町に本社を移転するまで東京の拠点として新聞を発行しました。
夏目漱石のほか、石川啄木も社員として働いていました。
石川啄木は、明治42(1909)年3月に東京朝日新聞社に入社し校正係をしていました。
東京朝日新聞社社屋跡前の並木通りの歩道に、石川啄木の歌碑があります。
啄木没後満60年を記念し、昭和48(1973)年4月1日に銀座の人びとにより建立されました。
啄木鳥がとまった樹の幹の形をしたブロンズ製の歌碑で、啄木像のレリーフがはめられています。
『一握の砂』に収録の歌が刻まれています。
(碑文)
「京橋の瀧山町の
新聞社
灯ともる頃のいそがしさかな 啄木」
(碑銘)
「石川啄木が瀧山町の朝日新聞社に勤務したのは 明治四十二年三月から四十五年四月十三日二十七歳でこの世を去るまでの約三年間である この間彼は佐藤真一編集長をはじめとする朝日の上司や同僚の厚意と恩情にまもられて 歌集「一握の砂」「悲しき玩具」詩集「呼子と口笛」など多くの名作を残し 庶民の生活の哀歓を歌うとともに時代閉塞の現状を批判した
銀座の人びとが啄木没後満六十年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建立したのはこの由緒によるものである
昭和四十八年四月一日
日本大学教授文学博士 岩城之徳」
(碑陰)
「銀座の人これを建つ」
(碑陰)
「京橋の瀧山町の由来
京橋の名は維新後の明治十一年に新たに制定された区名で 昭和二十二年に現在の中央区に改められるまで七十年の間 都民にしたしまれてきた区名です
瀧山町の名は 江戸開府ののちこの地を開拓した名主瀧山藤吉の名を偲ぶもので 昭和五年銀座六丁目に改称されるまで徳川時代から続いた由緒のある町名です 現在は中央区銀座六丁目と又新しく表示されております
昭和四十八年四月一日
歌の書体は歌集「一握の砂」初版本の活字を拡大して用いました」
<石川啄木の勤務>
石川啄木の東京朝日新聞社での勤務は、月に5日以上の夜勤がある校正係です。
日記によると、昼食後に出勤して校正をやって17時半に帰るのが日課です。
「昼飯を食っていつものごとく電車で社に出た。
出て、広い編集局の片隅でおじいさんたちと一緒に校正をやって、夕方五時半頃、第一版が校了になると帰る。
これが予の生活のための日課だ。」(ローマ字日記明治42年4月7日)
第一版の校了が早く済むといつもより早く帰ります。
「社では今日第一版が早く済んで、五時頃に帰って来た。」(ローマ字日記明治42年4月9日)
<石川啄木の月給>
日記には「月給二十五円前借した」(明治43年4月1日)とあるので、現在の価値にして月給は25万円です。
月給25万円は基本給で、これに夜勤手当1万円が5日分プラスされて、月給は30万円です。
また「妻の勘定によると、先月の収入総計八十一円余。」(明治43年4月4日)とあるので、
給料と他社からの原稿料・歌壇選者の謝礼で月の収入は81万円です(借金も収入に含めているのかは不詳)。
遊ぶ時は「いかにして誰から金を借りようかと考えている」(明治42年4月10日ローマ字日記)とあるように、
月収81万円でも、借金してまで女遊び等の遊興費につぎ込むので生活はいつも苦しい状況です。
給料の前借もいつもながらのことで、前借は自分の金ですが、借金は返済するつもりのない他人の金なので、
日記では前借するとお金のないことを嘆き、借金と区別しています。
<石川啄木の通勤>
啄木は、東京朝日新聞社での勤務からの帰りは、
瀧山町の社屋を出て、銀座通りにある東京電車鉄道の竹川町停留場で新橋方面から来る電車に乗り家路に着きました。
出勤の時は数寄屋橋で降りて行くことが常だったようです。
帰りの電車の中に美人がいたので、本郷3丁目で降りずに柳町まで行ったこともありました。
(※明治44(1911)年に東京市が民間鉄道三社を買い上げて、東京市電気局鉄道となりました。)
電車賃がないことも多々でした。
「社に行って何の変ったことなし。
昨夜最後の一円を不意の宴会に使ってしまって、今日はまた財布の中にひしゃげた五厘銅貨が一枚。
明日の電車賃もない。」(ローマ字日記明治42年4月28日)
「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年)
東京朝日新聞社があった京橋区「滝山町」と「竹川町停留所」「数寄屋橋停留所」部分の抜粋です。