○ 石川啄木下宿跡 赤心館跡
○ 蓋平館別荘跡(石川啄木歌碑)
○ 喜之床旧跡
○ 近代文学発祥の地本郷(石川啄木歌碑)
○ 当地ゆかりの文人たち(石川啄木)
○ 松坂屋質店跡
本郷における石川啄木の3ヶ所の旧居跡
【明治41(1908)年5月4日〜明治41(1908)年9月6日】
明治41(1908)年4月28日3度目の上京で与謝野寛・晶子の千駄ヶ谷宅に滞在した石川啄木は、
5月4日、同郷の先輩金田一京助の下宿「赤心館」(本郷区菊坂町82番地)に移ります。
赤心館は、当時は本妙寺の構内で、菊富士楼の隣りの二階建の下宿でした。
しかし、啄木の下宿代滞納を罵倒された金田一京助は憤慨し、自分の蔵書を売って啄木の下宿代を支払い、
明治41(1908)年9月6日に共に近くにあった下宿「蓋平館別荘」に移っていきました。
「赤心館跡」及び「本郷菊富士ホテル跡」では、8階建146戸の共同住宅を建築中(2023年3月31日〜2025年5月30日)です。
(説明板)
「啄木ゆかりの 赤心館跡 オルガノ株式会社(本郷5-5)内
石川啄木(1886〜1912)は、「文学の志」やみがたく、明治41年5月、北海道の放浪の旅をおえて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。上京後、金田一京助を頼って、ここにあった“赤心館”に下宿し、執筆に励んだ。
赤心館での生活は4ヵ月。その間のわずか1ヵ月の間に、「菊池君」「母」「天鵞絨(びろうど)」など、小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。
しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。このようななかで、数多くの優れた短歌を残した。収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助
の援助で共に近くにあった下宿“蓋平館別荘”に移っていった。
たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず (赤心館時代の作品)
文京区内の啄木ゆかりの地
○初上京の下宿跡(明治35年11月〜36年3月)現・音羽1-6-1
○再度上京の下宿跡(明治37年10月〜同年11月)現・弥生1-8あたり
○蓋平館別荘跡(赤心館〜 明治42年6月)現・本郷6-10-12 太栄館
○喜之床(蓋平館〜 明治44年8月)現・本郷2-38-9 アライ理髪店
○終焉の地(喜之床〜 明治45年4月13日死去)現・小石川5-11-7 宇津木産業
東京都文京区教育委員会 平成元年3月」
「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年)
大正元年に東京市が発行した地図から、菊坂町の抜粋です。
巣鴨に移転した「本妙寺」がまだ記載されています。
菊坂82番地の赤○が赤心館です。
金田一京助像(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
明治15(1882)年5月5日〜昭和46(1971)年11月14日
【明治41(1908)年9月6日〜明治42(1909)年6月16日】
赤心館での啄木の下宿代滞納を罵倒された金田一京助は憤慨し、自分の蔵書を売って啄木の下宿代を支払い、
明治41(1908)年9月6日に共に近くにあった新築間もない本郷区森川町の蓋平館別荘に移ってきました(当時の建物は昭和29(1954)年に焼失)。
引っ越し時の啄木の日誌から短縮して引用します。
「金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかといふ。怎して然う急にと問ふと、詰り、予の宿料について主婦から随分と手酷い談判を享けて、それで憤慨したのだ。もう今朝のうちに方々の下宿を見て来たといふ。本を売つて宿料全部を払つて引払ふのだといふ。本屋が夕方に来た。暗くなつてから荷造りに着手した。午後五時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。」(「日誌」明治41年9月6日)
明治42(1909)年3月1日に東京朝日新聞社に校正係の定職を得て、明治42(1909)年6月16日に家族とともに本郷区本郷弓町の喜之床の2階に移りました。
蓋平館別荘でも、啄木は下宿代(部屋代が4円、食費が7円)を滞納します。
まかないの食事は下宿代滞納で出されなくなりました。「予に飯を出さなかつたのだ」(「日誌」明治42年2月9日))。
啄木の死後刊行された『啄木全集』の印税2800円のうちから、滞納となっていた蓋平館の下宿代(130円を100円に減額)は返済されました。
9か月の生活での滞納金にしては多いように思えますが、下宿代のほかに宿に立て替え払いさせていた分もあるようです。
蓋平館別荘では、夏目漱石門下の「内田百聞」も一時期暮したようです。
(説明板)
「石川啄木ゆかりの蓋平館別荘跡 文京区本郷6-10-12
石川啄木(本名一(はじめ)・1886〜1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館(現本郷5-5-16)に下宿した。小説五篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。左にある歌碑の「東海の小島の磯の白砂に 我泣きぬれて蟹とたわむる」の歌は、この時の歌である。
赤心館での下宿代が滞ったが、友人の金田一京助(言語学者)の助けを得て、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の部屋に入居し、「富士が見える、富士が見える。」と喜んだという。
この地では、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、文芸雑誌『スバル』が創刊され、啄木は創刊号の発行人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のためこの地を訪れた。
啄木は、 東京朝日新聞社に校正係として入社し、明治42年6月16日に本郷弓町(現本郷2-38-9)の喜の床に移った。ここでの生活は約9か月間であった。
父のごと 秋はいかめし
母のごと 秋はなつかし
家持たぬ児に
(明治41年9月14日作・蓋平館で)
文京区教育委員会 平成31年1月」
<歌碑>
昭和30(1955)年3月10日の建碑。揮毫は金田一京助博士。
『一握の砂』に収録の歌が刻まれています。
(碑文)
「石川啄木由縁能宿
東海乃小島能磯の白砂に
我泣き怒れ天
蟹登たわむる」
【明治42(1909)年6月16日〜明治44(1911)年8月7日】
明治42(1909)年6月16日朝、啄木は金田一京助氏、岩本氏(東京に出てきていた渋民村助役の息子)の3名で上野駅に行き、
夜行列車で上京してきた母カツ、妻節子、娘京子、それに家族を連れてきた友の宮崎郁雨を迎えます。
本郷区本郷弓町二丁目十七番地の理容店(喜之床)の二階六畳二間で啄木一家の生活が始まりました。
明治42(1909)年12月20日には、父が上京しました。
4月に宮崎君から啄木の家族を連れて上京させるとの手紙を読んで、みんなが死んでくれるか、予が死ぬかと思った啄木ですが、
(日記)
「宮崎君の手紙を読んだ。ああ!みんなが死んでくれるか、予が死ぬか。二つに一つだ!」(「ローマ字日記」明治42年4月16日)
「そして返事を書いた。予の生活の基礎は出来た、ただ下宿をひき払う金と、家を持つ金と、それから家族を呼び寄せる旅費!それだけあればよい!こう書いた。そして死にたくなった。」(「ローマ字日記」明治42年4月16日)
下宿を引き払うに当って、蓋平館別荘での下宿代の滞納は、金田一君の保証で119円余を10円ずつ月賦にしてもらい、
引っ越し先の費用と家族の旅費は宮崎君が出しました。
啄木はここから京橋区龍山町(現在:銀座6丁目)の東京朝日新聞社に通勤していました。
明治43(1910)年10月には長男の真一が生まれたものの生後23日目に亡くなり、葬儀には与謝野鉄幹もかけつけました。
墓地もなかった啄木ですが新井喜之助の配慮で喜之床の墓地に埋葬されました。
現在も、理容店「理容アライ」が営まれています。
当時の建物は愛知県犬山市の「明治村」に移築されています。
喜之床
現在の理容アライ
(説明板)
「啄木ゆかりの喜之床(きのとこ)旧跡
石川啄木は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5-5・現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心(せきしん)館に金田一京助を頼って同宿した。
わずか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治42年(1909)の6月であった。
五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。
喜之床での生活は2年2か月、明治44年の8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5-11-7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治45年(1912)4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。
喜之床(理容アライ)は明治41年(1908)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和53年5月(1978)啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和55年(1980)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地に標識を設置した。
かにかくに渋民村は恋しかり
おもいでの山
おもいでの川 (喜之床時代の作)
文京区教育委員会 平成4年10月」
本妙寺坂にあるマンションの柱にプレート「近代文学発祥の地
本郷」が掲げられ、
他4枚の銅板プレートが設置されており、石川啄木の歌を刻んだプレートがあります。
(プレート文)
「近代文学発祥の地本郷
近隣に住んだ人々
樋口一葉 宇野浩二
石川啄木 広津和郎
坪内逍遥 伊藤野枝
徳田秋声 高田保
宮沢賢治 宇野千代
二葉亭四迷 尾崎士郎
竹久夢二 宮本百合子
大杉栄 石川淳
谷崎潤一郎 月形竜之介
直木三十五 坂口安吾 他」
「東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたわむる 啄木」
菊坂通りの街灯には、「当地ゆかりの文人達」の24人の紹介プレートが掲げられています。
石川啄木の紹介プレートです。
「当地ゆかりの文人達
石川啄木 明治一九年〜明治四五年 この近くに住居跡あり
東京朝日新聞校正係りの傍ら万葉集以来の短歌にたいし、内容と形式の上からこれに挑戦し口語を交えた三行書きにして生活感情を豊かにうたった。二七年というごく短い生涯の内に文字に対する情熱を燃やし続けていたが、その生活は家庭的経済的に恵まれず惨めなもので悲惨な生活が健康を害した。幼子の死、母と妻の不和、妻の家出、母の死、父の家出、これらが彼の死を早めたとも云える。とにかく日本の歌人の中でも最も知られている人であろう。この近くに彼の旧居跡が三ヶ所程ある。主な作品は、一握の砂、悲しき玩具などの歌集。」
啄木の日記に度々出てくるのが質屋の「松坂屋」ですが、質店もその痕跡もすでになく、
「菊坂界隈文人マップ」で「石川啄木ゆかりの松坂屋質店跡」と示されているのみです。
啄木は友人たちから借金をするだけではなく、質屋もよく利用しました。
並木君から借りた時計(8万円の質草)や、金田一君のインバネスのコート(2万5千円の質草)も質に入れました。
「並木君を訪ふて時計をかり、典じて八金を得、天宗にのんで、」(「日誌」明治42年3月2日)
「金田一君からまさかの時に質に入れて使えと言われていたインバネスを松坂屋へ持って行って、
二円五十銭借り、五十銭は先に入れているのの利子に入れた。」(「ローマ字日記」明治42年4月15日)
(まさかの時は、下宿屋の催促がありどこかへ行きたい!と思った時です。結果、上野広小路で西洋料理を食べます。)
他、日記に度々出てくるのが本郷四丁目の天ぷら「天宗」や蕎麦屋、台町の湯屋ですが、詳細不詳です。