【JR上野駅】
○ 上野駅の歴史
○ 現在の上野駅舎
○ 上野駅貴賓室跡地
○ あゝ上野駅歌碑
【改札内】
○ 石川啄木歌碑
○ 三相 知情意像
【改札外】
○ 朝倉文夫作「翼」
○ ふる里日本の華
○ 自由
○ ジャイアントパンダ
【東京メトロ上野駅】
○ 上野今昔物語
【かねの鳴るまち】
○ かねの鳴るまち
○ 新幹線上野駅開業記念碑
○ 芭蕉句碑
○ 石川啄木の歌碑
○ 下町まちしるべ 旧下谷町
○ アメヤ横丁
御徒町駅
「2023年7月28日 上野駅は開業140周年を迎えました」
・明治16(1883)年7月28日
上野と熊谷を結ぶ日本鉄道が開通。上野駅は寛永寺僧坊跡に建設、仮開業。
午前6時、蒸気機関車「善光号」にけん引された上野発、熊谷行きの一番列車が発車しました。
(参考)
「機関車「善光号」明治14(1881)年製造」(鉄道博物館)
鉄道博物館(大宮)に「善光号」が展示されています。
昭和17(1942)年から交通博物館(神田)で館外展示されていました。
明治14(1881)年に上野〜熊谷間建設用にイギリスから輸入された蒸気機関車です。
搬入時に横浜から「しけ」に乗せて荒川に入り、現在の埼玉県川口市にある善光寺のそばで陸揚げされたことにちなんで「善光号」と命名されました。
一番列車の「善行号」はこの工事機関車「善行号」にちなんで命名されたものと思われます。
・明治17(1884)年5月1日
上野〜高崎が開通
・明治17(1884)年6月25日
明治天皇を迎えて正式な開業式挙行。
・明治23(1890)年
上野〜秋葉原貨物取扱所間が開通
・明治24(1891年)9月1日
上野〜青森の運転開始
・大正12(1923)年9月
関東大震災により上野煉瓦駅舎は崩壊
・昭和7(1932)年4月
上野駅舎が完成
・昭和60(1985)年3月14日
東北・上越新幹線上野駅開業
・平成3(1991)年6月20日
新幹線の上野〜東京間が開業
・平成27(1991)年3月14日
「上野東京ライン」開業。
上野駅は、新幹線と東北・高崎・常磐線の「終着駅」から「停車駅」となりました。
「東京上野高崎街真景」(井上安治 明治17年 都立図書館蔵)
明治17(1884)年5月に日本鉄道の上野と高崎間が開通し、6月25日に明治天皇を迎えての開業式が行われました。
明治天皇は上野高崎間を往復しました。
開業式の様子が描かれています。下半分に上野駅、上半分に高崎駅と赤城山、高崎の街並みが描かれています。
2枚目は「上野ステーション」の拡大です。
「上野ステーシヨン」(井上安治 台東区立図書館蔵)
「上野ステイーシヨヲ繁栄ノ図」(楊洲周延)
明治の頃の上野駅です。蒸気機関車が見えます。
「(新大東京名所)上野驛」(絵はがき 都立図書館蔵蔵)
「(大東京)近代的装備を誇る新上野驛」(絵はがき 都立図書館蔵蔵)
(説明板)
「上野駅三代目駅舎
関東大震災(一九二三年・大正十二年)にて二代目の駅舎や主要な建物は破壊・焼失してしまいました。同年より仮駅舎にて営業し、その復興に力を注ぎ正面玄関口。広小路口駅舎は一九三二年(昭和七年)に三代目として完成した駅舎です。
建設当時は、正面ロが二階構造になっており、上層は乗車口で自動車から降りて直接駅に入ることができました。下層は降車口で改札をでて大階段で地下へ降り降車口から自動車に乗ることができました。
乗車客と降車客の動線が分離された構造の駅舎でした。
上野駅正面玄関口」
上野駅貴賓室跡の入口です。説明板が置かれています。
貴賓室の現在は、ブラッスリーレカンというレストランになっています。
(説明板)
「□上野駅貴賓室跡地
一九三二年(昭和七年)に現在の上野駅舎が完成した際、この場所に貴賓室
が造られました。
以後、天皇陛下および皇族方が東北方面へお出かけになる際には、たびたびこの貴賓室をご使用になられたということです。
当時の写真を見ると、大理石造りの風格ある入口の様子や、絨毯が敷かれ、暖炉やシャンデリアなどの豪華な調度品が配置された、室内の優雅な雰囲気が見てとれます。
写真:貴賓室通路(鉄道博物館所蔵)」
平成15(2003)年7月6日に、歌碑設立委員会(会長:ファイティング原田)によって建立された歌碑です。
(碑文)
「あヽ上野駅
作詞 関口義明
作曲 荒井英一
唄 井沢八郎
一.どこかに故郷の 香りを乗せて
入る列車の なつかしさ
上野は おいらの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった
二.就職列車に ゆられて着いた
遠いあの夜を 思い出す
上野は おいらの 心の駅だ
配達帰りの 自転車を
止めて聞いてる 国なまり
三.ホームの時計を 見つめていたら
母の笑顔に なってきた
上野は おいらの 心の駅だ
お店の仕事は 辛いけど
胸にゃでっかい 夢がある」
(説明板)
「歌碑の由来
高度成長期の昭和30?40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのがこの集団就職者といっても過言ではない。
親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。彼らを支えた心の応援歌『あヽ上野駅』は、昭和39年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。
この歌の心を末長く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化・都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に『あヽ上野駅』の歌碑を設立するものである。
平成15年(二○○三年)7月6日
歌碑設立委員会・発起人
総括責任者 深澤 壽一」
「東京都労働局」「ようこそ東京へ」
「『あヽ上野駅』歌碑設立委員会
会長 原田雅彦(ファイティング原田)」
昭和60(1985)年3月14日、東北・上越新幹線の上野駅乗り入れを記念し、東京北ロータリークラブの30周年記念としてJRに寄贈されました。
上野駅15番線ホームの線路行き止まり先にあります。
一瞬、排気ダクトに蓋がしてあるのかと思えました(失礼)。
(碑文)
「ふるさとの 訛なつかし
停車場の 人ごみの中に
そを聴きにゆく 啄木」
台座に「東京北ロータリークラブ」とあります。
石川啄木の歌碑の手前に朝倉文夫の彫刻があります。
昭和25(1950)年の製作、昭和34(1959)年の設置です。
「三相 知情意」は、朝倉彫塑館アトリエにも設置されています。
(銘文)
「三相 知情意 朝倉文夫作」
(台座裏銘文)
「昭和三十三年十月十日上野驛開設七十五周年記念式の佳日その席に列した朝倉文夫先生は たまたま驛の開設が明治十六年で先生の生誕を同じくしていることを知り深く喜懌になり記念のために 台東區を通じてこの像を贈られここに建設されたものである。
昭和三十四年五月五日 日本國有鉄道」
中央改札口外のグランドコンコースに、朝倉文夫作「翼」が設置されています。
台東区が上野駅開設75周年と、東北特急はつかり号の運転を記念して、朝倉文夫の彫刻作品
「翼」を国鉄に送ったものです。
昭和33(1958)年10月10日の設置です。
(銘文)
「翼
朝倉文夫 作」
(銘文)
「贈
上野駅開設七十五周年記念
東北特急はつかり号運転記念
昭和三十三年十月十日 台東區」
平山郁夫の昭和60(1985)年3月のステンドグラス作品です。
現在の場所は上野駅三階新幹線コンコースより移設された場所です。
東北・上越新幹線が上野まで開通したことを記念して制作されました。
「ふる里日本の華」として、沿線各地の花を扇のなかに描いてます。
右半分「上野、浅草、埼玉、栃木、群馬、福島」 右下「昭和六十年春 ふる里日本の華 平山郁夫」
左半分「新潟、宮城、山形、岩手、秋田、青森」
猪熊弦一郎作の「自由」です。昭和26(1951)年12月の制作です。
昭和59(1984)年と平成14(2002)年に修復が行われています。
上野駅から向かう各地の光景が描かれています。
左から、スキー、乗牛、リンゴ狩、牧場、犬、海の幸、温泉、登山・ハイキング、林業、狩猟と描かれています。
パンダ橋口に、大小2体のジャイアントパンダ像が大きなケースにおさまっています。
大きなパンダ(高さ3.1m・重量300kg)は、当初は昭和59(1984)年の設置で、上野駅構内を転々としこちらに落ち着きました。
小さいパンダは昭和52(1977)年の設置で、13番線ホームへ下る階段に設置されていましたが、
平成29(2017)年12月に、上野動物園「シャンシャン」の公開を記念し、大きいパンダ像の側へ移設されたものです。
「制作 株式会社サンアンドスター」とありますが、残念ながら平成28(2016)年に廃業しています。
<パンダ橋口>
ジャイアントパンダがいるのはパンダ橋口です。
パンダ橋(正式名:上野駅東西自由通路)は、台東区が大災害時に上野公園に避難しやすいように平成12(2000)年に建設した橋で、
地図にもあるように、とても幅広な橋です。
ステンドグラス「上野今昔物語」(原画・監修:宮田亮平)が、
東京メトロ上野駅地下1階改札外コンコース(9番出口付近)にあります。
平成29(2017)年12月14日の完成です。
大きいので、左、中、右と3つに分けて撮影。
乗降客の多い通路で、全体をカメラに収めるのに、乗降客が途切れるのをしばらく待ちました。
<シロナガスクジラ>
国立科学博物館が描かれている所を見ると、シロナガスクジラもしっかりと描かれています。
<噴水>
「第二回内国勧業博覧会内美術館噴水」(小林清親 明治14(1881)年)
ステンドグラスに描かれている噴水を、小林清親が描いています。
(参考)第二回内国勧業博覧会
・開催期間:1881(明治14)年3月1日?6月30日
・場所:東京上野公園
・入場者数:823,094人
署名に言い訳が記されています。
「噴水の人物大きけれど板元の執心応じて筆 小林清親」
<地下鉄道>
昭和2(1927)年12月に東京地下鉄道が開通しています。
雑踏のプラットホームが描かれています。
「東洋唯一(東京地下鐡道)プラットホームの雑踏」(絵はがき 都立図書館蔵)
<西郷隆盛像>
「西郷隆盛像」については、こちらで記載。
<東京馬車鉄道>
馬車には「東京市街鐡道馬車」「第一号」の文字が見えます。
東京馬車鉄道が、新橋ー上野ー浅草ー浅草橋ー日本橋ー新橋の循環線を営業していました。
明治15(1882)年に営業開始し、明治36(1903)年に馬車から路面電車へ切り替えられました。
参考「上野三橋」
<上野不忍池競馬>
「上野不忍池競馬」については、こちらで記載。
<ジュエリーブリッジ>
地上に出ると、国道4号線の上のペデストリアンデッキ「ジュエリーロード」に、
オブジェ「ジュエリーブリッジ」があります。
デザインマンホール蓋かと思ったら、レリーフ「かねの鳴るまち
上野駅前商店街」でした。
上野駅前商店街に石碑が連なっています。
「かねの鳴るまち
昭和五十九年四月建立 台東区長 内山栄一」
「かねの鳴るまち 上野駅前商店街」
「東北・上越新幹線上野駅開業記念 昭和60年3月14日」
「芭蕉 花の雲鐘は上野か浅草か」
昭和60(1985)年3月14日建立。
「石川啄木 ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に
そを聴きにゆく」
昭和60(1985)年3月14日建立。金田一春彦氏書です。
石川啄木像(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
明治19(1886)年2月20日〜明治45(1912)年4月13日
(説明板)
「寛永元年(一八二四)藤堂高虎の屋敷が上野台にあったことから、天海僧正が江戸城鎮護のため建立を思いたったおり寄進され「花の山、昔は虎のすみかなり」と詠まれている。
「金銀の寺より光る寛永寺」が徳川家の庇護のもとに完成すると、山下にあった下谷村は門前町として上野広小路、下谷町一丁目、二丁目と称し商人の町として栄え、江戸文化の中心となり、歴史を誇る庶民の町として現存している。しかし、昭和三十九年十月の住居表示の実施により上野六丁目に変更された。
町名の由来は、この付近が江戸時代以前から下谷村と言われ、町としても最も早くできたことにちなんでいる。
「アメヤ横丁」は、戦後すぐにできた我が国初めての輸入商品を主体に扱う商店街である。その多様さ、目新しさで多くのお客が来ている。また年末の売り出し風景は全国にも紹介され、歳末の風物詩にもなっている。」
上野駅前商店街から高架を越えたところです。
JR御徒町駅南口の駅前にある広場です。
パンダのモニュメントがあります。
「おかちまち パンダ広場
この広場は、「御徒町駅周辺地区地区計画」で定められた地区施設です。(以下略)」