○ 上野三橋
○ 上野広小路遺跡三橋遺構
上野広小路に面した上野公園入口には、大正時代まで不忍池池畔から流れる忍川があり、
三つの橋が架けられており、「三橋」と呼ばれていました。
「江戸名所図会 東叡山黒門前 忍川 三橋」
忍川と三橋が見えます。
中央の橋に向かう行列は、墓参のため寛永寺に向かう徳川将軍の一行でしょうが、
当時は幕府の行事は描けないので、将軍の行列でないことの言い訳として規模を抑えてい描いているのでしょう。
「江戸切絵図」
忍川が不忍池から流れ出て、三味線堀へ向かいます。3つの橋、三橋が見えます。
「千代田之御表 上野御成」(楊洲周延 明治30年)
楊洲周延は、江戸時代には描けなかった大奥や幕府の行事を描いています。
こちらは徳川将軍の上野御成を描いています。三橋を越えて進んだところでしょう、清水観音堂が見えます。
「江戸名所上野仁王門之図」(豊春)
手前に三橋が見えます。
「絵本江戸錦 不忍池弁財天 湯島天神」
右手前に三橋が見えます。
「東都三十六景 下谷広小路」(二代広重)
三橋が見えます。
「上野三枚橋之図」(鳥文斎栄之)
忍川に三つ並んで架かる三枚橋が描かれています。奥には寛永寺の森が見えます。
鳥文斎栄之(宝暦6(1756)年〜文政12(1829)年 本名:細田時富)は、家禄500石の旗本から町絵師に転じた浮世絵師で、
「栄之」は10代将軍家治に命名されたと伝えられます。
「上野公園之図」(東京案内 明治40(1907)年)
三橋は勧業博覧会の混雑を見すえて、木橋から強度の高い橋に架けかえられたようですが、
地図では、三橋として3つの橋の記号が見えます。(地図ではひとつになっていないです)。
三橋の真ん中は路面電車の線路(浅草行と見えます)が通っています。
「上野三橋」(井上安治)
馬車鉄道が三橋を渡っています。
同じ時期の下の馬車鉄道の写真には、両脇の橋が見えるので、
この絵では両脇の橋が切れているだけのようです?。
東京馬車鉄道は、新橋ー上野ー浅草ー浅草橋ー日本橋ー新橋の循環線を営業していました。
明治15(1882)年に営業開始し、明治36(1903)年に馬車から路面電車へ切り替えられました。
「東京景色写真版 上野三枚橋遠景」(江木商店 明治26年)
馬車鉄道が三橋を渡っています。
木橋から強度の高い橋に架け替えられた後でしょうが、両脇に狭い橋が存在しています。
「上野一覧内国博覧会之図」(三代国貞 明治23(1890)年)
明治の上野で行われた博覧会の図です。蒸気機関車が走っています。
三橋が明確に描かれています。
令和5(2023)年1月19日に「上野広小路遺跡三橋遺構」完成記念式典が行われ、
1月20日から一般公開されています。
上野広小路遺跡から出土した石材・木材を使い、江戸時代に上野広小路から寛永寺へ渡るための橋であった
「三橋」の下部構造となる石組について、その半面を再現して整備されています。
(説明板)
「上野広小路遺跡三橋遺構(台東区有形文化財) 台東区上野公園二番
上野広小路遺跡三橋遺構は、台東区立上野中央通り地下駐車場を建設する際の敷地内発掘調査により、平成十七年度に発見された石組水路の遺構で、構築年代は十七世紀後半頃と推測される。
江戸時代には、不忍池の南東角から広小路を横切るように東へ水路(忍川)が流れており、忍川には寛永寺に参詣するための三つの橋(中央に将軍が参詣する時に使用した大橋、左右に一般用の小橋)が架けられていたことから、「三橋」と呼ばれていた。
この遺構は、三橋の株構造(橋台)の一部を構成する石組水路であると考えられている。
発掘時、石組水路は深い部分で上幅三メートル、下幅一メートル、高さ三メートルあり、石垣は「間知石」を積上げ、底面の砂層の上には板材が組み合わせて敷かれていた。
本遺構は遺存が良好であり、底面に類例の知られていない板敷きを有するなど貴重である。また忍川と上野広小路の歴史を解明し、寛永寺と三橋の関係を考える上でも重要である。
ここでは、上野広小路遺跡三橋遺構から実際に出土した石材・木材を使い、石組の半面を再現して設置・展示している。
令和五年一月 台東区教育委員会」
<石組/底板>
底板の寛永通宝
<パネル>
「温古東錦正月十日諸侯上野霊廟へ参詣之図」(小島勝月 国立国会図書館蔵)
「温故東の花 旧諸侯上野初御仏参之図」(楊洲周延 都立図書館蔵)