○ 石川啄木歌碑 (西浅草:等光寺)
○ 旧町名由来 旧浅草松清町
石川啄木の葬儀は、親友の土岐善麿(1885〜1980年
歌人・国学者)の生家であった等光寺で行われ、啄木一周忌追悼会も当寺で行われました。
1か月前には母カツの葬儀が行われています。
また、長女京子、二女房江の葬儀も「等光寺」で行われました。
明治45年4月15日の10時より等光寺で営まれた啄木の葬儀への主なる会葬者は、
夏目漱石、森田草平、相馬御風、人見東明、木下杢太郎(太田正雄)、北原白秋、山本哲、佐々木信綱、その他東京朝日新聞社員佐藤真一等四十五名です。
臨終に立ち会った若山牧水は、諸般の手続きに奔走した後、疲労と悲しみのため葬儀には欠席し、
啄木の長男の葬儀に出席した与謝野鉄幹は、ヨーロッパ遊学中のため出席できませんでした。
臨終の場には、妊娠中の夫人と六歳の長女の京子、若山牧水、啄木との生活に耐えかねて家出した父一禎がいました。
金田一京助も臨終の日には病床にいましたが、状態が良くなったので大学に出勤した矢先の急変でした。
<等光寺の由来>
門柱右に「等光寺」、左に「土岐」とあります。
山号は「廣石山」、寺号は「等光寺」。
戦国時代の美濃国の守護大名土岐頼芸の子である大圓は、父祖の追福のために、三河国宝飯郡広石村に真宗大谷派寺院、等光寺を創建しました。
歌人の土岐善麿は大圓の子孫にあたります。
等光寺は、慶長14(1609)年に神田旅籠町(現千代田区外神田)に移転します。
明暦3(1657)年の振袖火事により、本願寺とその末寺四十六ヵ寺(等光寺も末寺)が神田からこの地に移り、門前町が開け寺町として発展しました。
当地は、明治2(1869)年に浅草松清町が起立し、昭和40(1965)年に西浅草一丁目に編入となりました。
<石川啄木歌碑>
啄木の顔のレリーフを彫り込んだ啄木歌碑があります。
啄木生誕70周年の昭和30(1955)年に建てられ、金田一京助氏らが集まって歌碑除幕式が行われました。
『一握の砂』に収録の歌が刻まれています。
(碑文)
「浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心 啄木」
浅草の活動写真館の館内の様子が謳われています。
啄木は活動写真館を出た後、一時期、浅草十二階下の銘酒屋で遊びました。
啄木の借金は生活のためと言いつつ、遊興費に消えていきました。
(説明板)
「石川啄木歌碑 台東区西浅草一丁目六番一号 等光寺
石川啄木は明治十九年(一八八六)岩手県に生まれる。はじめ明星派の詩人として活躍した。しかし曹洞宗の僧侶であった父が失職したため一家扶養の責任を負い、郷里の代用教員や北海道の新聞記者を勤め、各地を転々とした。
明治四十一年(一九○八)、文学者として身を立てるため上京して創作生活に入り、明治四十二年からは東京朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、明治四十三年十二月には処女歌集「一握の砂」を出版する。生活の現実に根ざし口語をまじえた短歌は歌壇に新風を吹き込んだ。
しかし苦しい生活の中で肺結核を患い、明治四十五年(一九一二年)四月十三日に小石川区久堅町の借家で死去した(二十七才)。親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった縁で、葬儀は等光寺でおこなわれ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれた。墓は函館市の立待岬にある。
この歌碑は、啄木生誕七十年にあたる昭和三十年に建てられた。「一握の砂」から次の句が記される。
浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心
平成十五年三月 台東区教育委員会」
(参考)
浅草十二階 銘酒屋 現在も営業する米久
国際通りに「旧浅草松清町」の旧町名由来案内板があります。
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧浅草松清町
この地は、徳川家康が江戸に幕府を開いてから田が宅地に造成された。その後、明暦三年(一六五七)の振袖火事により、京都東本願寺の別院浅草本願寺とその末寺四十六ヵ寺が神田からこの地に移ってきた。そして次第に門前町が開け、寺町として発展した。
明治二年(一八六九)浅草松清町が誕生した。町名は、大松寺の「松」と清光寺の「清」をとった。清光寺は浄土宗芝増上寺の末寺で、寛文五年(一六六三)に水戸光圀が駿河国から当地に移したといわれている。
なお、本町の東側本通りには国際通り商店街、西側には合羽橋道具街(厨房機器)があり賑わいを見せている。 台東区」
名所として「石川啄木歌碑」も記載されています。