Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 石川啄木ゆかりの地

  ○ 石川啄木終焉の地(小石川:終焉の地)
  ○ 石川啄木歌碑 (小石川:終焉の地)
  ○ 石川啄木顕彰室(小石川:終焉の地)


石川啄木終焉の地 文京区小石川5-11-7

【明治44(1911)年8月7日〜明治45(1912)年4月13日】

 石川啄木は、明治44(1911)年8月7日、本郷区本郷弓町の喜之床から、小石川区久堅町の借家に移り、翌年病没するまで居住しました。

<日記より>
 病身の節子夫人が8月7日に小石川へ行って家を見つけてきて、8月7日に引っ越しました。
 「せつ子小石川へ行きて家をみつけて来る」(「日記」明治44年8月5日)
 「本日本郷弓町二ノ十八新井方より小石川久堅町七十四ノ四六号へ引越す。」(「日記」明治44年8月7日)
 9月3日に父一禎が家出します。
 「父は今迄にも何度もその素振りのあつた家出をとうとう決行した。」(「日記」明治44年9月3日)

  

(説明板)
「東京都指定旧跡
 石川啄木終焉の地
   所在地 文京区小石川五丁目一一番七号
   指定  昭和二七年一一月三日
 石川啄木は明治一九年(一八八六)二月二○日(または一八年一○月二七日)、岩手県南岩手郡日戸村(現 盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれた。本名を一(はじめ)という。
 盛岡中学校入学後、『明星』を愛読し、文学を志した。生活のため、故郷で小学校代用教員となり、のち北海道に渡り地方新聞社の記者となったが、作家を志望して上京、朝日新聞社に勤務しながら創作活動を行った。歌集『一握の砂』・『悲しき玩具』、詩集『あこがれ』・『呼子と口笛』、評論『時代閉塞の現状』などを著した。
 啄木は、明治四四年(一九一一)八月七日、本郷弓町の喜之床(きのとこ)(現 文京区本郷二丁目三八)の二階からこの地の借家(当時の小石川区久堅町七四番四六号)に移り、翌年病没するまで居住した。
 この地に移った啄木は、既に病魔に侵されていた。明治四五年四月一三日午前九時三○分、父一禎、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、結核により二六歳の若さで亡くなった。法名は啄木居士。
   平成二○年十二月 設置  東京都教育委員会」

  
 

<旧町名案内 旧久堅町> 文京区小石川5-11-15 (説明板設置)

(説明板)
「旧町名案内
 旧 久堅(ひさかた)町(昭和41年までの町名)
 もと、小石川村の内で、元和(げんな)年間(1615〜24)以後町屋を開いた。
 明治2年、橋戸町、久保町、宮下町飛地、門前町(宗慶寺・善仁寺)、松平播磨守屋敷跡や旗本屋敷跡などを合併した。
 町名は、永久の町の発展を願って久堅町とした。
 戦後造られた環状3号線の坂名は、ここに屋敷のあった松平播磨守(常陸府中・水戸家支藩)にちなんで、播磨坂と名づけられた。町の人の努力で育てられた桜並木は、花の名所となり毎年桜まつりが行われている。 文京区」

  
 

「東都小石川繪図」(嘉永7(1854)年 国立国会図書館蔵)

 「松平播磨守」上屋敷部分の抜粋です。

  



○石川啄木終焉の地歌碑 文京区小石川5-11-8

 石川啄木終焉の地の隣接地に、平成27(2015)年3月に歌碑が建てられました。
 裏に碑陰はありません。台座に説明プレートが水平にはめられています。

    

(碑文)
 相馬屋源四郎商店製の200字詰の原稿用紙に書きつけた二首が陶板となっています。
 『悲しき玩具』に収録されました。

 「呼吸すれば、
  胸の中にて鳴る音あり。
   凩よりもさびしきその音!

  眼閉づれど
  心にうかぶ何もなし。
  さびしくもまた眼をあけるかな」

   

 (参考)
  相馬屋源四郎商店は江戸時代から続く老舗の文房具店で、現在も神楽坂で営業しています(こちらで記載)。
  和半紙だった原稿用紙を尾崎紅葉の助言で洋紙にして売り出したのが「相馬屋製」原稿用紙です。
  尾崎紅葉、夏目漱石、北原白秋、石川啄木、坪内逍遥といった文豪たちに愛用されました。

  

 石川啄木は病状が悪化していく中で、相馬屋まで原稿紙を買いに出かけています。
「一月三十日(火)
 夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのつて神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひに出かけた。帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシヤ文学』を二円五十銭で買つた。寒いには寒かつたが、別に何のこともなかつた。
 本、紙、帳面、俥代すべてで恰度四円五十銭だけつかつた。いつも金のない日を送つてゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心!それからまたそれに裏切る心!私はかなしかつた。」(石川啄木「ローマ字日記」明治45年1月30日)
 

「石川啄木晩年草稿より
 平成廿七年三月 文京区」

 啄木直筆原稿の左の楢崎華祥氏による揮毫です。

  

(説明板)
「石川啄木終焉の地歌碑
 この地に石川啄木の住まいがありました。その家で啄木が最後に創作した歌がこの2首です。右に東京都指定旧跡「石川啄木終焉の地」の説明板、左の顕彰室に歌碑の解説等がありますのでご覧ください。

 北岩手郡渋民村(現在は盛岡市内)を故郷とし、この地でその生涯を閉じた石川啄木。ゆかりの深い文京区と盛岡市では平成19年より啄木の顕彰等を通じて交流を深めてきました。
 啄木の没後100年を迎えた平成24年、啄木を愛する方々による「啄木終焉の地に歌碑を」との声を受け、文京区は隣接する国有地の取得を発表。建碑に向けて検討を開始しました。

 平成25年、隣接地への高齢者施設の開設にあわせて啄木歌碑と顕彰室の設置を決定。文京区石川啄木基金を設けて、広く寄附を呼びかけました。
 平成27年3月、多くの方々のご協力をいただき、この歌碑が誕生しました。
   碑材:姫神小桜(啄木のふるさとの山・姫神山産)
   揮毫(啄木直筆原稿の左):楢崎華祥氏」

  


石川啄木顕彰室 文京区小石川5-11-8

 石川啄木終焉の地の隣接地に「石川啄木顕彰室」が設置されています(平成27(2015)年3月22日)。
 啄木の足跡、とりわけ文京区との関わりを中心に写真やパネル、年表等で紹介されています。
 また、歌碑に使用した直筆原稿やこの地から送った手紙に関する展示があります。
 開室時間は午前9時〜午後5時(年末年始、特別閉室時を除く)。

    

    

<パンフレット>

   


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