【医学部】
○ ベルツ像/スクリバ像
○ 水原秋桜子句碑
○ ヒポクラテスの木
○ 医学図書館レリーフ
○ 隈川宗男像
○ 明日の医学と医療を拓く/医学部本館(2号館)
○ 解剖台記念碑
【附属病院】
○ 鉄門
○ 相良知安先生記念碑
○ 東京大学医学部附属病院
○ 佐藤三吉像
○ 青山胤通像
東京大学附属病院に向かってベルツ(内科)とスクリバ(外科)の胸像が並んで建てられています。
明治40(1907)年4月に胸像除幕式が行われました。
ベルツ(Erwin von Baelz)は明治9(1876)年6月、26歳の時に東京医学校に赴任し、内科教師として明治35(1902)年に東大を退官するまで、
26年間にわたり学生を教え内科医として診察にも当りました。退官後は宮内省の侍医となりました。
スクリバ(Julius Carl Scriba)は明治14(1881)年6月に33歳の時に東京医学校に赴任し、前任者シュルツェのあとを継ぎ、
明治34(1901)年9月まで20年間にわたって外科教師を務め診療にも当たりました。
二人は東京大学医学部における最後の外国人教師となりました。
(碑文)
「東京大學名誉教師ベルツ先生(在職一八七六〜一九○二)同スクリバ先生(在職一八八一〜一九○一)は本學部創始のころ二十年以上にわたってそれぞれ内科學外科學を教授指導しわが國近代醫學の眞の基礎を築いた恩人である
この碑は両先生の功績を記念するため明治四十年四月四日(一九○七)建設せられたがこのたび醫学部總合中央館の新築にともなって昭和三十六年十一月三日(一九六一)原位置の北方約六十メートルのこの地点に移した
東京大學醫學学部」
<エルウィン・フォン・ベルツ胸像>
(説明板)
「Erwin von Baelz (エルウィン・フォン・ベルツ)1849〜1913
南ドイツのピーティヒハイムで生れる。チュビンゲン大学医学部に入学し、ライプチヒ大学医学部を最優秀の成績で卒業した。ライプチヒ大学病院に入院した第一回医学留学生の相良元貞を診察したことがきっかけとなり、明治9年(1876)に下谷和泉橋時代の東京医学校に招聘された。明治35年までの26年間、内科学の教育と診療にあたり、わが国の内科学の礎を築いた。明治14年以後は東京大学医学部の外国人教師の主任を務めた。ツツガムシ病、肺ジストマ、温泉療法、人類学、民俗学などを研究し、世界で最初に肺吸虫卵を発見した。退任後は侍医を務め、明治38年に帰国した。「ベルツの日記」は日本の近代化を記録した歴史的資料として知られる。大正2年に大動脈瘤により没した。」
<ユリウス・カール・スクリバ胸像>
(説明板)
「Julius Karl Scriba(ユリウス・カール・スクリバ)1848〜1905
ヘッセン大公国ラインハイムに生れる。ハイデルベルグ大学で医学を学び、フライブルグ大学外科で助手を務めた。明治14年に来日し、20年間にわたり東京大学医学部で教育・診療に従事し、わが国の外科学の礎を築いた。無菌手術とエスマルヒ駆血帯を用いた無血手術を導入したといわれる。明治24年に大津で襲われたロシア皇太子の治療と、明治28年に日清戦争の講和会議に出席して狙撃された李鴻章の治療のため、政府より派遣された。明治34年に東京帝国大学での任期が終了、その後、聖路加国際病院外科主任に就任したが、明治38年に肺結核と糖尿病により鎌倉で没した。青山霊園外国人墓地に眠る。」
「長沼守敬作(明治40年)」
「胸像を ぬらす日本の 花の雨 秋桜子」
水原秋桜子は、大正7(1918)年に東京帝国大学医学部卒業しています。
碑に刻まれた句は昭和36(1961)年に詠まれたもので、句碑は昭和54(1979)年の建立です。
「胸像」とはベルツ・スクリバ両博士の像です。
(銘文)
「ヒポクラテスの木(スズカケノキ)
Platanus orientalis L.
このヒポクラテスの木は1955年篠田秀男博士がギリシアのコス島の原木の種子を持ち帰り日本で発芽させて育てられた株からの採り木の一つである。1971年3月緒方富雄名誉教授は篠田博士に乞うてこれをゆずりうけ、5年たらず手もとで育てて、このたび医学図書館前に植えたコス島株とともに寄贈された。
この場所を選んだのは、ベルツ・スクリバ両教師の記念像と呼応してすこやかに育ってくれるのを期待してのことである。この機縁を与えられた緒方名誉教授と、この数を教授に贈られた篠田博士に深甚の謝意と敬意を表してこのことをしるす
1975年11月29日 東京大学医学部」
医学図書館前にも「ヒポクラテスの木」があります。
(銘文)
「ヒポクラテスの木(スズカケノキ)
Platanus orientalis L.
ギリシャのコス島のコスの町に巨大なスズカケの老木があって、ヒポクラテスの木とよばれている。コスで生まれたヒポクラテスがその親木の下で医学を教えたという。
この老木の種子をコスで育てた若木が、1972年1月17日アテネのDr.Thomas
Doxiadisから緒方富雄名誉教授へ贈られてきた。教授はそれを4年近く手もとで育て、このたび特にこの医学図書館にと指定して寄贈された。ヒポクラテスゆかりの地で育った株がここで茂る機縁を与えられた緒方名誉教授と、その株を教授に贈られたDr.Doxiadisに深甚の謝意と敬意を表してこのことをしるす。
1975年11月29日 東京大学医学部」
医学部紋章のレリーフの碑です。
「東京大学医学部医学図書館
創立二十周年記念
昭和五十六年十一月三日」
(参考1)
「若き日のベルツ博士」(伊香保湯元)
「日本彫刻会々員 能登藤吉郎 作」 の銅像です。(こちらで記載)
(参考2)
「ベルツの別荘跡」(木賀湯滝温泉源泉地 箱根町木賀)
国道138号の早川沿に、ベルツ博士の別荘が建てられていた場所に、
ベルツ博士についての解説板があります。(こちらで記載)
富士屋ホテルで働く女性の手が荒れているのをみたベルツは、「ベルツ水」を創製しました。
(画像は、東京大学「健康と医学の博物館」展示より)
エルウイン・ベルツ(東京帝国大学 小川一真 明治37年)
ユリウス・スクリバ(東京帝国大学 小川一真 明治33年・37年)
朝倉文夫作の胸像です。
台座の四面に鶏の浮彫りが嵌められています。
(説明板)
「隈川宗男 1858〜1918
福島藩島町出身。明治16年に東京大学医学部を卒業。翌年より5年間ベルリン大学に留学し、ザルコフスキー教授のもと生化学を研究した。帰国後の明治23年、医科大学病理化学上取調嘱託(講師)に任ぜられ、わが国における生化学の開拓者となった。同年駒込病院医長、明治24年に帝国大学医科大学教授に就任した。明治30年に医化学講座が生理学講座から独立すると、最初の教室主任となった。糖の定量法(Pavy‐隈川‐須藤法)で知られる。大正6年、青山胤通教授の後任として医科大学学長に就任したが、半年後の大正7年4月に病没した。
朝倉文夫作(製作年不詳)」
隈川宗雄 医科学教授(東京帝国大学 小川一真 明治33年・明治37年)
東京大学医学部附属病院150周年記念モニュメント「明日の医学と医療を拓く」
平成21(2009)年の建立。
(銘板)
「明日の医学と医療を拓く
平野智子(平成20年度医学科4年)
医師と患者 臨床と研究と教育
かかわるすべての人々が
向き合い手を携え創り出す
M‐Medicine
まなざしの先に映るいのちは
医学の腕に抱かれ医療の懐に癒される
健やかで安らかな明日へ
ここに願いをこめて
平成20年5月
医学部・医学部附属病院創立150周年記念事業
「学生提案モニュメント公募企画」最優秀作品」
昭和11(1936)年築。
本館(2号館)東側の玄関アーチ内に解剖台の記念碑があります。
大正4年から昭和13年まで、病理学教室で使用されていた解剖台に、
病理学教室の創設以降の教授、三浦守治(1857〜1916)、山極勝三郎(1863〜1930)、長與又郎(1878〜1941)の3名の顕彰文が刻まれています。
昭和16(1941)年に設置された碑です。
解剖台記念碑
遺族待合室
(碑文)
「謀事熟慮深思 行事公明正大 年事堅忍不抜」
「この解剖台はわが病理學教室を創設し東京帝國大学の病理学の教授の椅子に初めて就かれつる三浦先生その後を継ぎて癌に関する世界的業績を挙げられつる山極先生教室を擴大し完備しわが國病理學の光輝を内外に發揚せられつる長與先生の三先生が多年傍に立ちて親しく後進の研究を指導振奨せられし所のものなり且つ三浦山極両先生は身を斯學の為に献ぐべくその最期をこの台上に横たへられきかくも尊き台なるをもて三先生の偉大なる功績を傳へまく不朽の記念として茲に之を保存すわが教室に入らむ者は朝に夕に恩徳を仰慕すべきなり
昭和十六年十二月 病理学教室」
「コノ解剖臺ハ故長與名譽教授ノ設計ニカカリ大正四年五月舊病理學教室解剖室ノ改裝時ヨリ昭和十三年五月新教室移轉ノ直前マデ二十三年間使用セラレタ同型ノモノ四臺中ノ一ツデアル。」
「世の中の風あらく吹きしきるとも こころの海に波なたてそね 守治」
三浦守治教授の歌が刻まれています。
「癌出来つ意気昂然と二歩三歩 曲川」
世界で初めて人工癌の発生に成功した時の喜びを詠んでいます。
「曲川」は、山極勝三郎教授の出身地の千曲川からとった俳号です。
「健康と医学の博物館」で紹介されています。
「解剖学実験室」(東京帝国大学 小川一真 明治33年)
記念碑より一世代前の解剖台が並んでいます。
三浦守治 病理学及病理解剖学教授(東京帝国大学 小川一真 明治33年・明治37年)
山際勝三郎 病理学及病理解剖学教授(東京帝国大学 小川一真 明治33年・明治37年)
東京大学医学部と附属病院の創立に当る神田お玉ヶ池の種痘所に由縁する鉄門が無縁坂に再建されています。
「鉄門」の名称は、現在も東京大学医学部の通称として使用されています。
(参考)「伊東玄朴と種痘所」(「こちらで記載」)
(説明板)
「鉄門の由来
東京大学医学部と附属病院の創立は安政五年(一八五八年)、神田お玉ヶ池の川路聖謨の屋敷地に開設された種痘所にさかのぼる。種痘所は類焼により同年、下谷和泉橋通りに移転した。種痘所の門扉は厚い板を鉄板で囲い、鉄板の間を頭の丸い鋲釘で打ちつけ真黒に塗ってあったので、江戸の人々は種痘所を鉄門と呼んでいた。種痘所は西洋医学所、医学所、医学校、大学東校、東校、東京医学校と改称され、明治十年(一八七七年)に東京大学医学部となった。
東京医学校は明治九年(一八七六年)に本郷に移転した。本館は時計台のそびえる洋館で、現在の附属病院外来棟玄関の辺りに建てられた。正門はその向かい、現在の南研究棟(通称赤レンガ)の位置(本地点より西に約三十メートル)に設置された。移転当初は種痘所の門扉も使用されたが、やがて格子模様の鉄製扉に変えられた。
当時、医学部正門は本郷キャンパスの正門であった。明治十七年(一八八四年)に法・文学部が、翌年理学部が神田一ツ橋から移転してきたことにより、共通の公式門として本郷通り側に正門が設けられ、以後、医学部正門は鉄門と呼ばれるようになった。しかしながら、大正期に鉄門前の民有地が構内に取り込まれたため鉄門は撤去された。
東京大学医学部の創立百五十周年を記念し、鉄門をゆかりのある無縁坂上に再建した。末永く多くの人々に愛されることを願うものである。
東京大学医学部・医学部附属病院」
相良知安は、ドイツ医学を範とし、日本の医学制度を創設しました。
明治5(1872)年に第一大学区医学校の初代校長となり、相良の尽力により東京医学校は明治9(1876)年に下谷和泉橋通りから本郷に移転し、
明治10(1877)年に東京大学医学部となりました。
1877)
(説明板)
「相良知安先生記念碑
明治維新後、わが国の医学教育はオランダ医学からイギリス医学へ転換する方針であった。しかしながら明治二年、医学取調御用掛に任ぜられた佐賀藩医の相良知安(さがらちあん)の強い進言により、当時隆盛を示していたドイツ医学の採用が決定した。これにより明治四年、プロシアの軍医ミュルレルとホフマンが招聘された。相良は明治五年に医学校校長に任ぜられ、さらに文部省医務局長を兼任した。現在の上野公園一帯に医学校と大学病院の建設を計画したが容れられず、本郷旧加賀藩邸を代替地として請願し許された。相良の尽力により東京医学校は明治九年に下谷和泉橋通りから本郷に移転し、明治十年に東京大学医学部となった。
本記念碑は昭和十年に入澤達吉名誉教授の撰文によって池之端門上の高台に建てられた。近年は樹木と建物に隠れその存在は忘れられていたが、わが国の近代医学史を記す貴重な史料であることに鑑みこの地に移設した。
平成十九年三月 東京大学医学部・医学部附属病院」
第一研究棟は昭和3(1928)年の建築、管理・研究棟ば昭和9(1934)年の建築です。
第一研究棟前に「佐藤三吉像」と「青山胤通像」とが並んでいます。
「佐藤三吉像」の台座には、外科手術の様子のプレートがはめられています。
(説明板)
「佐藤三吉 サトウサンキチ 1857〜1943
大垣藩士の三男として生まれる。明治4年に上京、司馬凌海の塾で学んだ。明治5年に大学南校に入学しドイツ語を学ぶ。翌年校則の変更により東校へ転校し予科生となった。明治15年に東京大学
医学部を卒業、スクリバ教師のもとで助手となった。明治16年、内科の青山胤道とともにドイツへ留学、ベルリン大学ベルヒマン教授のもとで外科学を学んだ。さらにロンドンのセントトーマス病院を見学し、明治20年に帰国、同年帝国大学医科大学教授、明治26年講座制の発足により外科学第二講座教授に就任した。明治26年第二医院外科主任、明治33年第一回日本外科学会長、明治34年附屬医院院長、大正7年東京帝国大学医科大学長、昭和18年、肺炎により没した。
水谷徹也作(大正13年)」
「佐藤三吉外科学教授肖像」(東京帝国大学 明治33年及び明治37年)
青山胤通は、明治20年(1887)29歳で帝国大学医科大学教授に就任し、明治34(1901)年9月東京帝国大学医科大学長となっています。
明治天皇や大隈重信の主治医も務めました。
森鴎外とは親友で、森鴎外と斉藤緑雨の尽力で、青山胤通が呼ばれ樋口一葉は往診を受けますが肺結核の末期でした。
青山博士がペストに罹ったとを知った樋口一葉は「知らぬ人にもあらぬ仲なれば、殊に哀なり」と述べています。
石川啄木は、東京帝国大学医科大学付属病院の青山内科に入院し、青山博士が啄木の主治医でした。
啄木の日記に「青山博士の廻診」との記載が度々見受けられます。
(参考)「石川啄木の入院」
(説明板)
「青山胤通 アオヤマタネミチ 1859〜1917
美濃国苗木藩士の三男として江戸麻布の下屋敷に生れる。明治15年に東京大学医学部を卒業。明治16年にベルリン大学に留学し、ウィルヒョウ教授らについて内科学と病理学を学んだ。帰途、パリでシャルコー教授にも教えを受けた。明治20年に帰国後、帝国大学医科大学教授に就任、明治25年より和泉橋の第二医院内科を主管した。明治26年講座の発足により内科学第二講座教授(のちに第一講座教授)に就任した。明治27年春香港のペスト流行に際し、北里柴三郎博士と共に派遣され病理解剖を担当したが、自ら感染した。医科大学学長を16年間務め、医学界に影響力を発揮した。この間、文部省に移管された伝染病研究所の院長も兼任した。明治36年第一回日本内科学会会長、明治41年癌研究会初代会頭。在任中の大正5年胃噴門癌で没した。
新海竹太郎作(大正9年)」
「男爵青山胤通肖像」(出典:「男爵青山胤通先生(略伝)昭和13年」「東京帝国大学」明治33年及び明治37年)
<石川啄木も入院した内科病室>
石川啄木も入院した内科病室は、運動場下の通路の反対側に建ち並んでいました。
「東京帝国大学一覧 明治43年」 運動場下通路「東京帝国大学
明治37年」 内科病室「東京帝国大学 明治37年」