Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 伊東玄朴と種痘所/お玉が池とその界隈

  ○ 町名由来板「神田松枝町」
  ○ お玉ヶ池種痘所記念碑
  ○ お玉ヶ池種痘所跡
  ○ 伊東玄朴居宅跡・種痘所跡
  ○ 三井記念病院
  ○ 伊東玄朴の墓(東京都旧跡)


町名由来板「神田松枝町」 千代田区岩本町2-5

 神田祭宮入りの神田松枝町会「羽衣人形山車」の写真がはめ込まれています。

    

(説明板)
「神田松枝町  コラムニスト 泉麻人
 この界隈は、昭和四十年代のはじめまで神田松枝町と呼ばれていた。松枝……松が繁っていた土地、というわけではなく、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女中の名に由来する、という説がある。よほど有能な人だったのか、彼女に屋敷地としてこの一帯の土地が与えられ、宝永二年(一七○五)ころから町の呼び名になったという。
 旧松枝町あたりを中心にして、江戸のころまで、「お玉が池」という広大な池があったらしい。桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔に茶屋が建っていた。「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前で、「江戸名所図会」によると、あるとき「人がらも品形もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じてしまった。亡骸は池の畔に葬られ、そんな伝説から名が付いたという。現在、そのゆかりの「お玉稲荷」がマンションの狭間にぽつんと残っている。
 景勝地・お玉が池の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていた。その一人である伊東玄朴ら蘭方医たちが尽力して、安政五年(一八五八)、種痘館(のちに幕府直轄の種痘所となる)を設立する。このお玉が池種痘所が、いまの東大医学部の出発点、なのだという。種痘所跡を記す碑が、町内の交差点と少し南方の加島ビル(一階は反物問屋)の所にある。
 周辺をじっくりと散策してみたところ、ほかにも「お玉」の面影を残す“物件”を見つけた。「お玉湯」という銭湯。ビル一階の銭湯だが、湯につかると往時のお玉が池の風景が想い浮かんできそうである。それともう一つ、種痘所跡の石碑の真ん前にあるウナギ料理屋の看板に、「あ玉が池」なるメニューを発見した。入って味わってみたところ、これは「お玉」にひっかけて、ウナギの頭を唐揚げにした珍味。店内には先の「江戸名所図会」に描かれた「お玉が池」の絵が飾られ、その名を付けたミニチュアの池まで設けられている。ちなみにこの店は弘化二年(一八四五)創業の老舗だが、店を始めた当時、すでにお玉が池は埋めたてられていたそうだ。」
(筆者註:鰻屋「ふな亀」(岩本町2-5-8)は、2008年2月に閉店しました。)

     


お玉ヶ池種痘所記念碑 千代田区岩本町2-5-8

 「岩本町三丁目」交差点の水天宮通り歩道に、
 「お玉ヶ池種痘所記念碑」があります。

     
 

(碑表)
 「お玉ヶ池種痘所記念」
 「東京大學醫學部」

  
 

(碑陰)
「お玉が池種痘所の記念に
一八五八年・安政五年五月七日 江戸の蘭學醫たちが資金を出しあつてこの近くの川路聖謨の屋敷内に種痘所を開いた。これがお玉ヶ池種痘所で江戸の種痘事業の中心になった。ところがわずか半年で十一月十五日に類焼にあい下谷和泉橋通へ移つた。この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたるのでその開設の日を本學部創立の日と定め一九五八年・昭和三十三年五月七日創立百周年記念式典をあげた。
いまこのゆかりの地に由来を書いた石をすえまた別に種痘所跡にしるしを立てて記念とする。
  一九六一年十一月三日
  昭和三十六年文化の日
     東京大學醫學部」

   


お玉ヶ池種痘所跡 千代田区岩本町2-7-11

 3つの石碑が縦に並んで設置されています。

   
 

「江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所
 お玉ヶ池史蹟保存会」

  
 

「お玉ヶ池と種痘所
お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです
一時は池のほとりに
 梁川星巌の玉池吟社
 市川寛斎の江湖詩社
 大窪詩仏の詩聖堂
 東條一堂の瑶池塾 
 佐久間象山の象山書院
 剣士千葉周作の道場玄武館
 磯又右衛門の柔道道場
 永坂石たい宅 清元太左衛門宅など
文武の華が咲きほこりました
この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘所があったところで東京大学医学部発祥の地です 同学部は昭和三十三年に迎えた創立百年の記念に昭和三十六年文化の日お玉ヶ池種痘所記念碑と同時にこゝに元標を立てられました
  お玉ヶ池史蹟保存會」

  
 

(碑表)
 (正面)「お玉ヶ池種痘所跡」
 (左面)「神田お玉ヶ池松枝町續元誓眼寺前勘定奉行川路聖謨屋敷内」
 (右面)「東京大學醫學部」

    


伊東玄朴居宅跡・種痘所跡 台東区台東1-30-8

 台東一丁目交差点に、説明板「伊東玄朴居宅跡・種痘所跡」があります。
 伊東玄朴は医学を志し、長崎の鳴滝塾でシーボルトよりオランダ医学を学びました。
 江戸で医者として開業、安政5(1858)年には幕府奥医師となり、蘭方医として種痘所(後の幕府の医学所、現東京大学医学部)の開設などに尽力し、
 明治4(1871)年に72歳で没しました。墓(東京都旧跡)は谷中の天龍院にあります。

   

(説明板)
「伊東玄朴居宅跡・種痘所跡
   台東区台東一丁目三十番付近
 この辺りに、蘭方医伊東玄朴の居宅兼家塾「象先堂」があった。伊東玄朴は、寛政十二年(一八○○)肥前国仁比山村(佐賀県神埼郡神埼町)で農民の子として生まれた。後佐賀藩医の養子となり、長崎でドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトらに蘭学を学び、その後江戸に出て、天保四年(一八三三)当地に居を構えた。安政五年(一八五八)には、将軍家定の侍医も務め、その名声は高まり門人が列をなした。
 玄朴はまた、江戸においてはじめて種痘法を開始した人物である。種痘とは、一九八○年に世界保健機関(WHO)より撲滅宣言された天然痘に対する予防法。一七九六年、イギリス人エドワード・ジェンナーが発明し、天然痘によって多くの人間が命を落としていたため、種痘法は西洋医学をわか国で受け入れる決定的な要因になった。嘉永二年(一八四九)長崎でドイツ人のオランダ商館医オットー・モーニケが、佐賀藩医楢林宗建の子供に接種したのがわか国における種痘成功の最初である。
 江戸では、安政四年(一八五七)、神田お玉ヶ池(現、千代田区岩本町)に玄朴ら八十余名が金銭を供出して種痘所設立を図り、翌年竣工した。種痘所は、この翌年火災により焼失してしまったため、下谷和泉橋通の仮施設に移り、翌万延元年(一八六○)再建された。同年には幕府直轄の公認機関となり、この後「西洋医学所」「医学所」「医学校」「大学東校」という変遷をたどり、現在の東京大学医学部の前身となった。
 幕府の機関となった種痘所の位置は、伊東玄朴宅のすぐ南側、現在の台東一丁目三十番地の南側半分、同二十八番地の全域に相当する。
 なお、台東区谷中四丁目四番地の天龍院門前には、伊東玄朴の墓(都指定旧跡)についての説明板が建っています。
  平成十四年三月  台東区教育委員会」

   
 

<江戸切絵図>

 「伊藤玄卜」とあります。

  
 

 ライバル関係である漢方の「医学館」(現在の台東区浅草橋4-16)が、近くにありました。

  


三井記念病院 千代田区神田和泉町1

 明治元(1868)年、横浜の軍陣病院が下谷藤堂邸に移され、医学所(種痘所から発展)を含めて大病院と称しました。
 その後、変遷を経て三井記念病院が開院しています。

  

(パネル)
「三井記念病院の由来
 社会福祉法人三井記念病院は、1858年(安政5年)江戸お玉ケ池近く(現千代田区岩本町2丁目)に開設された種痘所から発展した東京帝国大学(現東京大学)医科大学附属第二医院跡地(現在地)に、財団法人三井慈善病院として1909年(明治42年)に開院したのが始まりである。
 1906年(明治39年)10月、健康保険制度や生活保護法がなかった時代に、三井家は「汎ク貧困ナル病者の為メ施療ヲ為スヲ目的」として施療病院を開設するため100万円を寄付し、これを基金として財団法人組織の慈善病院設立の許可を得た。
 病院の建設地には、当時貧困層が医療を受けるために至便な東京帝国大学第二医院跡地(1901年に全焼)を選びただちに着工した。建物は1908年(明治41年)12
月10日竣工し、1909年(明治42年)3月21日に開院式を行った。無料診療を行う民間唯一の病院として、患者の診療を東京帝国大学医科大学に委託して診療を開始した。
 以来、数度の名称変更を経ながら終戦まで同大学医学部の協力のもとで高度な医療を提供しつつ無料診療を行い、戦後も創設以来の精神を受け継ぎ、社会福祉法人として診療事業を行っている。
 ここに百周年記念建替事業の完了を記念して由来を記す。
  社会福祉法人 三井記念病院
        2011年9月15日」

    


天龍院 台東区谷中4-4-33 HP

 幕末期の蘭方医である伊東玄朴の墓は天龍院にあります。

     

(説明板)
「伊東玄朴墓(都指定旧跡)
 伊東玄朴は、近世後期の蘭方医。寛政十二年(一八○○)、肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)の農家に生まれる。医学を志し、長崎では通詞猪股伝右衛門とドイツ人フォン・シーボルトに師事してオランダ語、西洋医学を学んだ。
 文政十一年(一八二八)、江戸に出て、本所番場町(現、墨田区東駒形一丁目)で開業、翌年下谷長者町(現、台東区上野三丁目)に転居し医療を施し、天保二年(一八三一)には、佐賀藩医となった。同四年、移転した下谷和泉橋通(現、台東区台東一丁目)の家は、象先堂と称し、訪れる者が列をなしたという。
 玄朴は、嘉永二年(一八四九)、幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締令に対抗するため、私設種痘所の建設を企画、同士に呼び掛けた。安政五年(一八五八)、神田お玉が池(現、千代田区岩本町)に設立され、これが蘭方医学を幕府に認めさせる突破口となった。種痘所は、翌年火災による焼失のため、玄朴宅の隣地である下谷和泉橋通に移転、再建された。万延元年(一八六○)には、幕府直轄となり翌年西洋医学所と改称、玄朴はその取り締まりに任命された。その後は明治政府に引き継がれ、現在の東京大学医学部の前身となった。
 玄朴は、明治四年、七十二歳で没し、ここ天龍院に葬られた。ドイツ人ビショップの著書の翻訳『医療正始』は、現在でも高く評価されている。
 なお、台東一丁目三十番には、種痘所跡・伊東玄朴居宅跡の説明板が建っています。
  平成十四年三月  台東区教育委員会」

   
 

<墓地>

 本堂裏の墓地にある伊東玄朴墓へ向かいます。
 伊東玄朴墓は樹木墓地の奥にあります。

  
 

<手水鉢>

 墓地入口にある手水鉢は、「銭型手水鉢」です。
 水穴の四角を漢字の「口」として合わせて使います。すると「吾」「唯」「足」「知」の四つの漢字となります。
 「吾唯足るを知る」となります。

  
 

<伊東家墓所>

 一番手前右手に「伊東家之墓」、続いて「伊東方成夫妻之墓」、最奥に「伊東玄朴先生之墓」はあります。

    
 

「伊東方成夫妻之墓」

 婿養子の伊東方成は、明治天皇の侍医も務めました。
 昭和天皇の侍医を務めその死を看取った伊東貞三も伊東玄朴のご子孫です。

    
 

「伊東玄朴百年諱供養塔」(昭和46年)

   
 

 左「伊東玄朴先生配猪俟孺人之墓」、右「伊東玄朴先生之墓」(東京都旧跡)です。

     
 

<その他>

 「高松藩 片岡如軒之墓 弘化元年」
 ネットで調べても全く出てこない墓碑です。

  


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