Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 お玉が池とその界隈/伊東玄朴と種痘所

  ○ 繁栄於玉稲荷神社
  ○ お玉が池児童遊園
  ○ お玉ヶ池跡碑
  ○ お玉が池通り
  ○ お玉ケ池駐車場
  ○ 玄武館道場跡 神田お玉ヶ池畔
  ○ 於玉湯(銭湯)
  ○ 玄武館・瑶池塾跡
  ○ 町名由来板「東松下町」
  ○ 岩本町馬の水飲み広場


繁栄於玉稲荷神社 千代田区岩本町2-5-13

<安政三年地図>

 町名由来板に掲示されていた安政3(1856)年の地図の抜粋です。
 「お玉ヶ池跡」「玉池稲荷」が見えます。

  

<新井商店> 千代田区岩本町2-6-8

 水天宮通りに面した新井商店から西への小路に入ると、すぐ右手に「繁栄於玉稲荷神社」はあります。

  

<幟>
 「繁榮お玉稲荷大明神 お玉ヶ池史蹟保存会」

  

<鳥居扁額>
 「繁榮お玉稲荷」

   

<提灯>
 「繁栄於玉稲荷」

  

<標柱「お玉が池跡」> 東京都旧跡

(標柱)
「お玉が池跡
 江戸時代以前、この地域にお玉が池という池があったと言われています。不忍池よりも大きかったという言い伝えもありますが、詳しいことは分かっていません。当初は桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたという伝説から、お玉が池と呼ばれるようになりました。 千代田区」

   

<社殿内>

   

<弁財天社>

 社殿右手に、小さな池と「弁財天社」が祀られています。

     


お玉が池児童遊園 千代田区岩本町2-5-1

 繁栄於玉稲荷神社から少し西へ行くと「お玉が池児童遊園」があります。

   

 昭和31(1956)年に千代田区が建てた、東京都史蹟「お玉ヶ池跡」の標柱があります。
 花壇の縁取りは、池をイメージしているようです。カエルがいます。

 「お玉ヶ池跡」
 「東京都史蹟指定 昭和三十一年一月千代田区建之」

      

(説明板)
「神田お玉が池
 江戸時代以前、この地域にはお玉が池と呼ばれる池がありました。当初は桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げた故事から、お玉が池と呼ばれるようになったといわれています。
 池は江戸時代の早い時期に埋め立てられ、正確な場所は不明ですが、岩本町二丁目・神田岩本町・神田東松下町周辺であったと考えられます。
 江戸時代以降、この地域は文化人が多数住む場所として知られていました。江戸時代後期に発行された人名録からは、儒学者・漢学者・蘭学者が塾を開き、剣術家・柔術家などが道場を開いていたことが分かります。  千代田区」

    

「東都旧跡尽 神田お玉が池の故事」(広重)

 説明板に掲示されている広重の錦絵です。茶屋というか野点です。

  

「江戸名所図会 於玉ヶ池の古事」

 広重はこちらを参照していますね。

  


お玉ヶ池跡碑 千代田区岩本町2-6-3 全宅連会館

 会館北の植栽に「お玉ヶ池跡」碑があります。

 「東京都指定史蹟
  お玉ヶ池跡」

    


お玉が池通り 千代田区岩本町2丁目

 西→東
    

 東→西
   

お玉ケ池駐車場 明治鋼業 千代田区岩本町2-2

 駐車場に「お玉ケ池」の名称がつけられています。

  

玄武館道場跡 神田お玉ヶ池畔 千代田区岩本町2-3-11 明治鋼業ビル

 明治鋼業ビル1階右手入口脇に碑があります。
 玄武館道場はここにあったわけではなく、神田お玉ヶ池畔にあったことを示す碑です。

 「史蹟
  北辰一刀流 千葉周作先生
  玄武館道場跡
  神田お玉ヶ池畔」

    

<明治鋼業ロゴマーク>

「明治鋼業株式会社セキレイロゴマークの由来
明治鋼業本社(千代田区神田岩本町)は江戸時代、神田お玉ヶ池があった場所で、池畔には、江戸時代の剣豪・千葉周作が開いた北辰一刀流「玄武館道場」が建てられていました。北辰一刀流は刀の切っ先をセキレイの尾のように上下に動かせることで有名で、明治鋼業のロゴに描かれたセキレイは、どんな困難な入刀にもただちに対処できる研ぎ澄まされた感覚を持っていたいとの願いが込められています。」(HPより引用)

  


於玉湯 千代田区岩本町2-2-14

 「於玉」の名前が残るビル内銭湯です。

   


玄武館・瑶池塾跡 千代田区神田東松下町23

    

(碑文)
「右文尚武
 東條一堂先生瑶池塾の址
東條一堂先生は江戸時代の漢学の大家で安政七年十一月七日千葉縣茂原市八幡原に生まれた名は弘といひ一堂はその號であるはじめ皆川淇園亀田鵬斎等に従って業を受けたが學成つて後神田お玉が池に瑶池塾を開いたこの塾は市橋主殿頭の邸と千葉周作の玄武館の間に在り今の千櫻小学校の地に當ってゐるこの両先生は親交があり自然門人同士も互に相往來して文武の道に勵んだ先生は老中阿部正弘を始め盛岡庄内等の各藩公に召されたが往還常に輿を以て送迎されたので世に輿儒者の稱があつた天性勤王の志篤く氣節に富んでゐたので弟子三千餘人の中には清川八郎桃井儀八鳥山新三郎等幾多の志士が輩出した安政四年七月十三日歿享年八十墓は葛飾区堀切町妙源寺に在る先生の學は漢宋新古の註を排した先秦の古學であり自らは常に焚書以上の人と稱した詩文を善くし又書にも巧みであった著書百二十部その中でも四書知言五辯等が最も有名である
  千葉周作先生玄武館の址
千葉周作先生は幕末に於ける剣術の達人寛政六年正月元旦宮城縣栗原郡花山村に生まれた幼時父幸右衛門に北辰夢想流の剣法を學んだが後松戸の住人淺利又七郎義信の門に入つて小野派一刀流を修め更にその師中西忠兵衛に従って秘術を授かり心気力三者一致の妙諦を悟るに至つたここに夢想流と一刀流とを取捨折衷して最も實用に適する組型を創定しこれを北辰一刀流と稱した玄武館を神田お玉が池に開き桃井春蔵斎藤彌九郎の塾と名を齊しくし江戸の三大道場といはれた後に水戸藩主徳川齊昭慶篤の二公に仕えたが期する所は人材の養成にあつた弟子數千人には海保帆平櫻田良佐庄司辯吉等知名の剣客がありまた坂本龍馬清川八郎等の勤王家も輩出した安政二年十二月十日病没享年六十二墓は豊島区巣鴨本妙寺に在る先生人となり剛毅風貌魁梧身長六尺に近く眼光炯炯として人を射犯すべからざる威厳があった
  明治神宮宮司 鷹司信輔 題額
  文學博士 鹽谷温 撰文
  文學博士 諸橋轍次 書」
「昭和三十二年七月建
 瑶池塾 玄武館 遺蹟保存會」

   

(説明板)
「玄武館・瑶池塾跡
 玄武館は、北辰一刀流開祖の千葉周作が開いた北辰一刀流の道場です。1822年(文政5年)、日本橋品川町に創立された玄武館は、その後神田お玉が池(現在地)に移転します。練兵館・士学館と並び、幕末の江戸三大道場の一つに数えられました。
 玄武館の東隣には、1821年(文政4年)、儒学者の東条一堂が儒学と詩文を教授するため開いた瑤池塾がありました。一堂は、京都の皆川淇園の下で儒学を学んだ後、江戸でも亀田鵬斎に師事して儒学を修めました。  千代田区」

    

「江戸切絵図」

 江戸切絵図(嘉永2(1849)〜文久2(1862))でも確認すると、「東條文蔵」その隣は「イシ」とありました。

  

<宇宙船千桜号>

 千桜小学校廃校 → アルファグランデ千桜タワー

  

<千桜百年の碑>

 赤い石の「千桜百年」碑(千桜小学校創立百年記念事業協賛会)が、説明板の下に埋もれています。

  

<防災井戸>

   


○町名由来板「東松下町」 千代田区神田東松下町17

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 東松下町
 江戸時代のこの界隈は、商人や職人の家と、武家屋敷が混在する場所でした。このうち武家地には、「お玉が池」という一風変わった通称の一角があったことも知られています。
 文政八年(一八二五年)、北辰一刀流の開祖千葉周作の剣術道場「玄武館」が、日本橋品川町からこの地に移ってきました。門人数千人という玄武館は江戸随一の道場ともいわれ、坂本龍馬、清河八郎、山岡鉄舟なども同門の出身です。また、玄武館の隣には、儒者東条一堂の「瑤池塾」がありました。幕末のこの界隈は、新時代を切り拓くために奔走した若き志士たちが、飛躍へむけ文武を練った場所だったのです。
 明治二年(一八六九年)、神田松下町一丁目代地、神田紺屋町一丁目代地、神田三島町、神田岸町、神田富山町二丁目の一部と武家地が合併し、東松下町となりました。松下町(現在の内神田)一丁目〜三丁目の一部)と区別するために「東」を付けたといわれています。昭和二十二年(一九四七年)、神田を冠して町名は神田東松下町となり、現在に至っています。 東松下町町会」

    

 町名由来板に掲示されている安政3(1856)年の地図の「お玉ヶ池跡」「玉池稲荷」部分の抜粋です。

  


岩本町馬の水飲み広場 千代田区岩本町3-10

 芝生があるだけで、ベンチもなく中に入って休む人もいません。

    

   

(碑文)
「岩本町馬の水飲み広場
 この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を牽く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場所として、重要な役割を果たしてきました。
  千代田区役所」

   

(参考その1)
 日比谷公園に馬の水飲みがあります。

   

(参考その2)
 新宿駅東口ひろばに、倫敦から東京市に寄贈された「馬水槽」があります。

  


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