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 石川啄木ゆかりの地

  ○ 石川啄木歌碑 (湯島:切通坂)
  ○ 切通坂


石川啄木歌碑(切通坂) 文京区湯島4-6

 石川啄木が、東京朝日新聞社からの夜勤の帰りに通った切通坂に、石川啄木の歌碑があります。

   

 『悲しき玩具』に収録の歌が刻まれています。
 (碑文)
  「二晩おきに
   夜の一時頃に切通しの坂を上りしも
   勤めなればかな。 石川啄木
    昭和五十五年三月 文京区教育委員会」

  

(銘文)
「この歌は、石川啄木(一八八六〜一九一二)の明治四十三年(一九一○)の作で、『悲しき玩具』に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。
 当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷二ノ三八ノ九・新井理髪店)の二階に間借りしていた。そして、一家五人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。
 夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上ったことであろう。
 喜之床での二年二か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。
 文京区内で、最後に残っていた啄木ゆかりの家“喜之床”が、この三月十八日に、犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。
  昭和五十五年五月三日  文京区教育委員会」

  

<石川啄木の夜勤帰り>

 啄木は、東京朝日新聞社での勤務からの帰りは、
 瀧山町の社屋を出て、銀座通りにある東京電車鉄道の竹川町停留場で新橋方面から来る電車に乗り、
 上野広小路で本郷へ向かう東京電車鉄道の切通線(東京市街鉄道が明治39(1906)年に東京電車鉄道に合併)に乗り換えて、
 本郷三丁目停留所で降りて本郷弓町の喜之床借家に帰りました。
 夜勤の帰りは、竹川町停留所で赤電車(最終電車)に乗って、上野広小路停留所では乗換える切通線は終わっており、
 上野広小路から人力車に乗って、あるいは歩いて本郷弓町の借家へ帰りました。
 (※明治44(1911)年に東京市が民間鉄道三社を買い上げて、東京市電気局鉄道となりました。)

 「途中にて乗換の電車なくなりしに、
  泣かうかと思ひき。
  雨も降りてゐき。」(『悲しき玩具』より)

 夜勤ではなくても電車賃がないことも多々でした。
 「社に行って何の変ったことなし。
  昨夜最後の一円を不意の宴会に使ってしまって、今日はまた財布の中にひしゃげた五厘銅貨が一枚。
  明日の電車賃もない。」(ローマ字日記明治42年4月28日)

「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年)

 東京朝日新聞社があった京橋区「滝山町」と東京電車鉄道「竹川町停留所」部分の抜粋です。
 下谷区の上野広小路から本郷区の「切通し」〜「本郷三丁目停留所」(東京市街鉄道切通線)、本郷弓町二丁目の借家部分の抜粋です。

   


切通坂 文京区湯島3丁目・4丁目

 切通坂に面した湯島天神の石垣に、説明板「切通坂」がはめ込まれています。

    

(説明板)
「切通坂 きりとおしざか  湯島三丁目30と四丁目6の間
 「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から御徒町への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
 初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
 映画の主題歌「湯島の白梅」“青い瓦斯灯境内を 出れば本郷切通し”で、坂の名は全国的に知られるようになった。
 また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床(きのとこ)」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。
  二晩おきに夜の1時頃に切通し坂を上がりしも 勤めなればかな  石川啄木
  文京区教育委員会  平成11年3月」

   

「江戸名所図会 湯島天満宮」
 挿絵の左下、湯島天満宮裏に描かれている「切通し」です。
 段差の「切通し」が描かれています。

   

「江戸名所図会 根生院」
 湯島天満宮と切通し坂を挟んでかつてあった根生院と「ゆしま切通」です。
 手前が湯島天満宮で、道に「ゆしま切通」と書かれています。

   

「江戸切絵図」
 「湯島天神」と「根生院」の間に「切トウシ」が見えます。

  


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