Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 千駄木

  ○ 団子坂
  ○ 森鴎外記念館(森鴎外旧居跡)
  ○ 旧町名案内 旧駒込林町
  ○ 高村光太郎旧居跡


団子坂 文京区千駄木2丁目・3丁目

 一帯はもともと千駄木御林と称した林地で、上野寛永寺創建の後、薪材の供給地として寄進されました。
 千駄木の名は、一日千駄の薪を伐り出したことにちなむとされます。
 千駄木から谷中、上野に通じる千駄木坂は、坂上から佃沖が見渡せたため汐見坂とも言い、また団子坂とも、七面坂ともいいました。
 坂上には植木屋が多く、年中何らかの園芸植物が見られました。
 嘉永5(1852)年に宇平治という植木屋が紫泉亭と称する花屋敷を開き、庭園には池を設けたといいます。
 ちなみに浅草の花屋敷は翌年の嘉永6(1853)年に千駄木の植木屋が開園しています。
 安政3(1856)年、染井から菊栽培の植木屋が移り住み、菊人形で知られました。
 坂下には、本郷台地と上野台地の間を縫って谷戸川(藍染川)が流れていましたが、関東大震災後に暗渠となりました。
 

<団子坂>

 団子坂上からの光景です。

   

(説明板)
「団子坂  文京区千駄木2丁目と3丁目の境
 潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
 「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」 (御府内備考)
 「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
 幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。
 また,この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。
  文京区教育委員会  平成10年3月」

   
 

「江戸切絵図」

 「本郷湯島絵図」「根岸谷中辺絵図」 「駒込絵図」から団子坂部分の抜粋です。
 「ダンゴザカ」の南に「千駄木梅屋敷」が見えます。
 「四季花屋敷紫泉亭眺望好シ」とあります。
 藍染川の東に「新幡隋院法住寺」と「大円寺」「カサモリイナリ」が見えます。

    
 

「名所江戸百景 千駄木団子坂花屋敷」(広重)

 渡り廊下で繋がった三階建ての「紫泉亭」が描かれています。
 急な石段坂には、四阿や石燈籠が見えます。桜の下には多くの床几が並んでいます。  
 手前は藍染川説と庭園の池説があります。

   
 

「絵本江戸土産 千駄木 團子坂 花屋舖」(広重)

 挿絵には「元来植木屋の園なるに 近頃様々の花を培て 四時の遊観となせり」とあります。
 其二の反対側である谷中からの光景かと思います。
 手前が藍染川だとすれば、鳥居は大円寺に合祀されていた笠森稲荷でしょうか。
 手前が庭園の池だとすれば、鳥居は庭園の池に島を設けて弁財天を祀っていたということでしょうか。
 「名所江戸百景」の桜の木々を見ると、間に緑色の木々が見えます。
 桜だけではなく植木屋ならではの四季の木々を植えて遊観に供したと考えると「紫泉亭」の庭園内と考えられます。
 花見の名所であった吉原では、季節ごとに木々を植えかえていましたが、
 花見の名所であった「紫泉亭」も、春の桜だけではなく季節ごとの遊観を供していたと考えます。
 タイトルに「花屋敷」とあり、名所の紹介であるのに、花屋敷の花を描かずして藍染川の桜を描いたとは思えません。

  
 

「絵本江戸土産 其二 紫泉亭より東南眺望」(広重)

 挿絵には「傍の岳に浴室を作り遊人をして沐浴せしむ この楼より眺望すれば図する所の勝地眼下にありて実に絶景いわんかたなし」とあります。
 眺望先は、「天王寺」「三崎」「谷中」「幡随院」(関東大震災後足立区東伊興に移転、こちらで記載)「上野」「池之端」「神田」が示されています。
 紫泉亭の渡り廊下先の女性は浴衣を着ており、左の女性は浴衣を手にしています。

  
 

「江戸名所図会 根津権現旧地」

 根津権現の旧地は千駄木坂(団子坂)上の北側にありました。
 千駄木坂(団子坂)上の南側に「紫泉亭」が開園する前の植木屋が描かれています。

   
 

「武蔵百景之内 谷中団子坂菊」(小林清親 明治17年)

 小林清親は、「朝日の出」と命名された大輪の菊の花を手前に大きく描いています。

  
 

「東京開化狂画名所 千駄木團子坂 丸き人物集会」(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)

 団子坂は、転ぶと団子のようになるからともいわれています。
 一番左の男は洋傘をもっているので雨でしょうか。一人は靴ですが三人は下駄です。
 転ぶ前から団子ですが、これから泥だらけの団子になるのでしょう。
 福耳の団子体型の恵比寿様を坂を簡単に上り下りするネズミが励ましているのでしょうか。

  


○森鴎外記念館(森鴎外旧居跡) 文京区千駄木1-23-4

 森鴎外の居宅観潮楼では、観潮楼歌会が、明治40(1907)年3月から明治43(1910)年4月まで毎月1回行われました。
 与謝野鉄幹・平野万里・吉井勇・石川啄木・北原白秋・上田敏(「新詩社」)、
 伊藤左千夫・長塚節・古泉千樫・斎藤茂吉(「アララギ」)、佐佐木信綱が参加しました。

   

「文京区立 森鴎外記念館
 Mori Ogai Memorial Museum
 文京区立森鴎外記念館は、明治、大正期に活躍した森鴎外(本名森林太郎)が暮らした家の跡に建てられています。
 鴎外は、1892(明治25)年1月から、この地で家族とともに暮らしました。家は団子坂の上に位置し、2階から品川沖の白帆がのぞめ、鴎外により観潮楼と名付けられました。
 敷地内には、往時を偲ばせるものが今も残っています。藪下通りには正門の門柱の礎石やや敷石、庭には鴎外ゆかりの「三人冗語」の石や、大銀杏があります。また「沙羅の木」詩碑、「観潮楼址」碑も設置されています。
 鴎外は軍医として勤めるかたわら、「青年」「雁」「高瀬舟」などたくさんの小説や翻訳を執筆しました。また、この家には鴎外を訪ねて、永井荷風、芥川龍之介、伊藤左千夫、石川啄木、斎藤茂吉など多くの文人が訪れました。観潮楼は、森家の住まいのみならず、文人たちの社交塲(サロン)でもありました。
 文京区は、多くの文化人が住んだ文の京でもあります。鴎外がたくさんの人と交流し、みずから散策に出かけたこの地から、当時の面影をさがしに街へお出かけください。」

    


○旧町名案内 旧駒込林町 文京区千駄木3-15-12 説明板

 江戸時代、千駄木一帯はもともと千駄木御林と称した林地で、
 上野寛永寺創建の後、同寺の寺領とし徳川池霊廟用の薪材の供給地とされました。
 千駄木の名は、一日千駄の薪を伐り出したことにちなむとされます。
 狸坂上の駒込林町公園前に「旧町名案内 旧駒込林町」が掲示されています。

(説明板)
「旧町名案内 旧駒込林町(昭和40年までの町名)
 千駄木山の内で、千駄木御林といった地である。
 上野寛寺創建の後、この林地を同寺の寺領とし徳川家霊廟用の薪材をとらせた。
 延享3年(1746)開墾して畑とし、後その内に宅地を設けて御林跡と称えた。当時は下駒込村に属していた。
 明治2年、分かれて1か町として、駒込千駄木林町とした。
 同24年、元下駒込村の内、団子坂、上笹原を併合した。
 同44年には千駄木をとり駒込林町と改称した。町内には、高村光雲(彫刻家、1852〜1934)、高村光太郎(詩人・彫刻家、1883〜1956)父子や、宮本百合子(小説家、1899〜1951)が住んでいた。
  文京区」

    
 

「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年)

 団子坂部分の抜粋です。「千駄木御林」が見えます。

  


高村光太郎旧居跡 文京区千駄木5-22-8

 旧駒込林町には、高村光太郎が住んでいました。
 高村光太郎は父の家を出た明治45(1912)年から、戦災で焼失する昭和20(1945)年4月まで暮らしました。

(説明板)
「高村光太郎旧居跡 千駄木5-22-8
 高村光太郎[明治16年(1883)〜昭和31年(1956)は彫刻家・詩人・歌人。彫刻家高村光雲の長男として台東区下谷に生まれ、10歳の時に、ここからすぐ近く(現・千駄木5-20-6)に移り、そこで育った。
 東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科を卒業して欧米に留学、ロダンに傾倒する。詩人としては、在学中「新詩社」に加わり、『明星』に寄稿し、「パンの会」にも参加した。
 明治45年(1912)に住居を父の家からこの地に移し、自分で設計した木造・外観は黒塗りの風変わりなアトリエが完成した。以後、ここで数多くの彫刻・詩などの作品が生まれた。大正3年(1914)長沼智恵子と結婚、昭和13年(1938)死別後は一人で暮らした。
 昭和20年(1945)4月の戦災で住居は焼失し、岩手県花巻に疎開した。昭和27年中野区桃園町の中西利雄のアトリエに仮寓。昭和31年(1956)4月、73歳で没。墓地は豊島区駒込の染井霊園。
  文京区教育委員会  平成7年3月」

    


戻る