○ 夏目漱石生誕の地(新宿区喜久井町)
○ 夏目坂 (新宿区喜久井町)
○ 漱石学び始めの碑(台東区蔵前)
○ 夏目漱石旧居(猫の家)(文京区向丘)
○ 夏目漱石終焉の地(新宿区早稲田南町)
・漱石公園
・漱石山房記念館
○ 夏目漱石の墓 (豊島区南池袋)
【別頁】
○ 夏目漱石と江戸六地蔵(内藤新宿)
○ 夏目漱石の碑 (千代田区猿楽町)
○ 吾輩は子猫である(千代田区猿楽町)
○ 江東義塾跡 (墨田区両国)
○ 漱石の越後屋 (中央区日本橋室町)
○ 漱石名作の舞台 (中央区日本橋)
○ 護国寺仁王門(夢十夜)(文京区大塚)
○ こんにゃく閻魔(こころ)(文京区小石川)
○ 漱石句碑と夏目家墓(文京区小日向)
○ 三四郎池 (文京区本郷)
○ 羽二重団子 (荒川区東日暮里)
○ 子規庵 (台東区根岸)
○ 神楽坂/善國寺/相馬屋源四郎商店(新宿区神楽坂)
○ 夏目漱石文学碑 (足立区新田)
夏目坂の坂下が「夏目漱石誕生の地」です。
誕生の地は、現在は「やよい軒」です。
<金之助>
夏目漱石は慶応3(1867)1月7日に生まれました。
この日は庚申の日で、この日に生まれたものは大泥棒になるという言い伝えがあり、
それを避けるために名前に金属所以の名前をつけなくてはならいという迷信があったため、
「金」の字を入れ、「金之助」と名付けられました。
(説明板)
「新宿区指定史跡
夏目漱石誕生の地 所在地 新宿区喜久井町一番地
指定年月日 昭和六十一年十月三日
夏目漱石(本名金之助)は、慶応三年(一八六七)一月五日に、夏目小兵衛直克と千秋夫妻の五男三女の末子としてこの地に生まれた。夏目家は、牛込馬場下横町周辺の十一ヶ町をまとめる名主で、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」(正式には「平井筒に菊」)にちなんで名づけられ、生家前の夏目坂も夏目家からとられたという。
漱石は生後間もなく四谷の古道具屋へ里子に出されたが、すぐに生家に戻り、再び四谷太宗寺門前の名主塩原昌之助の養子になった。九歳のとき塩原姓のまま実家に戻り、二十一歳のとき夏目家に復籍している。
この地での幼少期のことは、大正四年(一九一五)に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳しく記されている。
この記念碑は昭和四十一年(一九六六)に漱石誕生百年を記念して新宿区が建てたもので、題字は漱石の門下生安倍能成の筆。
令和三年七月三十日 新宿区教育委員会」
※英語の説明板の設置は、2019年2月となっています。
<夏目漱石誕生之地碑(碑文)>
(正面)
「夏目漱石誕生之地 遺弟子安倍能成書
夏目漱石は慶応三年(一八六七年)一月五日(陽暦二月九日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ明治の教育者・文豪として不滅の業績を残し大正五年(一九一六年)十二月九日新宿区早稲田南町七において没す生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ」
(側面)
「昭和四十一年二月九日 夏目漱石生誕百年記念 新宿区建立」
<漱石句碑>
NPO法人漱石山房が建立した漱石句碑があります。
「影参差 松三本の月夜かな 漱石」
(説明板)
「私の家は綺麗に取り壊されて、其のあとに新しい下宿屋が建てられつつあった。・・中略・・三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど奇形児の様になってゐたが、何処か見覚へのあるやうな心持を私には起こさせた。
昔し「影参差 松三本の 月夜かな」と詠ったのは、或いは此松の事ではなかったらうかと考えつつ、私はまた家に帰った。
『硝子の中』より抜粋
夏目漱石生誕百五十周年記念事業
特定非営利活動法人
漱石山房
平成二十九年九月 建立」
夏目坂は、早稲田駅前交差点から、南に登る坂道です。
夏目坂下に「夏目漱石誕生の地」があります。
(標柱)
「夏目坂
夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を付けて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ、地図にものるようになったという。
平成二十九年三月 新宿区」
夏目漱石は、明治7(1874)年12月から養父母の塩原夫妻とともに浅草区寿町十番地に住み、
第五番中学区第八番中学戸田学校(浅草区寿町七番地)に入学(戸田小学校→精華小学校→蔵前小学校)、
2年間戸田学校に通います。
養父母の離婚により実家に戻り、市ケ谷学校に転校、錦華小学校に転校し、明治11(1878)年に卒業しています。
<漱石学び始めの碑など>
蔵前小学校前に、漱石学び始めの碑などがあります。
「創立百三十五年記念碑」
一番右の石碑です。平成21(2009)年4月建立。
「精華小学校沿革史」(台東区教育委員会)
真ん中の石碑です。「夏目漱石入学、明治九年まで在学」とあります。
「漱石 学び始めの碑 創立140年記念 精華小学校」
一番左の石碑です。創立140年とあるので、平成26(2014)年の建立ですかね。
<夏目漱石旧居跡> 文京区史跡
道路に面して、石碑1基と説明板があります。そして銅像の猫が2匹います。
夏目漱石旧居跡であるとともに、森鴎外旧居跡でもあります。
(説明板)
「夏目漱石旧居跡(区指定史跡)
日本医科大学同窓会館 文京区向ヶ丘2-20-7
夏目漱石 本名・金之助。慶応3年〜大正5年(1867-1916)。小説家。この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった。(家主は東大同期の斎藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、“猫の家”と呼ばれ親しまれた。
この地で『倫敦島』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。漱石文学発祥の地である。
漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外はここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。
二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。
文京区教育委員会 平成7年3月」
(碑文)
「夏目漱石旧居跡
夏目漱石は明治卅六年一月英國から帰り 三月三日ここ千駄木町五十七番地に居を構えた。
前半二箇年は一高と東大の授業に没頭したが 卅八年一月「吾輩は猫である」「倫敦島」等を發表して忽ち天下の注目を浴び、更に「猫」の続稿と竝行、卅九年初から「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした 歳末廿七日西片町に移り、翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。千駄木町は漱石文学發祥の地である。
森鴎外も前に(自明治十三年十月至同廿五年一月)その家に住んでゐた。家は近年保存のため移築され、現在犬山市明治村にある。
昭和四十六年三月三日」
右側面「題字 川端康成書
碑文 鎌倉漱石会」
左側面「日本医科大学及同大学同窓会
鎌倉漱石乃会他有志二百余名」
<昭和3年撮影「猫の家」>
<漱石山房通り>
(説明文)
「明治の文豪夏目漱石が晩年を過ごした家、通称漱石山房がこの地にあった。」
<夏目漱石終焉の地> 新宿区史跡
(説明板)
「新宿区指定史跡
夏名漱石終焉の地
所 在 地 新宿区早稲田南町七番地
指定年月日 昭和六十一年十月三日
この地は、作家・夏目漱石が明治四十年(一九○七)九月二十九日から亡くなる大正五年(一九一六)十二月九日まで暮らした、通称「漱石山房」の跡地である。
漱石山房は木造平屋建ての和洋折衷の建物で、漱石は洋間二間を書斎・客間として使用した。漱石は『坑夫』を皮切りに、『三四郎』『それから』『門』『こころ』『道草』などの代表作をこの地で発表し、『明暗』の連載半ばに胃潰瘍により世を去った。享年四十九歳。
漱石没後の大正七年(一九一八)には、漱石の夫人境子がこの土地を購入し、母屋の増改築を行うとともに、漱石が使用していた書斎・客間・回廊を曳家し、保存した。
その後、漱石山房は昭和二十年(一九四五)五月二十五日の空襲で焼失し、跡地は昭和二十五年(一九五○)に東京都の所有となった。跡地は長らく都営アパート(昭和五十二年に区へ譲渡され、区営アパートとなる)の敷地として使用されていたが、昭和五十一年(一九七六)にはその一部に漱石公園が、平成二十九年(二○一七)九月二十四日には、区営アパートの移転に伴い、全国で初めてとなる本格的な漱石の記念館「新宿区立漱石山房記念館」が開館した。
平成三十年三月 新宿区教育委員会」
明治40(1907)年から大正5(1916)年に、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」がありました。
4〜9月 午前8時〜午後7時
10〜3月 午前8時〜午後6時
<夏目漱石の胸像>
夏目漱石の胸像があります。富永直樹作、平成3(1991)年の建立です。
漱石公園の門外にあるので、時間を問わず参観できます。
・左碑面
漱石の自筆の俳句が刻まれています。
「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」
・右碑面
「漱石 則天去私」と刻まれています。
(碑銘)
「漱石は慶応三年(一八六七)二月九日、この近くの江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町一)に生まれた。
明治四十年九月にこの地に住み、「三四郎」「それから」「門」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」などを発表、
大正五年(一九一六)十二月九日、数え年五十歳で死去した。
この終焉の「漱石山房」跡地に漱石の胸像を建立し、その偉大な文業を、永遠に称えるものである。
なお、表の漱石の自筆の俳句は
「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」
と読む。
平成三年三月 新宿区」
<漱石の散歩道>
(説明板)
「漱石の散歩道
明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生まれ早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には、早稲田・神楽坂界隈が数多く登場します。漱石は、ときには一人で、ときには弟子達とこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはいかがですか?」
<漱石山房の記憶>
(説明板)
「漱石山房の記憶
夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。そして大正5年12月9日、『明暗』執筆中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」といいます。漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、漱石を囲む文化サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。」
<旧夏目邸建物基礎>
(説明板)
「旧夏目邸建物基礎
平成二十七年(二○一五)四月、漱石山房記念館建設に伴う埋蔵文化財試掘調査の際に見つかったもので、房州石(凝灰岩)の建物基礎と水廻りと考えられるタタキ状の遺構が確認された。漱石山房は、漱石没後の大正九年(一九二○)に鏡子夫人により建て替えられ、その際に漱石の書斎・客間と回廊は敷地の南東隅に曳家し、母屋とは渡り廊下でつながれた。確認された遺構は、規模や戦災の際に堆積した焼土との関係から、建て替えられた夏目邸母屋の遺構であると考えられる。」
<猫の墓(猫塚)>
夏目家のペット(犬、猫、小鳥)の合同供養塔があります。
(説明板)
「猫の墓
夏目家で飼った動物のうち、『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」は、明治四十一年(一九○八)九月十三日に亡くなると、裏庭のサクラの木の下にみかん箱に入れて埋葬され、「この下に稲妻起こる宵あらん」という句を添えた二寸角の白木の墓標が建てられた。その後、文鳥も合葬された。犬のヘクトーの墓も近くに建てられ、「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という句を添えた。
猫の墓と呼ばれるこの石塔は、福猫の十三回忌に当たる大正九年(一九二○)夏目家で飼われた生き物たちを供養する為、漱石の長女・筆子の夫・松岡譲が造らせた九重塔で、台石には津田清楓の描いた猫・犬・鳥の三尊像が刻まれていた。しかし、昭和二十年(一九四五)五月二十五日に空襲で漱石山房が焼失した際に損壊し、現在の石塔はその残欠を利用して昭和二十八年(一九五三)十二月九日に再興されたものである。現存する漱石山房の唯一の遺構である。」
<道草庵>
夏目漱石や漱石山房に関するミニ資料館です。利用は無料です。
・パネル「夏目漱石の生涯」
・「漱石山房の推定位置図」
・パネル「猫塚」「漱石山房」
・パネル「漱石山房に集まった人々」
・パネル「牛込に住んだ文学者たち」
館外には、夏目漱石が愛した芭蕉が植えられています。
観覧料は300円ですが、導入展示の観覧と、図書室の利用は無料です。
図書室は閲覧のみですが、漱石関係書籍が集められています。
カフェやミュージアムショップもあります。
撮影禁止の掲示があったので、写真は館外だけです。
職員の多さに少々驚きました。
夏目漱石が眠る雑司ケ谷霊園は広く、芥川龍之介が墓参に来てたどりつけなったほどです。
現在は便利ですね、Googleストリートビューで見ると、霊園内のいちょう通りから、
イス型の墓石の裏が見え、夏目金之助の本名が見えます。
事前予習したので、迷わずピンポイントでたどり着くことができました。
<墓石>
夏目漱石の墓は、安楽椅子の形をした墓石です。
墓石は縦に長く、背もたれが傾斜し、左右には肘掛けがあります。
背もたれの表に夏目漱石と鏡子夫人の戒名、裏に3名の墓誌が刻まれています。
「文獻院古道漱石居士
圓明院清操淨鏡大姉」
<墓石裏>
墓石裏には3名(漱石と妻、5女)の名前が刻まれています。
、「大正五年十二月九日没 俗名 夏目金之助
昭和三十八年四月十八日没 俗名夏目キヨ
夏目金之助五女
明治四十四年十一月二十九日没俗名夏目ひな子」