源覚寺は、寛永元(1624)年に伝通院三世定誉が徳川秀忠から隠居地として拝領して創建されました。
夏目漱石「こころ」で、「私」は「蒟蒻閻魔を抜けて」下宿に帰ります。
「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂道を上って宅へ帰りました。」
「江戸東京四十四閻魔」の第九番です。
参道入口右手に「こんにゃくゑんま 源覚寺」
<御百度石>
参道左手に百度石。「嘉永五年夏(一八五ニ)建立」
<札所>
授与品にはお守りの他、えんまパンツとかもあります。
<学徒出陣の碑>
参道右手、鐘楼堂の手前に「学徒出陣の碑」。
(碑文)
「雲ガハシル 学徒ガ征ク 空ニ 同期ノ華 参千六百人」
(説明板)
「ああ紅の血は燃ゆる 学徒出陣
海軍第十四期専修飛行予備学生の碑
この石碑は当山ニ十四世:三好徳誉祐昭と有志の方々により、昭和六十三年に建立されました。〜」
<手水鉢>
「この水は飲めません。」と掲示があるので、井水でしょうか。
<汎太平洋の鐘>
(説明板)
「汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL
1690年 元禄 三年 粉河丹後守の鋳造により当山に奉納された。
1937年 昭和 十二年 サイパン島南洋寺に転出 南太平洋にひびきわたる。
1944年 昭和 十九年 サイパン島軍民玉砕して 以後消息不明となる。
1965年 昭和 四十年 米国テキサス州オデッサ市において発見される。
発見者ミツエ・ヘスター
1974年 昭和四十九年 カリフォルニア州オークランド市居住D.V.クレヤー
氏によって、サンフランシスコさくら祭りに展示され、
その後当山に寄贈される。」
<南洋群島物故者慰霊像>
(碑文)
「南洋群島物故者慰霊像建立の趣旨
かつて南洋群島は、日本の委任統治領として南洋庁施政の下に三十有七年、その治績は顕著であった。然るに第二次世界大戦に敗れ、米国太平洋信託統治領(ミクロネシア地域)となった。これ等の島々で、明治、大正、昭和の三代に渉って南方開拓に努め、志半ばに物故された人々並に今次太平洋戦争に祖国に身命を捧げられた将兵及び在留邦人の冥福を祈念して、先年南洋群島関係者に依ってサイパン島に物故者慰霊像を建立したが、遠隔の地であるので参拝の叶わぬ人々のために、南洋群島とゆかりの深い此の源覚寺境内に遥拝所として、この慰霊像を建立したものである。
昭和五十年七月十八日 財団法人 南洋群島協会」
<弁財天像>
<毘沙門天堂>
「小石川七福神」の毘沙門天が祀られています。
<塩地蔵尊>
(説明板)
「塩地蔵尊
当山開創寛永元年(一八ニ四年)以前よりこの地にあって人々の信仰を集めたと伝えられる。
お地蔵様のお身体に塩を盛ってお参りすることから塩地蔵と称し、その由来には、古来より塩は清めとして用いられることより、参詣者の身体健康を祈願するものと説かれる」
<閻魔堂>
「閻魔大法王 観世音菩薩」「明治五年七月」
(説明板)
「木造 閻魔王坐像 一躯 区指定有形文化財(彫刻)
源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして“こんにゃく”を供えつづけたという言い伝えがある。このことから、眼病治癒の『こんにゃく閻魔』として庶民の信仰を集めた。
像は、高さ100.4cm。ヒノキ材の寄木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入してある。優れたできばえを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作と思われる。銘文によると、寛文12年(1672)に仏師竹内浄正が修理している。
この像は、彫刻美術品として優れているとともに、本区所在の仏像のなかで、古い製作年代に属するものとして貴重な文化財である。
閻魔王は、冥界にあって死者の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も良く知られている。わが国の閻魔信仰は、平安時代後期にはじまり、鎌倉時代に盛んになった。
常光山 源覚寺 小石川2-23-14
文京区教育委員会 平成5年3月」
<閻魔王坐像/奪衣婆>
奉納されたこんにゃくが山となっています。
閻魔王坐像の左手に奪衣婆がいます。
<絵馬>