Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 猿楽町

  ○ 町名由来板「猿楽町」
  ○ 神田猿楽町町会詰所(旧猿楽町駐在所)
  ○ 吾輩は子猫である
  ○ 錦華の百年
  ○ 夏目漱石の碑

 中猿若町

  ○ 町名由来板「中猿楽町」


○千代田区町名由来板「猿楽町」 千代田区神田猿楽町2-3

 錦華通りに千代田区町名由来板「猿楽町」が設置されています。

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 猿楽町 
 猿楽(のちの能楽)は、室町時代以降、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥・世阿弥の流れを受け継ぐ「観世座」は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町一丁目〜二丁目から西神田一丁目〜二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という名が生まれました。
 この界隈は江戸時代、おもに武家屋敷が軒を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、猿楽町という町名が正式に誕生したのは、明治五年(一八七二)のことになります。
 その翌年、神田錦町にあった錦坊学校の分校が、現在の猿楽町一丁目内に設立されました。その後、錦華学校と名前を変更したこの学校で学んだのが、近代日本の文壇に大きな足跡を残した夏目漱石です。漱石はこの小学校で学年を飛び越えて進級するほどの秀才ぶりを発揮したといわれています。
 ところで、猿楽町と駿河台の間に、男坂・女坂と呼ばれる二つの坂があります。いずれも大正十三年(一九二四)の区画整理でつくられた坂で、男坂は七十三段、女坂は八十二段を数えます。どちらの坂も一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休みできるのに対して、男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りを強いられます。そのため、七十三段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は「女」と呼び習わされるようになりました。  猿楽町会」

   


○神田猿楽町町会詰所(旧猿楽町駐在所) 千代田区神田猿楽町2-3-5

 千代田区HPによると、昭和初期(ほかに大正5(1916)年の記載も見られる)に猿楽町駐在所として建てられ、
 その後神田猿楽町町会の詰所として利用されています。
 保存状態が良いため、映画やドラマで交番ロケ地として何度も使用されてきました。

    

   

(プレート文)
 「景観まちづくり重要物件
   この建造物は、景観上重要と認められるので、重要物件として指定いたしました。
  平成十五年度 千代田区」

  


吾輩は子猫である 千代田区神田猿楽町1-1

 令和6(2024)年2月27日に、お茶の水小学校の竣工に合わせて、お茶の水小学校前の歩道に、
 カラーマンホール「吾輩は子猫である」が設置されました。
 錦華小学校(現:お茶の水小学校)の卒業生である夏目漱石にちなみ、
 『吾輩は猫である』の猫を子猫にして漱石の幼少期をイメージしています。

     

錦華の百年 昭和四十七年五月」

 歩道に面して「錦華の百年」碑があります。

    


夏目漱石の碑 千代田区猿楽町1-1-1

 お茶の水小学校の改築工事中に撤去されていましたが、小学校竣工に際して再設置されました。
 昭和53(1978)年2月18日の建立です。

   

(碑文)
 「吾輩は猫である 名前はまだ無い
  明治十一年 夏目漱石 錦華に学ぶ」
(碑陰)
 「昭和五十三年二月十八日
  錦華保護者会創設六十周年記念会建立」

    

(副碑)
「先輩 夏目漱石 略歴
 慶應三年一月六日、牛込に生る。金之助と命名。市ヶ谷小學校に入學後、錦華小學校に轉ず。同校卒業後一っ橋中學高に入り、業を卒へずして退き、二松學舎に入りて漢學を學ぶ。(大正六年「新小説」より)
明治二十三年、東京帝大に入学。
正岡子規と交り俳句と漢詩を作る。
同二十八年、松山の中学に赴任。
同二十九年、熊本第五高等学校教授となる。
同三十三年、ロンドンに留学。
同三十六年、帰朝。東京帝大講師となり、英文学を講義。
同三十八年、処女作『我輩は猫である』を発表。
同四十年、講師を辞し、朝日新聞社に入社。
大正五年十二月九日逝去。五十才。
「主な作品」・坊ちゃん ・草枕 ・虞美人草 ・三四郎 ・それから ・門 ・心 ・道草 ・明暗
卒業記念 第一○四回卒業生一同」

  


○千代田区町名由来板「中猿楽町」 千代田区神田神保町2-2

(説明板)
「千代田区町名由来板 中猿楽町
 ここはかつて中猿楽町と呼ばれていました。
 室町時代以降、猿楽(のちの能楽)は、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥・世阿弥の流れを受け継ぐ「観世座」は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町一丁目?二丁目から西神田一丁目?二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という名が生まれました。
 この界隈は江戸時代、おもに武家屋敷が軒を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、「中猿楽町」という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872)のことになります。
 ところで町内には、大正三年(1914)、中国の留学生が日本国内で進学する際、欠かすことのできない日本語や英語、数学などを専門に教える東亜高等予備学校が設置されました。中華人民共和国成立後、国務院総理(首相)を務めた周恩来も、大正六年(1917)から約二年間、この学校で学んでいます。
 中猿楽町はその後、昭和九年(1934)、神保町二丁目と西神田一丁目の一部に組み込まれました。この地域の町会は、その名に「中猿」の二文字を残し、神田中猿町会と名乗っていましたが、昭和二十九年(1954)四月、神保町と西神田の町名から「神西町会」と改めて、現在に至っています。  神西町会」

     


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