【野新田と桜草】
○ 野新田の渡しと桜草の名所
○ 新田橋
○ 新田さくら公園
○ 文豪と野新田
○ 夏目漱石文学碑と里帰り桜
○ 新田稲荷神社
○ 新田小学校発祥の地(妙喜庵)
○ 路傍の妙法水神
○ 路傍の庚申塔/地蔵尊
隅田川の豊島(北区)と新田(足立区)の間に、現在の新田橋が架けられるまで「野新田の渡し」(別名:馬場の渡し)がありました。
野新田(現在の足立区新田)は、桜草の名所でした。新田橋の北区側には清光寺(せいこうじ)があります(こちらで記載)。
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
「鹿濱新田渡シ 王子へ一リ」とあります。
野新田の渡しは、鹿浜新田の渡しとも呼ばれたようです。
「鹿濱」は「東叡山御領」とあります。鹿浜は寛永寺領でした。
上流の渡しは「蟹庭渡シ」とあります。蟹庭(かにわ)は現在の神谷で、「かにわ」と呼びました。
「東都花暦名所案内」
江戸時代の「東都花暦名所案内」に「野新田」が記されています。
表には「春の部」「桜草」に「千住の野」「野新田」「戸田原」とあります。
野新田(現在の足立区新田)は、桜草の名所であったことがわかります。
「三十六花撰 東京戸田原さくら草」
桜草の名所の一つ「戸田原」が描かれています。
<桜草と白魚「紅白のお土産」>
野新田の原は、桜草と白魚の名所だったことが、江戸名所花暦に記されています。
「江戸名所花暦 桜草
尾久の原
王子村と千住とのあひだ今は尾久の原になし 尾久より一里ほど王子のかたへ行きて野新田の渡といへるところに俗よんで野新田の原といふにあり 花の頃はこの原一面の朱に染如にして朝日の水に映ずるがごとし また此川に登り来る白魚をとるに船にて網を引あるひは岸通りにてすくひ網をもつて人々きそひてこれをすなどる 桜草の赤きに白魚を添へて紅白の土産なりと遊客いと興じて携かへるなり」
昭和16(1941)年に木橋が架けられ、江戸時代から続いた野新田の渡しは廃止されました。
昭和25(1950)年12月に路線バスが開業(王子駅〜野新田)、現在の「新田橋」停留所は「豊島城址」となっていました。
昭和36(1961)年に木橋から現在の橋が架けられました。
新田橋は老朽化のため架け替えられることになり、現在は歩道の仮橋架設工事が行われています。
新田橋の橋脚は木橋をイメージしておりユニークです。欄干には桜草のレリーフが施されています。
なお、上流、下流ともテラスはありません。
仮橋と新田橋 欄干
隅田川下流(新豊橋方向) 隅田川上流(新神谷橋方向)
「昭和10年頃の野新田の渡し」(新田さくら公園の掲示より抜粋)
平成22(2010)年10月2日に開園した「新田さくら公園」の名前は「桜草」に由来します。
公園名の標石のプレートには、桜草の花弁が掲げられています。
公園内に説明板「新田の歴史【野新田】」が設置されています。
桜草の花見は、桜草を土産として持って帰るため、乱獲によりまず江戸時代に尾久の原の桜草が絶滅し、
野新田の桜草も様々な理由から昭和初期に絶滅しました。
(参考)
「野新田桜草の会」HP
野新田の桜草は絶滅しても、歴史を紡ぐ「野新田桜草の会」が活動しています。
<新田の歴史【野新田】>
(説明板)
「新田の歴史【野新田】
現在の新田地域は、かつて『野新田(やしんでん)』とも呼ばれていました。江戸時代には、鹿浜新田および鹿浜村・堀之内村・沼田村の一部で、明治二二(一八八九)年に市制・町村制が施行されると江北村に編入され、旧村は大字となりました(例:江北村大字鹿浜新田)。昭和七(一九三二)年一○月の足立区発足時には、鹿浜新田は新田上町・新田下町、鹿浜は南鹿浜町、堀之内は南堀之内町、沼田は沼田川端町となりました。その後、昭和三五(一九六○)年四月になり、現在の新田一〜三丁目という地名が生まれました。
(自然)
野新田は、江戸時代から「日本桜草」の自生地として有名でした。桜草の生育は萱の繁茂と深い関係にあります。この地域は隅田川(旧荒川)の沿岸にあったために萱が茂り、桜草の自生に条件が良かったといいます。江戸の人びとに野新田の桜草が知られるようになったのは、飛鳥山の桜や荒川堤の五色桜など、近くにあった名所と一体となり行楽地帯を形成していたためといわれています。
(産業)
明治初期に始まった「養蚕業」は、村中に普及し、東北地方から労働者を雇い入れるほど発展しました。養蚕の利益の一部を積み立てて、明治二五(一八九二)年に新田小学校が建設される際の資金に当てられたとのことです。
また、大正後期には「養豚業」を始める人たちが移住してきて、昭和一二、三(一九三七、八)年の最盛期には豚も三〇〇〇頭を数えました。
「養蚕業」・・・蚕を飼って、その繭から生糸(絹)を作る産業。
(交通)
野新田には隅田川(旧荒川)を往来す渡しが七か所あり、人びとの生活の足として渡し舟が利用されていました。その内のひとつ、新田橋付近にあった「野新田の渡し」は、江戸時代から続いた古い渡しでしたが、昭和一六(一九四一)年に新田橋が架橋されると、その役割を終えて姿を消しました。」
<ティラノサウルス>
遊具広場に、恐竜(ティラノサウルス)のジャングルジムがありました。足立区のサイトには「恐竜ラダー」とありました。
<夏目漱石>
夏目漱石は明治40年4月げ下旬に新田を訪れ、「虞美人草」の中で萱野の桜草を取り上げています。
明治時代も、桜草の花見とは、桜草を見るだけではなく取ってきていたことが伺えます。
「虞美人草」(夏目漱石 青空文庫より抜粋)
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島は駄目だが荒川は今が盛だよ。荒川から萱野へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
<田山花袋>
田山花袋も野新田を訪れています。
「東京の近郊 : 一日二日の旅」(田山花袋 大正9年)
「野新田邊りの櫻草は昔から名高かつた。」と記しています。
○夏目漱石文学碑と里帰り桜 足立区新田2-10-16 東京都立新田高等学校
東京都立新田高等学校の柵(新田高校前交差点前)に説明板「夏目漱石文学碑と里帰り桜」が掲げられています。
夏目漱石文学碑は校内に建てられているので見ることはできませんが説明板は柵の外なので見ることができます。
東京都立新田高等学校は、東京セロファン紙株式会社(現・三井化学東セロ株式会社)工場跡地に開校しました。
(説明板)
「明治四○年三月、漱石は教職を辞して朝日新聞社に入社した。同年四月下旬、最初の新聞連載小説『虞美人草』の執筆に先立ち「荒川堤の桜」や「桜草」など本校附近の風物を見物している。
かつて「野新田」と呼ばれた本校付近一帯は日本桜草の群生地であった。本校ではそのような経緯から桜草を校歌に歌い校章のデザインに用いている。
荒川堤の五色桜は米国に贈られ、ワシントンのポトマック河畔の桜として知られている。五色桜の衰退により米国から里帰りした苗木が区内各所に配られ、昭和五四年の本校開設時に校門付近に植えられて成長し現在に至った。
「夏目漱石文学碑」の建碑は平成十二年五月、本校の正門を入って左手に位置している。
碑文は女流書家、坂本秀翠さんの揮毫による。
東京都立新田高等学校」
元禄10(1697)年の創建です。江北氷川神社の兼務社です。
カヤの産地であった茅野新田の巳待講が建てた巳待供養塔があります。
<参道/掲揚台>
「掲揚台」は裏に「御大典紀念」と刻まれています。
<社号標>
社号標「新田稲荷神社」。
<鳥居>
享和2(1802)年銘の鳥居です。
「國土安全」「天下泰平」と刻まれています。
<手水鉢>
参道に新しい手水鉢があり、奥に古い手水鉢があります。
<社殿>
<供養塔>
社殿の左脇に覆屋があり、二基の供養塔が祀られています。
「庚申塔」
左の宝暦6(1756)年銘の庚申塔です。
邪鬼が仰向けになって腹を踏みつけられています、初めて見たかも。
右側面「武洲足立郡渕江領鹿浜新田」
「巳待供養塔」
右の貞享3(1686)年銘の巳待供養塔です。
巳待の主尊は弁財天で、洪水に悩まされていた地域には巳待講があります。
「武洲下足立郡渕江領茅野新田」とあります。
現在の新田二丁目辺りは、茅野耕地と呼ばれる湿地帯で、江戸時代はカヤの産地でした。
「新田小学校発祥の地」碑は、「新田小学校」開校30周年を記念して昭和53(1978)年に建てられました。
(碑表)
「妙喜庵
新田小学校発祥の地
足立区立新田小学校創立三十周年記念」
(碑影)
「明治十六年二月一日鹿添小学校の分校としてこの地に開設す
昭和五十三年十一月十一日
新田小学校創立三十周年祈念時魚推進委員会建立
ヤマト石材工業?謹製」
<妙喜庵>
新神谷橋下にある駐車場の一角に「妙法水神」が建っています。
昭和15(1940)年の建立です。
寛延3(1750)銘の庚申塔が祀られています。
右側面「武州足立郡渕江領鹿濱新田」
○路傍の地蔵尊 足立区新田3-22-10
台座右側面に享保12(1727)年の銘があります。
○路傍の地蔵尊 足立区新田3-31-10