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 清光寺


○清光寺 北区豊島7-31-7

 隅田川に架かる新田橋の北区側に清光寺(せいこうじ)があります。
 現在の新田橋が架けられるまで「野新田の渡し」(別名:馬場の渡し)がありました(こちらで記載)。
 清光寺は、源頼朝の鎌倉入りに従った豊島清光(清元)が建立した寺です。
 また、豊島氏の居館跡といわれています(平塚に平塚城跡があります)。
 豊島氏が太田道灌との戦いに敗れてから清光寺は衰退しますが、その後再興されています。
 なお、豊島という地名が残っています。

「江戸名所図会 紀州明神社 清光寺 若宮八幡宮 豊島川 地藏堂」

 紀州明神社、清光寺、若宮八幡宮、地蔵堂、観音堂が描かれてます。
 いずれも豊島氏縁の伝説を有しています。
 奥には「豊島川」が流れています。

 挿絵の左上に「清光寺」が描かれています。
 2枚目は清光寺部分の抜粋です。「清光宅地」と記されています。

   

<清光寺参道>

  

<清光寺>

(説明板)
「清光寺  北区豊島七−三−ー七
 清光寺は医王山と号し新義真言宗に属する寺院です。
 江戸時代の地誌「新篇式武蔵風土記稿」は、この寺は豊島清光(清元)の開基で寺号もその名によること、北条家所領役帳(永禄二年<一五五九>)に島津孫四郎知行十四貫文が豊島の内清光寺分とあって、当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王を行基の作で豊島の七仏の一つであること、境内に正安三年(一三○一)、文治二年(一一八六)、(文明元年(一四八九))、永福五年(不明<私年号>)の四基の古碑があることを伝えています。
 また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和四年<一六一八)によれば、山号は常康山、保元二年<一一五七>豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽藍が建立されたこと、實正年中(一四六○〜一四六五)、応仁年中(一四六七〜一四六八)山賊悪徒等により寺宝・寺領などを掠奪されて寺が荒廃したこと、文明九年(一四七七)豊島泰経と大田道灌との戦いに際し、この寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正十五年(一五四六)府川城主・豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄六年(一五六三)上杉等の残党が府川城を攻めた際、豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。
 この寺には豊島清光の木像が安置されています。この銘によれば、寛保二年(一七四二)の作で願主は祐具、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐具は当時清光寺内にあった釈迦堂の住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったということです。豊島清光は、その子葛西清重らとともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で「吾妻鏡」などにもその名が見えます。
 なお、この地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本記」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説もあります。
  平成三十年三月  北区教育委員会」

  

<延命地蔵尊>

   

<豊島清光公供養塔>

 「当山開基 豊島清光公供養塔」とあります。

    

<本堂>

   

<木造豊島清光坐像>

(説明板)
「北区指定有形文化財(歴史資料)
 木造豊島清光坐像  北区豊島七−三十一−七 清光寺
 清光寺は、平安時代末期から鎌倉時代初期、豊島郡を中心に活躍した豪族豊島康家・清光が開基した寺院と伝えられ、江戸時代に製作された豊島清光の坐像が安置されています。
 檜材を使った寄木造りで、目には水晶の玉眼が嵌められ、全体に彩色が施されています。像の姿は、剃髪して衣と袈裟を着けた合掌姿の坐像です。襟の高さが頭頂にまでおよぶ立襟をつけていますが、これは僧綱襟といい、僧侶としての高い地位を示しています。像の胎内には「奉造立御影 寛保二戌龍集十月十六日 願主釈迦堂祐貞 施主新田長谷川彌右衛門」との墨書があり、寛保二年(一七四二)十月十六日 清光寺釈迦堂の祐貞という僧侶が願主となり、檀家で鹿浜新田(足立区新田三丁目)の長谷川弥右衛門が施主となって造立したことがわかります。
 豊島清光は、源頼朝が鎌倉幕府を樹立する際、子の葛西清重と共に源頼朝の軍に積極的に参陣し、鎌倉幕府の御家人として重用されるに至りました。没年を含めて詳らでない点が多いのですが、「六阿弥陀縁起」や「豊島七仏」といった豊島清光に関わる伝説が現在も伝わっています。
 木像豊島清光座像は、江戸時代に製作されたものではありますが、豊島清光という人物を偲ばせる現在唯一の肖像であり、清光をめぐる伝承や縁起を考えるうえからも貴重な文化財といえます。
  平成二十四年三月  東京都北区教育委員会」

   


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