○ 通一丁目
○ 名水白木屋の井戸
○ 漱石名作の舞台
○ 須原屋茂兵衛
○ 田山花袋と日本橋
通一丁目は、日本橋の南に位置し、東海道に沿って両側に広がる町です。
表通り(現在の中央通り)には、白木屋、近江屋、須原屋など有名大店が並び、江戸のメインストリートとして繁盛しました。
「名所江戸百景 日本橋通一丁目略図」(広重)
現在の「COREDO日本橋」のある日本橋通1丁目を南から日本橋方向を見た光景です。
、「志ろしきや」「白木屋」の暖簾が見えます。
暖簾には、曲尺を二つ組み合せた下に、何でも一番になるようにと一を加えたロゴが見えます
(材木屋の時代に暖簾に使っていたもので、その後も使用)。
白木屋の隣には、白木屋の名水で打った蕎麦を供する東橋庵(看板は東喬庵)が見えます。
広重は蕎麦好きで、蕎麦を土産としてもらっていたりします。東橋庵にも行っていたことでしょう。
寺田虎彦が江戸百景と東橋庵について言及しています。
「白木屋のへんから日本橋を渡って行く間によく広重の「江戸百景」を思い出す。
あの絵で見ると白木屋の隣に東橋庵という蕎麦屋がある。
今は白木屋の階上で蕎麦が食われる。」(「丸善と三越」寺田寅彦)
東喬庵の先は狭い路地で食べ物屋が軒を連ねていました。この路地から二人の男が出てきています。
日本橋角の西川甚五郎商店(現在の西川)まで蚊帳畳表問屋が並んでいました。
「江戸名所道化尽 十七 壱丁目祇園会」(歌川広景)
広重と同じ構図の光景で、こちらは「天王祭」の行列が大通りを進みます。
男たちは赤く「天」と記された扇子を各々手にしています。
「志ろきや」「白木屋」の暖簾は広重と全く同じです。
よ〜く見ると、正しい白木屋のロゴの他に、広重は描いていないもう一つが描かれていて、
一ではなく二です!一番でなくて二番でもいいでしょの皮肉でしょうか。
白木屋の隣の東橋庵は、暖簾も看板も東橋庵です。
左の一番角の「や」の屋号は、蚊帳畳表問屋の西川甚五郎商店ですね。
「通一丁目東側」(狂歌東都花日千両 広重 嘉永6(1853)年)
広重、広景とも、通一丁目東側を描いています。
こちらも東側の絵です。なお、西側については、後述します。
白木屋の跡は、変遷を経て現在は「COREDO日本橋」が建っています。
画像に見える一方通行の小路が、かつて飲食店が連なっていた「木原店(きわらだな)」です。
<名水白木屋の井戸> 中央区日本橋1-4-1 COREDO日本橋
「都旧跡 名水白木屋の井戸」
「大正七年四月指定 白木屋店内に在り」
(説明板)
「東京都指定旧跡
名水白木屋の井戸
江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。
正徳元年(西暦一七一一年)、白木屋二代目当主の大村彦太郎安全は私財を投じて井戸掘りに着手しました。翌二年、たまたま井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと伝えられています。以来、付近の住民のみならす諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。
白木名水は湧出してから数百年の時を経て消失しましたが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡です。この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史の後に、日本橋一丁目交差点角にあったものを平成十六年(西暦二〇〇四年)ここに移設再現したものです。」
「白木屋の井戸」(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 東京市公園課 大正11年)
失われた白木屋の井戸。
「白木屋呉服店」(東京百建築 建築画報社 大正4年)
関東大震災で失われた建物。
「白木屋呉服店陳列場」(東京風景 小川一真出版部 明治44年)
座売ではなく陳列販売を採用。
「広告」(大正8〜9年)
白木屋呉服店の広告です。白木屋は通信販売も行っていたのですね。
「広告」(大正8年)
西川の広告です。「西川の蚊帳と蒲団」「東京 日本橋角」の文字だけのシンプルな広告です。
この路地は、かつて木原店(きわらだな)と呼ばれ、飲食店が軒を連ね、夏目漱石や正岡子規も通いました。
「江戸切絵図」
「木原店」が見えます。
「漱石名作の舞台」碑があります。
(碑文)
「漱石名作の舞台
孝康 書」
(碑文)
「江戸っ子漱石は、ロンドンを舞台にした作品にも、日本橋を言挙したほどだ。
青春小説「三四郎」、倫理探求の名作「こころ」には、ここの路地の寄席や料理屋が描かれている。
平成十七年六月吉日
早稲田大学第十四代総長
奥島孝康 識」
江戸最大の本屋が「須原屋茂兵衛(すはらやもへい)」で、通一丁目の西側に店がありました。
『武鑑』『江戸切絵図』『江戸名所図会』『東都歳事記』等を出版しました。
暖簾分け店も多く合梓での展開もありました。暖簾分け店の一つである須原屋市兵衛は解体新書を版行しています。
須原屋茂兵衛は、明治37(1904)年に廃業し200年以上の歴史に幕を閉じました。
「通一丁目西側」(狂歌東都花日千両 広重 嘉永6(1853)年)
左手の店が須原屋茂兵衛で、「須原屋」(文字は左半分欠けていますが)、「薬種」「本屋」の看板が見えます。
須原屋は、薬種商にも手を広げていました。左が薬種屋で右は本屋です。
「江戸買物独案内」(文政7(1824)年)
江戸のガイドブックの本の項目のトップに「須原屋茂兵衛」は掲載されています。
「東都歳事記」
天保9(1838)年の須原屋茂兵衛と浅草茅町の須原屋伊八との合梓です。
(編・齋藤月岑、画・長谷川雪旦)です。
巻末に「江戸名所圖會」等の広告があります。
「歳暮交加図」(東都歳事記)
店の左手に「書肆」と書かれた箱看板が見えます。
また店の右脇に「江戸名所圖會 二十冊出来」の看板が見えます。
「東都歳事記」は、須原屋茂兵衛(通一丁目)と須原屋伊八(浅草茅町)の合梓ですが、
描かれている店は、賑わいのある広い通りに面しているので、須原屋茂兵衛を描いているのでしょう。
田山花袋は、明治32(1899)年から、明治を代表する出版社となった博文館に勤めていました。
明治14(1881)年に9歳で南伝馬町にあった本屋の有隣堂で春から秋にかけて丁稚奉公をしており、
その頃を回想して「日本橋附近」(大東京繁昌記に収録)と「東京の三十年」(博文館)で、須原屋と山城屋に言及しています。
その頃はすでに衰退していた様子がうかがえます。
「日本橋附近」(青空文庫より一部抜粋)
「日本橋から少しこっちに来た右側に――今の黒江屋か塩瀬あたりのところに、須原屋と山城屋との二軒の大きな本屋が二、三軒間を置いて並んでいて、例の江戸時代の本の絵に出ているあの大きな四角な招牌がいかにも権威ある老舗らしくそこに出されてあったものだった。それにしても何という淋しい陰気な本屋だったろう。ただ角帯をしめた番頭が二、三人そこここに、退屈そうに座っているだけで、ついぞ客など入って本を買っているのを見たことはなかった。それから比べると、あの三越の前身の越後屋の角店は大したものだった。」
「東京の三十年」(博文館 大正6年 国立国会図書館蔵)
「私の奉公したのは、今も京橋の大通にあるIという本屋であった。其頃はまだ須原屋茂兵衛、山城屋佐兵衛などという古い大きな本屋があって、四角な行燈のやうな招牌が出ていたり、書目を書いた厚い板が並んでかけられてあったりした。私が主人から命ぜられた書附乃至紙面を一々見せてきいて歩いた本屋で、今日猶残っているのは――昔に比べて更に繁栄の趣を呈してゐるのは、丸善一軒ばかりである。」
(参考)
公的出版物を多く手がけた須原屋茂兵衛に対し、蔦屋重三郎は郭物を多く手がけた対比で「吉原は重三
茂兵衛は丸の内」と川柳に詠まれました。
蔦屋重三郎「耕書堂」について、こちらで記載。
(参考)
現在の「須原屋」は、須原屋茂兵衛の直接の系譜ではありませんが、明治9(1876)年に須原屋伊八(浅草茅町)の貸店舗として浦和宿にて創業しています。