○ 大伝馬本町通り
○ 旧日光街道本通り
○ 馬込勘解由屋敷跡
○ 江戸屋
○ 蔦屋重三郎「耕書堂」跡
日本橋本町
○ 馬込勘解由の碑
○ 道標「寶田恵比寿神」
○ 宝田恵比寿神社
○ 於竹大日如来井戸跡 ※別ページ
○ 紙商小津碑/小津史料館 ※別ページ
江戸時代の大伝馬町本の町通り(現:大伝馬本町通り)は、木綿問屋街と出版の町でした。
「江戸名所図会」に掲載されている他、広重が「東都大伝馬街繁栄の図」として描いています。
「江戸名所図会 大伝馬町 木綿店」
「江戸名所図会 大伝馬町御旅所」
御旅所とは、御神輿がお立寄りして休む所です。
挿絵には、「五元集 天王の御旅所を拝す 里の子の 夜宮にいさむ 鼓かな 其角」とあります。
「東都歳事記 六月五日大伝馬町天王御旅出の図」
挿絵左下には「里の子の夜宮にいさむ鼓かな 其角」とあります。
「東都大伝馬街繁栄之図」(広重)
「名所江戸百景 大てんま町木綿店/大伝馬町こふく店」(広重)
呉服店の錦絵には、大丸屋が描かれています。
「江戸名所 大伝馬町大丸呉服店の図」(広重 ボストン美術館蔵)
「下村呉服店之図」(豊広 寛政末-享和頃)
下村呉服店(大丸屋)が描かれています。
「清親畫帖 大伝馬町大丸」(小林清親)
明治時代の大丸が描かれています。
電柱が描かれている他は、江戸時代と同様な大丸です。
「日本之名勝」(史伝編纂所 明治33年)
明治時代の大丸屋呉服店の写真です。
「日本鉄道線路案内記」(博文館 明治35年)
明治時代の下村呉服店の広告です。
大伝馬本町通り(旧日光街道)の歩道にある石標です。
(石標碑文)
(北面)
「旧日光街道本通り
(西面)
「徳川家康公江戸開府に際し御傳馬役支配であった馬込勘解由が名主として
この地に住し以後大傳馬町と称された」
(東面)
「江戸名所図絵や広重の錦絵に画かれて著名なこの地は将軍御成道として繁華な本街道であり
木綿問屋が軒を連ねて殷賑を極めた」
(南面)
「昭和五十八年 大伝馬町会」
<大伝馬本町通り>
現在の旧日光街道は、一方通行の月並みの道路です。
旧日光街道の1本北に平行するえびす通りのコインパーキング前に、
説明板「馬込勘解由屋敷跡」があります。
(説明板)
「馬込勘解由屋敷跡 所在地 中央区日本橋大伝馬町三番地域
この地域には、大伝馬町の草分名主で、公用旅行者のための人馬の継立てなどを行う道中伝馬役を務めた馬込氏の屋敷がありました。
馬込氏は、天正十八年(一五九○)に徳川家康の江戸入府に際して、高野新右衛門・小宮善右衛門らとともに駄馬人足を率いて出迎えたことにより、道中伝馬役を命ぜられて、後の呉服橋御門(千代田区丸の内一丁目)内の辺りに位置した宝田村に土地を与えられました。馬込氏の当主の多くは、代々「勘解由」の通称名を名乗っていました。
慶長十一年(一六○六)江戸城拡張にともない、宝田村の住人たちが現在地付近に移転をして、大伝馬町が起立しました。大伝馬町は、京橋にある南伝馬町と交代で道中の人馬の継立てを行い、江戸府内の継立てを務める小伝馬町と合わせて「三伝馬町」と呼ばれました。
大伝馬町の伝馬役を務めた馬込氏は、大伝馬町二丁目北側新道の西角に屋敷を構え、同町の名主役を兼帯して苗字帯刀を許されていました。
馬込氏の邸内奥には、宝田村の鎮守が勧請され、その御神体である恵比寿神像は徳川家康から拝領したと伝えられています。正月二十日と十月二十日には大伝馬町の大店で恵比寿講が盛大に行われその前日に開かれた市が、現在十月に開かれている「べったら市」につながっています。なお、馬込氏邸内の恵比寿神像は、江戸時代後期頃から現在の寶田恵比壽神社(日本橋本町三丁目十番十一号)にまつられています。
平成二十二年九月 中央区教育委員会」
<祇園会御旅所>
道路反対側のマンション(日本橋大伝馬町2-4)は、
祇園会御旅所(御神輿がお立寄りして休む所)があった場所のようです。
旧日光街道沿に江戸屋があります。店内は展示館を兼ねています。
店舗は国登録有形文化財に指定されています。
旧日光街道沿に、中央区説明板「蔦屋重三郎「耕書堂」跡」があります。
(説明板)
「蔦屋重三郎「耕書堂」跡
所在地 中央区日本橋大伝馬町十三番地域
この地域には、江戸時代中期の出版業者である蔦屋重三郎(一七五○〜一七九七)の書肆(出版業者兼本屋)「耕書堂」がありました。
寛延三年(一七五○)に新吉原(現在の台東区千束)に生まれた重三郎は、後に喜多川氏蔦屋の養子になり、新吉原大門口五十間道に書肆を開業しました。安永三年(一七七四)には吉原の案内書である「吉原細見」の版元になり、さらに黄表紙などの刊行を行いました。
天明三年(一七八三)九月には、通油町(現在地付近)に進出し、黄表紙・洒落本・狂歌本・錦絵などを刊行して、有力な地本(江戸で出版された双紙類)問屋になりました。葛飾北斎の「画本東都遊」には、「絵草子店」としてその店先の光景が描かれています。
重三郎は江戸の人々の嗜好を汲むことに長けており、戯作者としては朋誠堂喜三二・大田南畝・恋川春町・山東京伝などの作品を次々に刊行しました。さらに、喜多川歌麿を見出しその庇護者となって大成させるなど、江戸一流の版元として数多くの実績を残しました。
寛政三年(一七九二)には、寛政の改革の出版統制による弾圧を受け、身上半減の闕所処分(財産の半分没収)とされてしまいます。しかしそれ以降も書肆としての活動を続け、寛政六年から翌年にかけて東洲斎写楽の役者絵などを刊行しました。
平成二十二年三月 中央区教育委員会」
「画本東都遊 絵草子店」(浅草庵作[他] 享和2[1802]年)
「画本東都遊」は、葛飾北斎画の江戸名所絵本です。
国立国会図書館が所蔵していたので、デジタルコレクションからの抜粋です。
2〜3枚目は部分拡大です。広告となっていますね。
小津ビル前の昭和通りの歩道に「馬込勘解由の碑(べったら市の由来)」があります。
(碑銘)
「馬込勘解由の碑(べったら市の由来)
徳川家康による江戸城築城のおり、寶田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寶田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。
この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は、二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寶田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。
御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。
恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら。べったら、べったら、買わないで通ると着物にくっ付くよ。」と戯れたことからべったら市の名がついた。
徳川家康公江戸出府四○一年を壽き、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。」
(碑陰)
「平成三年十月十九日建之
べったら市保存会
諌鼓会」
<諌鼓会>
碑裏に記載のある「諌鼓会」について調べてみました。
山王祭と神田祭の山車行列は1番目が大伝馬町、2番目が南伝馬町と決まっていました。
1番目の大伝馬町の山車は「諫鼓鶏」の山車でした。
諌鼓会は、「諫鼓鶏」の山車から命名されており、べったら市も同会により継承されています。
「神田大明神御祭図」(歌川貞重)
一番山車は、太鼓の上に諫鼓鶏がのっています。
「千代田之大奥 神田祭礼上覧」(楊洲周延 明治28年)
千代田之大奥は、江戸時代には描けなかった大奥を描いた楊洲周延の作品です。
こちらの「神田祭礼上覧」では、先頭を行く山車の「大伝馬町」の幟と、太鼓の上に諫鼓鶏が見えます。
昭和58(1983)年10月の建立の寶田恵比寿神への道標です。
「→50M寶田恵比寿神 べったら市保存会」
「昭和五十八年十月吉日建之
べったら市保存会
諌鼓」
一つの社に「宝田恵比寿神社」と「宝田稲荷神社」が祀られています。
<宝田神社恵比寿神 御縁起と大伝馬町の由来>
徳川家康江戸入府以前は宝田村の鎮守社だったといい、江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居を命ぜら、馬込勘解由(家康公が入府の時、三河の国から随行して、此の大業を成し遂げ、その後、大伝馬町の名主となりました。)が住民を引率してこの地大伝馬町へ集団移動し、宝田神社も遷座しました。
御神体の恵比寿神は運慶作と伝えられ、馬込勘解由に徳川家康から下賜されたものと伝えられます。(説明板を簡単にまとめました)
べったら市が有名ですが、令和3年度は中止となりました。