Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 東京大学 上屋敷遺構

 【加賀藩】
  ○ 旧加賀屋敷御守殿門(赤門) 別頁
  ○ 三四郎池(育徳園)
  ○ 山上会館石垣
  ○ 加賀藩上屋敷長屋の井戸跡
  ○ 加賀藩上屋敷長屋の下水排水口
  ○ 蛇塚(お化け灯籠)

 【大聖寺藩】
  ○ 大聖寺藩上屋敷跡
  ○ 大聖寺藩邸と富山藩邸の石積地境溝

 【富山藩】
  ○ 富山藩上屋敷の庭石(ベルツの庭石)
  ○ 富山藩上屋敷御殿
  ○ 富山藩上屋敷から移設の石碑(御傘亭)


【上屋敷遺構】

 東京大学は、加賀藩とその支藩である富山藩・大聖寺藩の上屋敷跡や水戸藩中屋敷跡等に設けられました。
 大半を加賀藩上屋敷が占め、赤門や三四郎池はその遺構です。

「江戸切絵図」

 加賀藩、大聖寺藩、富山藩の上屋敷の記載部分の抜粋です。

  

<加賀藩上屋敷と養育院>

 明治5(1872)年10月、ロシア帝国アレクセイ大公の来日に際し、
 東京府庁は長谷部善七(非人頭車善七は、解放令が発せられ「長谷部善七」と名乗っていました)に窮民を駆集させ、
 10月15日、旧加賀藩上屋敷の長屋に仮収容し、取り扱いは長谷部善七にまかされ、「営繕会議所付属養育院」と命名されました。
 これをもって養育院の創設とされています。
 (養育院の歴史の続きは、こちらで記載
 長屋は、現在の懐徳門辺りから龍岡門辺りにかけて外周に沿って建てられており、外側に窓がない「盲長屋」だったとのこと。
 懐徳門付近の石積は長屋と関係しているのでしょうか。龍岡門近くには長屋の井戸跡、石垣と排水口跡が残っています。

  

三四郎池

 正式名称は「育徳園心字池」ですが、夏目漱石「三四郎」以来、三四郎池と呼ばれています。
 江戸時代は、氷を将軍へ献上するための氷室がありましたが、大学には不要のため廃止されています。
 2代秀忠(引退後)、3代家光、5代綱吉、11代家斉、12代家慶と、5人の将軍が訪れています。
 明治元(1868)年には明治天皇が行幸の途中で休憩に訪れています。

    

    

<水の供給経路>

 水の供給経路が、「育徳園の履歴とあり方」に記載されています。
 それによると、育徳園心字池への水の供給経路は、三つあります。

 @雨水の浸透
  雨水が育徳園および周囲の土壌に浸透し供給されています。
 A雨水排水路
  雨水排水路が育徳園に接続されており、排水路を通して雨水が供給されています。
 B井水の汲み上げ
  本郷通りに接する藤棚の井戸より、30立方メートル/日を汲み上げ、雨水配管を通して供給されています。

 藤棚横、梅博士植樹碑前の水源の井戸

  

 これらとは別に、水の循環を促進するために心字池内にポンプが設置してあり、滝から落とされています。
 滝からは汲みあげられた井水も落とされています。

  

<徳園心字池碑>

 前田家18代当主・前田利祐氏の書による「舊加賀藩上屋敷育徳園心字池」碑です。
 平成14(2002)年4月に建てられています。

 (表)
  「舊加賀藩家屋敷育徳園心字池」
 (裏)
  「平成十四年四月
    財団法人 前田育徳會建立
    題字 前田利祐書」

    

<三四郎池(育徳園)>

(説明板)
「三四郎池(育徳園)
 加賀藩主前田氏が、現在の赤門から池にかけての一帯の地を将軍家から賜ったのは、大阪の役後のこと。園池を大築造したのは寛永15年(1638)、その性、豪宕で風雅を好んだという当主前田利常のときである。かれの死後、綱紀がさらに補修して、当時江戸諸侯邸の庭園中第一と称せられた。育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数奇をきわめたものだといわれている。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の正式名称は「育徳園心字池」なのだが、夏目漱石の小説「三四郎」以来、三四郎池の名で親しまれている。」

  

<山口吉郎句碑/有馬朗人句碑>

  

(左)
 青邨の号を持つ俳人である鉱山学科教授山口吉郎。
 「銀杏散るまつたゞ中に法科あり」
 昭和61(1986)年建立。

  

(右)
 俳人でもある元総長の有馬朗人。
 「銀杏散る万巻の書の頁より」
 平成17(2005)年建立。

   

<散水用ポンプ>

 昭和3(1928)年に設置された、池の水を吸い上げる撒水用ポンプ施設です。
 配管の真下のコンクリートに穴があるので、ここから構内に水を巡らしていたのでしょうか。
 当時は池への湧水がまだ豊富だったことをうかがわせます。

   

<帝大下水>

 撒水用ポンプ施設から下っていく道に、下水蓋「帝大下水」があります。

   


山上会館石垣

 江戸時代初期の遺構で、山上会館建設にともない発掘された石垣を移築したものです。

   

(説明板)
「この石垣は、東京大学山上会館の建設に伴う発掘調査で発見され、その一部を移築復原したものである。東西方向に北面して約15mにわたって検出された。三段目まで残存していたが、本来はもっと高く、上に瓦葺き建物が存在した可能性がある。石材は溶結凝灰岩および安山岩で、採石時の鏨跡と刻印が認められる。刻印には金沢城と共通するものがある。江戸時代初期の構築と考えられるが、前田家の史料、絵図には記載が見られない。
  昭和61年7月」

  

「矢穴の巨石」
 矢穴のある巨石が無造作に置かれています。

  


○加賀藩上屋敷東御長屋上壇の井戸跡

 加賀藩の江戸詰めの藩士が暮らした長屋の井戸跡です。
 ローソン龍岡門店前の歩道脇に現存しています。

   

    

○東御長屋下水排水口

 ローソン龍岡門店裏に広がる塀の基礎部分に長屋の下水排水口が残っています。

    


蛇塚(お化け灯籠)

 工学部は、前田家の女中屋敷があった場所です。
 「蛇塚」(お化け灯籠)という1基の燈篭と燈籠の台座が前庭にひっそりとあります。
 蛇で折檻されて死んだ女中を弔う塚といわれています(真偽不明)。
 さわらぬ神にたたりなし、ひっそりとあります。

     


○加洲大聖寺藩上屋敷跡

 加賀藩三代藩主前田利常が隠居する際に、三男利治に与えた大聖寺藩の上屋敷が、東京大学医学部附属病院にありました。
 大聖寺藩上屋敷の発掘が契機となって平成10(1998)年1月に加賀市等によって記念碑建てられました。
 碑には「一里塚」と刻まれた大聖寺藩ゆかりの九谷焼の皿がはめ込まれています。

 「加洲大聖寺藩上屋敷址」
 「一里塚
  (藩)大聖寺まちなみ景観整備委員会
            会長 久藤豊治
        加賀市長 矢田松太郎書」

   

(碑文)
「大聖寺藩由来記
 嘉永十六年(一六三九)六月二十日加賀藩三代藩主前田利常公は四十七才の若さで小松に隠居し、嫡子光高に加賀藩八十万石を、二男利次に富山藩十万石を、三男利治に大聖寺藩七万石を与え分封した。
 大聖寺藩領は江沼郡全域(百三十三ヶ村)と那谷村及び能美郡六ヶ村を加えたものであった。九代藩主利之の文政四年(一八二一)新田一万石、加賀藩から現米二万俵を受け加賀藩からの願出により幕府から十万石の待遇を公認された。以降十四代利鬯まで十万石として明治四年(一八七一)廃藩置県により、大聖寺県となるまで続いた。
 九谷焼は初代藩主利治が後藤才次郎に命じ、領内九谷村に窯を築き産出したと伝えられており、その窯跡は国指定史跡「九谷磁器窯跡」として残されている。 
 この地大聖寺藩江戸藩邸(五千九百九十七歩)跡を史実の証として石碑を設立し、後世に伝えるものである。
  平成十年一月」

(碑裏)
 「協力された方
  東京大学医学部
  加賀市
  小林組(小松市)
  かみでグリーンサービス(加賀市)
  東出左官工業所(加賀市)
  二代西川愛石(加賀市)陶芸家
  (藩)大聖寺まちなみ景観整備委員会
  題字 加賀市長 矢田松太郎書」

   


○大聖寺藩邸と富山藩邸の石積地境溝

 大聖寺藩邸と富山藩邸の石積地境溝の築石が、診療棟2前の道路の縁石に再利用されています。

   

(説明板)
「加賀藩本郷邸内石積地境溝の築石
 この縁石は、入院棟地点の発掘調査により出土した江戸時代の石積地境溝の築石である。
 本郷キャンパスの大部分は、江戸時代加賀金沢藩前田家の江戸屋敷(本郷邸)が置かれた場所として知られているが、特に病院地区は寛永十六年(一六三九)に分家した越
中富山藩、加賀大聖寺藩の上屋敷が置かれた場所に該当する。
 検出された石積溝は、天和二年(一六八二)までは加賀藩邸と富山藩邸、天和三年以降は大聖寺藩邸と富山藩邸の地境にあたり、生活排水などを池之端方面へ流す排水路としての機能も持っていた。発掘調査の結果、入院棟地点では、高さ約三メートル、七〜八段積みの石積溝として検出されたが、下部二段(寛文年間以前構築)は、加工が粗く、築石間に隙間が認められるのに対し、上部(天和三年増築)は、丁寧に加工され、ほとんど隙間無く積まれていたことが判明した。
 縁石に再利用された築石のうち、石面がほぼ平坦に加工されている築石は天和三年に、石面が丸味を帯びている築石は寛文年間以前に積まれたものである。
  埋蔵文化財調査室」

    


○富山藩上屋敷庭石(ベルツの庭石)

 移設されていますが、富山藩上屋敷の庭園庭石が「ベルツの庭石」として保存されています。

   

(説明板)
「ベルツの庭石
 この庭石は不忍池を見下ろす高台にあった旧富山藩御殿の庭園に据えられていたものである。庭園は明治九年に来日したドイツ人教師ベルツ博士の住む教師館に接しており、博士も庭仕事を好んだといわれる。
 庭園のあった御殿は日本語で教育を行う医学別課の教場として使用された。医学別課の廃止に伴い、明治二十六年に御殿は現在の山上会館の地に移築され、残された庭石は博士に因み「ベルツの庭石」と呼ばれるようになった。庭石はその後長く院内の崖地に放置されていたが、平成十八年九月、中央診療棟2の竣工に際しこの地に移設された。
  平成十九年三月  東京大学医学部・医学部附属病院」

   


富山藩上屋敷御殿

 富山藩上屋敷の御殿は、東京医学校の教場(教室)として使用されました。
 明治26(1893)年に運動場の上に移築された富山藩上屋敷御殿は、「山上御殿」と呼ばれ、総長室などが入る本部や会議所として使われました。
 山上御殿は、大正12(1923)年の関東大震災で焼失しました。現在は山上会館が建っています。

「運動場」(東京帝国大学 小川一真 明治33年)
 運動場は加賀藩上屋敷の馬場だったところです。
 運動場の奥に、移築された富山藩上屋敷の御殿が見えます。

   


○富山藩上屋敷から移設の石碑(御傘亭)

 育徳園の築山「御傘亭」に、天保6(1833)年銘の富山藩の石碑があります。
 富山藩邸に伝わる由来不詳の石仏に堂宇を設け祀ったと記されています。
 なぜここに移設されているのかは不詳です。
 御傘亭は木々が生い茂り、日照不足から藤棚の藤は生育が止まっているとのこと。
 心字池(三四郎池)がかろうじて見えます。

     

(碑文)
 「江戸城之北富山太守藩邸之内従昔相伝有彫石之像…天保六年六月…」

    


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