江戸城の本丸・二の丸・三の丸の跡が皇居東御苑で、一般開放されています(入園無料、月・金休園)。
皇居東御苑への出入門は、大手門、平川門、北桔橋門の三所です。
前回は北桔橋門から入って、天守台や大手門の几号水準点などを見て回りました。
、 今回は、平川門から入り、反時計回りに外周を一周しました。
日を改めて、平川門から入り、「大奥跡」「本丸大芝生」の周りを時計回りに一周してきました。
日本人より外国人観光客のほうがはるかに多いです。石垣石の上に裸で日焼けしている人もいましたよ。
その1
「発券所」→「皇居東御苑と上皇上皇后陛下」→「皇居東御苑のみどころ」→「天神濠」→「案内図」→「梅林坂」→「宮内庁書陵部」
「案内図」→「天守台」→「竹林」→「石室」→「富士見多聞」→「松之大廊下跡」→「案内図」→「野草の島」→「富士見櫓」→「サポート付ベンチ」→「果樹古品種園」
「本丸正面」→「中雀門跡」→「大番所」→「中之門跡」→「百人番所」→「同心番所」→「済寧館」→「下乗門跡」→「三の丸尚蔵館」→「大手休憩所」→「大手門」
「案内図」→「白鳥濠」→「皇居正門石橋旧飾電燈」→「二の丸雑木林」→「案内板」→「二の丸休憩所」
「新雑木林」→「二の丸庭園」→「菖蒲田」→「二の丸池」→「滝上の展望台」→「諏訪の茶屋」→「都道府県の木」→「平川門」
その2
「梅林坂・汐見坂間石垣」→「汐見坂」→「案内図」→「大奥跡」→「ツバキ園」→「ひまわり」→「展望台」→「案内図」→「本丸休憩所」→「江戸城模型」→「緑の泉」
「本丸大芝生」→「江戸城本丸圖」→「午砲台跡」→「茶畑」→「バラ園」→「ヨーロッパアカマツ」→「桜の島」→「江戸城本丸御殿」→「天守台」→「桃華楽堂」
その3(別頁)
「北桔橋門」「平川門」「大手門」「几号水準点」
「浮世絵に見る江戸城の櫓」
以前は「入園票」が交付され退出時に返していましたが、
現在は「そのままどうぞ」で入園します。人数のカウントだけしています。
パンフレットを置いています。
<パンフレット>
<皇居東御苑内図>
「皇居東御苑と上皇上皇后陛下」
発券所の手前にある案内板です。
平川門から江戸城に入ると、奥左手に「天神濠」があります。
天神濠を抜けると、梅林坂の手前にでます。
天神濠を抜け、坂上にある書陵部へいたる梅林坂に来ました。
太田道灌は文明10(1478)年に、坂上に菅原道真を祀る天満社を創建し、周りに梅を植え、この坂は梅林坂といわれています。
天満社は、本丸修築の際、麹町へ移され、その地を平河町とし、平河天満宮と名付け、徳川家から特別な格式を与えられています。
また梅林坂には山王権現神社もあったといわれ、現在は山王日枝神社になっています。
(参考)
「平河天満宮」(こちらで記載)
「山王日枝神社」(こちらで記載)
(説明板)
「梅林坂
この地に最初に城を築いた太田道灌が、このあたりに天神社をまつり、数百株の梅を植えたことから「梅林坂」の名が付いたといわれています。現在は約70本の紅白の梅が植えられており、12月末から2月まで花が楽しめます。」
「上梅林門」(江戸見附写真帖 大正5年 国立国会図書館蔵)
かつては、梅林坂下に下梅林門、坂上に上梅林門がありました。
宮内庁書陵部は、皇室関係の資料などの管理と陵墓の管理を行っています。
平川門から入り、天神濠を抜け、梅林坂を登り、天守台の手前に着きました。
東御苑内に数少ない水飲み場がありました。
来たことがあるので(こちらで記載)、几号水準点を再確認して、今回は通過します。
日本と中国の竹・笹類13種類が植えられています。
珍しいのか、多くの外国人観光客が立ち止まっていました。
(説明板)
「竹林
この竹林は天皇陛下のお考えから、平成8年(1996)に整備されました。昭和天皇へそのお印であった「若竹」にちなみ喜寿の記念等に宮内庁職員から献上され、吹上御苑に
植えられていたものを、こちらに移したものです。日本と中国の竹・笹類13種類が植えられています。」
石室の用途は諸説ありますが、この場所は大奥の脇に当たり、火事などの際に大奥の調度などを避難させた場所と考えられています。
(説明板)
「この場所は江戸城本丸御殿の大奥の脇に当たります。石室の用途は諸説ありますが、火事などの非常の際に、大奥用の調度などを避難させた場所と考えられています。」
中に入れます。発電機で発電して扇風機を回していました。
係員が人数のカウントを行っていましたが暑い中大変ですね。
(説明板)
「富士見多聞
「多聞」は長屋造りの防御施設です。江戸城には多くの多聞がありましたが、現存するのは、この富士見多聞と、伏見櫓の左右にある多聞だけになりました。現在の富士見多聞は、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火(1657年)の後、諸建物が再建された際に建てられたものと考えられています。「御休息所前多聞」とも呼ばれています。」
富士見多聞内掲示
「松の大廊下」があった場所には、石碑「松之大廊下跡」と説明板が設置されています。
(説明板)
「松之大廊下跡
江戸城本丸には広大な御殿があり、この場所には「松の大廊下」がありました。襖戸に松と千鳥が描かれた長い畳敷きの廊下で、赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件(元禄14年(1701年))があった場所です。事件を下敷きにして、「仮名手本忠臣蔵」をはじめ多くの舞台芸能、文学作品、映画、テレビドラマが生まれています。」
「忠雄義臣録 第三」(三代豊国 都立図書館蔵)
三代豊国が元禄14(1701)年3月14日の松之廊下刃傷の場面を描いています。
江戸城大広間と白書院をつなぐ松の廊下において、勅使馳走役の浅野内匠頭が指南役の吉良上野介に斬りつけた場面です。
浅野内匠頭は梶川与惣兵衛に抱きとめられ、額と背中に傷を負った吉良上野介は、額に手を当て抱えられて逃げています。
竹林→石室→富士見多聞→松の大廊下跡とたどってきました。
野鳥の島の脇を通って、富士見櫓に向かいます。
(説明板)
「野草の島
トチノキやホオノキなどの大木の下に、野草や花木が四季おりおりの花を咲かせ、実をつけます。」
江戸城遺構として残る唯一の三重の櫓です。
太田道灌が建てた静勝軒の跡地に建てられたと考えられています(静勝軒はこちらで記載)。
太田道灌は、「わが庵は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」と詠んでいます。
(説明板)
「富士見櫓
「櫓」は、城の隅など重要箇所に造られる防御施設の役割をもった建物です。かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現存する櫓は、富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の3つとなりました。富士見楼は、明暦の大火(1657年)で焼失しましたが、その後間もなく再建され、天守の代用としても使われていました。将軍が富士山や両国の花火、品川の海を眺めたといわれています。」
「富士見櫓の概要」「富士見櫓からの眺望」
「富士見櫓の防御設備」
「富士見櫓の修理」
「蓮池門」(江戸見附写真帖 大正5年 国立国会図書館蔵)
蓮池門と三重櫓が写っています。
蓮池門は、明治43(1910)年に名古屋城の正門として移築されましたが、
昭和20(1945)年の空襲で焼失し、昭和34(1959)年に天守とともに再建されています。
「富岳百景 江戸の不二」(葛飾北斎 国立国会図書館蔵)
富士山がよく見える鯱のある江戸城の櫓だということから推察すると、富士見櫓なのでしょう。
屋根の鯱越しに富士を遠望しています。
鳥にとまられ困ったような表情をしている鯱です。
第11代将軍「家斉」は、鷹狩の際にに立ち寄った伝法院で、葛飾北斎を呼んで席画が行われています。
葛飾北斎が江戸城内にも呼ばれたことがあるのかどうかはわかりませんが、見たことがあるような描写です。
「千代田之御表 狼煙上覧」(楊洲周延 国立国会図書館蔵)
櫓から狼煙を見物する将軍が描かれています。
屋根の上に鯱鉾が置かれており、描かれているのは富士見櫓の可能性が高いかと思います。
多く置かれているサポート付のベンチです。初めて見ました。
富士見櫓から果樹古品種園を抜け、中雀門に向かいます。
(説明板)
「果樹古品種園(東)
ここには、かつて食用として栽培されていた古い品種の果樹が植えられています。江戸城の跡に江戸時代の果樹の品種を植えれば、入園者にとっても興味深いのではないかとの上皇陛下のお考えから古い品種の果樹園をつくったものです。
この区域にはカンキツ5品種、ニホンナシ5品種、モモ・スモモ4品種が植えられています。そのうち、「三宝柑」、「クネンポ」、「紀州ミカン」のカンキツ3品種を上皇陛下が、「淡雪」、「大古河」、「類産梨」のニホンナシ3品種を上皇后陛下が、それぞれ平成20年(2008)4月にお手植えになりました。」
(説明板)
「果樹古品種園(西)
ここには、かつて食用として栽培されていた古い品種の果樹が植えられています。江戸城の跡に江戸時代の果樹の品種を植えれば、入園者にとっても興味深いのではないかとの上皇陛下のお考えから古い品種の果樹園をつくることになったものです。
この区域にはワリンゴ3品種、カキ5品種が植えられています。そのうち、「高坂リンゴ」、「リンキ」のワリンゴ2品種と「豊岡」、「四溝」のカキ2品種を上皇上皇后
両陛下が平成21年(2009)3月にお手植えになりました。」
二本の大ケヤキが立っているところが、本丸正面となります。
ここから大名の登城ルートを反対にたどります。
中雀門(ちゅうじゃくもん)は、江戸城本丸正面へ続く最後の門です。
中雀門跡を下ると「大番所」があります。
(説明板)
「大番所
大番所は、左の写真に映っている大手中之門の内側に設けられていた警備詰所です。ここには位の高い武士が勤務していました。この番所は、明治期に改築され、作業所として使われていましたが、昭和43年(1968年)に江戸時代の姿に復元されました。」
中雀門跡手前の中之門跡です。
(説明板)
「本丸中之門石垣 概要
皇居内の石垣は、特別史跡「江戸城跡」に指定されています。「本丸中之門石垣」修復工事は平成17年8月から平成19年3月にかけて行いました。
修復は、文化財調査を行いながら、石垣を変形前の形状に復元することを目標にしました。
石垣には、江戸城の中でも最大級の巨石が使われ、布積みという技法で積まれています。また、この中之門石垣には、本丸御殿への登城口として渡櫓門が配置されていました。」
「この展示スペースでは、中之門石垣修復時に交換した石材の展示を行っています。」
石材の展示
消防車が中之門を抜けていきました。車体には「皇宮警察」と書かれていました。
皇宮警察が消防も担っていて、消防車ではなく警防車と呼ぶようです。
「本丸中之門」(江戸見附写真帖 大正5年 国立国会図書館蔵)
「門外より共に本丸重箱櫓等を見たるところなり。」とあります。
中之門跡を出ると、長大な「百人番所」があります。
(説明板)
「百人番所
江戸城本丸への道を厳重に守る大手中之門に向き合って設けられた警備詰所です。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していました。各組は、20人の与力と、100人の同心で構成されていました。」
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皇居東御苑は歴史博物館展示場の様相があります。
3つある番所のうち、登城ルートで最初の番所です。
屋根瓦には、葵の紋が見えます。
(説明板)
「同心番所
「番所」とは警備詰所のことで、江戸城にあった番所のうち、百人番所、大番所、同心番所の3つが残っています。ここには主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていました。屋根瓦には、皇室の菊の御紋のあるものや徳川家の葵の紋があるものが見られます。」
大手休憩所の隣にある皇宮警察の武道場「済寧館」では皇宮警察の警察官が剣道の練習をしていて、
多くの外国人観光客が物珍しそうに垣根の間から見物していました。
「下乗門」跡の石垣が残っています。
大手門を通って突き当たりの下乗門までが三の丸で、下乗門から本丸へ向かう二の丸に入るため、
御三家を除く大名は、下乗門手前で駕籠から降りました。
「下乗門」(江戸見附写真帖 大正5年 国立国会図書館蔵)
国立文化財機構が所管する博物館です。
皇居東御苑は広大で、人はまばらですが、大手休憩所はクーラーが効いて売店もあり外国人観光客が多いです。
カフェを併設した「大手休憩所(仮称)」が新設される予定(2025年度中に完成)です。
そのため、現在の大手休憩所はプレハブでの営業です。
休憩所の近くには、郵便ポストがありました。
皇居には宮内庁内郵便局がありますが、この郵便ポストの集配担当は銀座郵便局です。
来たことがあります。「大手門几号水準点」(こちらで記載)
大手門全般については、こちらで記載済。
「玄猪諸侯登城大手下馬ノ図」 (千代田之御表 楊洲周延 明治30年 国会図書館蔵)
大名は大手門で下馬し江戸城に登城し、家臣と馬は大手門の外で主君の帰りを待ちます。
三の丸から二の丸に向かいます。
大手門から白鳥濠の脇を通り、二の丸庭園内の二の丸休憩所に向かいます。
白鳥濠の上には「展望台(台所前三重櫓跡)」が見えます。
二の丸庭園への入口に、「皇居正門石橋旧飾電燈」が設置されています。
(説明板)
「二の丸雑木林
武蔵野の代表的な風景である雑木林は、下草や落葉は毎年肥料として集められ、木は20年ごとに燃料用に伐採されるなど、人間生活との深い関わりにより形成されていました。二の丸雑木林は、コナラ・クヌギなどの落葉樹の林が保たれ、チゴユリなどの春植物(樹木の葉が開く前の林内が明るいうちに葉を広げ、花を咲かせる植物)をはじめ、多様な動植物が生息・生育できる林となっています。」
(説明板)
「この雑木林は、昭和天皇のご発意により、武蔵野の面影を持つ樹林として、昭和57年から60年にかけて整備されたものです。
樹木や野草を始め、鳥や昆虫等も楽しめる、自然の林として大切に育てております。
植物を痛めないように、樹林地内への立入りはご遠慮願います。」
(説明板)
「二の丸雑木林
昭和天皇のご発意により、失われていく雑木林を再現しようと、昭和58年(1983)から60年(1985)にかけて造成されました。造成にあたっては、東京近郊の開発予定地にあった雑木林の表土を移したため、植物の種子や根、昆虫の卵、土の中の生物も運ばれ、早期に再生することができました。
平成14年(2002)から雑木林としての管理を進め、大きくなりすぎた樹木を間引き、萌芽更新を行うとともに、林床の下草を刈って野草が生育できる環境を維持しています。」
二の丸休憩所手前の案内板です。
クーラーが効いていて涼しいです。
昔と現在を比較した掲示物が色々とありました。
(説明板)
「新雑木林
昭和天皇の御発案でつくられた雑木林を拡張してはどうかとの上皇陛下のお考えから、平成14年(2002)に整備されました。常緑広葉樹が植えられていた区画を落葉広葉樹の林にしたもので、多様な生き物のすみかとなるよう、隣の雑木林から種子や昆虫の卵の入った表土を運び入れ、野鳥や昆虫の好む樹木を植えて、小さな流れもつくりました。」
(説明板)
「新雑木林の野草
雑木林では、吹上御所から移植したものも含め様々な野草が見られ、四季を通じて花と実を楽しむことができます。」
(説明板)
「二の丸庭園
江戸時代、二の丸には小堀遠州が造り、三代将軍徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。現在の回遊式の庭園は、昭和39年(1964年)に、九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園を基にして造られたものです。」
(説明板)
「菖蒲田
この菖蒲田には、84品種のハナショウブが植えられています。皇居東御苑造成中の昭和41年(1966)に明治神宮外苑の菖蒲田から株を譲り受けて以来、大切に守り育てているものです。」
(説明板)
「二の丸池
この二の丸池にはコウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、アサザの4種類の水生植物が生育しています。初夏から秋にかけて水面を覆い、それぞれ黄色や白色の花を咲かせます。コウホネは御所の池から、アサザは赤坂御用地の池から株を移したものです。」
<ヒレナガニシキゴイ>
二の丸池の東側に滝があります。
滝上に展望台があります。
(説明板)
「諏訪の茶屋
諏訪の茶屋は、元々、明治45年(1912年)に、皇居内の吹上地区に建てられたものです。その場所に、江戸時代に諏訪社があったことから、諏訪の茶屋という名前が付いています。昭和43年(1968年)に現在の場所に移築されました。」
「諏訪之御茶屋」(吹上御苑真景 明治23年 国立国会図書館蔵)
寛政8(1796)年に「諏訪御腰掛」ができたことに始まるとのことです。
石碑「都道府県の木」
(説明板)
「都道府県の木
昭和43年(1968)の皇居東御苑公開に際し、都道府県から寄贈された各「都道府県の木」が植えられました。また、沖縄県の木は本土復帰した昭和47年(1972)に植樹されました。平成29年(2017)に再整備を行い現在32樹種の木々が植えられています。」
日比谷公園にも「郷土の森」として都道府県の木が植えられています。絶滅危惧種の愛知県のはなのきは枯れてありません。
ここでは根付いて育っています。
平川門に戻りました。左手に清水豪、右手に大手濠の平川橋を渡って皇居東御苑を後にしました。
平川門から入り、右手の梅林坂を登らず、そのまま直進して汐見坂に向かいます。
(説明板)
「梅林坂・汐見坂間石垣
【概要】
皇居内の石垣は、特別史跡「江戸城跡」に指定されています。そのうち「梅林坂・汐見坂間石垣」修復工事を平成14年7月から平成17年3月にかけて行いました。
修復は、文化財調査を行いながら、石垣を変形前の現状に復元することを目標にしました。
石垣の築造は明暦2年(1656)から始まりましたが、翌年「明暦の大火」が発生したために、大きな影響を受けたと思われます。今回石垣の裏側からは大量の屋根瓦などを出土しました。
二重櫓(やぐら)
梅林坂側の石垣角にあった二重屋根の物見櫓。別名「汐見太鼓櫓」とも呼ばれています。二重櫓部石垣(地上高さ約11m)内に、瓦破片が約8m弱の厚さで充填されていました。瓦片はほとんどが焼けて赤く変色したり、熱で溶けていました。
東照社石垣
石垣が築造される以前ここには徳川家康を祀った東照社が建てられており、地中部分は東照社の石垣を利用していることがわかりました。この部分はそのまま再利用しました。」
Cが東照社の遺構で、石垣の上に東照社が描かれています。
時期は前後しますが、江戸時代初期の江戸城には、紅葉山、天守台下、二の丸に東照社が置かれました。
汐見坂を上ります。
左手は白鳥濠です。
(説明板)
「汐見坂
徳川家康による江戸城築城の頃は、この場所の近くにまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができたことから「汐見坂」の名が付いたといわれています。
この坂は、本丸と二の丸をつないでいたもので、坂上には、汐見坂門が設けられていました。」
汐見坂を上ると、右手に「宮内庁楽部庁舎」があり、さらに進むと「本丸」(大奥跡)に突き当り案内図が掲げられています。
大奥跡の掲示先に、井戸枡らしきものがありました。
江戸城は玉川上水を利用していたので、何の掲示もありませんが玉川上水井戸跡でしょうか?
千代田区観光協会HPの「大奥跡」には、井戸跡の写真が掲示(説明なし)されているので、江戸時代の遺物かと思われます。
「江戸城本丸圖」(万治造営)によると、「井」と記されています。
白鳥濠の石垣上に、「ツバキ園」があります。
(説明板)
「ツバキ園
このツバキ園には20品種以上のツバキがあり、10月から5月まで花を楽しむことができます。ツバキは日本各地に自生しており、江戸時代から多くの園芸品種が作り出されて、人々に愛されてきました。」
「ツバキ園」に続いて「はるかのひまわり」があります。
日当たりのよい増築館横にもひまわりがあります。
白鳥濠石垣上に「展望台」があります。
ここにはかつて三重櫓があり、本丸御殿台所前にあったため台所前三重櫓と呼ばれていました。
「白鳥濠」を一望します。パレスサイドビルが見えます。
パレスサイドビルから見た皇居東御苑の展望台の位置です。
本丸休憩所(売店)前に案内図が掲示されています。
「大嘗宮」の説明板と模型が展示されています。
(説明板)
「大嘗宮(だいじょうきゅう)
大嘗宮は、大嘗祭を行うために特別に設営されます。
大嘗祭は、皇位の継承があったときは、必ず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いた、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式であり、天皇陛下が御即位の後、初めて、大嘗祭において悠紀地方及び主基地方の新穀を皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式です。この大嘗祭の中心的儀式である大嘗宮の儀は、悠紀殿供饌の儀と主基殿供饌の儀から成ります。
平成2年の大嘗宮においては、悠紀地方として秋田県、主基地方として大分県が定められ、皇居東御苑の芝地に、悠紀殿、主基殿、廻立殿の殿舎を中心に、それに関連する建物や参列者幄舎など大小30余の建物が設営され、11月22日の夕方から夜にかけて悠紀殿供饌の儀が、翌23日の暁前に主基殿供饌の儀が行われました。
この模型は、その際の大嘗宮を75分の1に縮小したものです。」
「雅楽(管弦と舞楽)」の説明板と模型が展示されています。
本丸休憩所(売店)に隣接する増築棟に「江戸城天守復元模型」が展示されています。
(掲示)
「江戸城天守復元模型 概要
江戸時代の初期、江戸城の中心であった本丸には、慶長期、元和期、寛永期と3度にわたり天守が築かれました。
本天守復元模型は、外観、構造など、復元のために重要な資料が比較的多く残され、
確かな時代考証に基づく復元が可能な寛永期の天守を1/30スケールで製作したものです。」
正面→右→後→左
(説明板)
「江戸城寛永度天守復元模型(縮尺1/30)
日本一高層の天守
江戸時代、この場所が江戸城の中心、本丸でした。江戸時代の初期には、この本丸に3度、天守が築かれました。この模型は、そのうちの最後のもので、最も大きかった
寛永期の天守を復元したものです。五重6階の建物と石垣の天守台を合わせた高さは約60m、20階建てビルに相当し、この天守は日本にあったいろいろな天守の中で最も高いものでした。建物の壁は銅板と漆喰、破風には飾り金具が付き、屋根は銅瓦葺で、最上の棟に金色の鯱が輝いていたと思われます。南側の小天守台から石段を登り、天守内に入ったと考えられます。本丸の標高を入れると約80mになり、江戸の町にそびえ立つ豪壮な天守でした。」
(説明板)
「江戸城天守の変遷
江戸時代初期の50年間に3度も建てられた
江戸城の天守は3度も建て直されています。模型は3代将軍徳川家光が建てた3度目の天守にあたります。寛永15年(1638年)に竣工しましたが、明暦の大火で焼失するまで20年間しか存続しませんでした。4度目の天守の再建計画はありましたが、石垣の天守台のみ造られて中止となりました。明暦の大火で江戸の町の大部分が焼失し、軍事上無用な天守の再建より、町の復興を優先させた、と言われています。以降は、同じ本丸の南にある富士見櫓(現存)が天守の役割を果たしました。」
(説明板)
「天守模型復元にあたって
幕府の大棟梁関係図面、江戸図屏風等を参考」
(説明板)
「現在の天守石垣について
石垣まで造られ中止された4代目の天守
現在、本丸北隅に残る石垣は、明暦の大火の翌年、万治元年(1658年)に加賀藩が担当して再建された天守台です。建物は計画図面まで描かれましたが、再建は中止されました。天守が無い状態が210年続き、江戸時代は終わりました。再建天守台は寛永期天守と同規模の建物が乗る面積ですが、高さは寛永期のものより1間低く造られました。寛永期の天守台には、伊豆石という黒い石材が用いられましたが、再建天守台の外周の石材は、寛永期とは異なる白い安山岩が用いられました。再建天守台の内側などの一部には黒い石材が用いられていますが、寛永期のものを再利用したと考えられています。」
(参考)
「江戸城天守模型」(東京国際フォーラム) こちらで記載
東京国際フォーラムに、江戸城天守模型(スケールは1/84)が展示されています。
また、太田道灌が長禄元(1457)年に築城した江戸城の想定図が掲示されています。
「緑の泉」という噴水池ですが、水はありません。
江戸城本丸は、現在は芝生となっています。掲示のある場所が本丸正面です。
ここから天守台へ向かいます。
石垣石と思われる巨石に、本丸図のプレートがはめられています。
太田道灌没後450年の昭和11(1936)年に東京市長であった牛塚虎太郎氏が虎ノ門の石垣を利用して建立した「太田道灌公追慕之碑」(こちらで記載)が想起されます。
プレートの左下には「本図は萬治造営による 縮尺 六百八十分之一」とあります。
明治4(1871)年9月9日(旧暦)、本丸跡にて、陸軍近衛師団が午砲台を設置し空砲による報時を開始しました。
大正11(1922)年9月15日、軍が撤退し東京市が業務を引き継ぎ東京市報時所となり、
昭和4(1929)年5月1日にサイレンによる報時に切り替えられるまで正午を知らせる砲声(ドン)が響きました。
実用ではなく、観賞用のようです。
(説明板)
「バラ園
このバラ園は、上皇陛下のお考えから平成8年(1996)に整備されました。大半のバラは、昭和天皇が献上をお受けになってお育てになっていたものを吹上御苑から移植した
ものです。また、フローレンス・ナイチンゲールは、フローレンス・ナイチンゲール国際基金発足75周年を記念してつくられたバラで、平成21年(2009)9月に贈られ上皇上皇后両陛下がお手植えになりました。」
案内板に掲載されている写真のヨーロッパアカマツから大きく育っています。
(説明板)
「ヨーロッパアカマツ
この2本のヨーロッパアカマツは、平成20年(2008)11月に国賓として来日された当時のスペイン国国王王妃両陛下から上皇上皇后両陛下に贈られ、平成21年(2009)3月、両陛下がお手植えされたものです。」
(説明板)
「桜の島
皇居東御苑には30品種ほどのサクラがあり、この「桜の島」ではその約半数の品種を見ることができます。2月のカワヅザクラやツバキカンザクラにはじまり、4月のカンザン、フゲンゾウ、キクザクラまで一重や八重の美しい花が春を彩ります。」
大奥跡北橋から南方向の光景です。
(案内板)
「江戸城本丸御殿
この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていました。
表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。」
「本図は、万治造営による。」
排水口らしきものも見えます。
(説明板) ※前回訪問時より更新されていました。
「天守台
徳川家康の入城以来、江戸城では、慶長度天守(1607年)、元和度天守(1623年)、寛永度天守(1638年)と3度、天守が建てられました。最も規模が大きかった寛永度天守は、地上から高さが約58mあったといわれています。
この天守台は、寛永度天守が明暦の大火(1657年)により焼失した後、天守再建を目指して万治元年(1659年)に築かれたものですが、幕府内で、天守は不要との結論が下され、この天守台には天守が建てられないままになりました。
江戸時代の江戸城は、天守があった50年間の後、天守がない状態が210年間続いたことになります。」
(説明板)
「桃華楽堂
香淳皇后の還暦を記念して建てられ、香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名された音楽堂で、昭和41年(1966年)に完成しました。
屋根はテッセンの花弁を象り、八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれています。」