江戸城本丸から三の丸は、多くの櫓で守られており、本丸で14基、二の丸で9基、三の丸で5基、総数28基を数えました。
現存の櫓は、富士見三重櫓、桜田(巽)二重櫓と西の丸の伏見櫓だけです(一般財団法人江戸東京歴史文化ルネッサンスによる)。
多くの浮世絵師が「江戸城」「日本橋」「富士山」の3点セットを描いています。
幕府関連は描いてはいけない江戸時代ですが、皆さん、霞の中に隠すことなく「江戸城」を描いています。
江戸城には多くの櫓が見えます。遠景なのでこれぐらいは大目にみられたのでしょうか。
「冨嶽三十六景 江戸日本橋」(葛飾北斎)
手前に見える橋は、擬宝珠が描かれているので日本橋であることがわかります。
奥には一石橋が見えます。街並みの先には、江戸城の櫓を2つだけ描いています。
三重櫓は江戸城の奥手に描かれており、富士関連だと富士見櫓でしょうか。
霞の彼方には富士が見えます。
「富岳百景 江戸の不二」(葛飾北斎)
富士山がよく見える鯱のある江戸城の櫓であることから推察すると、富士見櫓なのでしょう。
屋根の鯱越しに富士を遠望しています。
鳥にとまられて困ったような表情をしている鯱です。
第11代将軍「家斉」は、鷹狩の際にに立ち寄った伝法院で、葛飾北斎を呼んで席画が行われています。
日本橋からでも江戸城の櫓は見えたし、葛飾北斎は江戸城内にも呼ばれたことがあるのかもしれません、見たことがあるような描写です。
「江戸名所 日本橋」「江戸名所橋尽 日本橋」「銀世界東十二景 日本橋雪のあけぼの」(広重)
葛飾北斎と同じような構図で歌川広重も3点セットを描いています。
他の構図でも、多々描いています。
北斎とは異なり、広重は多くの櫓を描いています。
「名所江戸百景 日本橋雪晴」(広重)
3点セットのほか、右下には日本橋魚市場が描かれ、日本橋川には押送船が見えます。
江戸城もしっかりと描きこまれています。
三重櫓は江戸城の石垣より奥に描かれているので富士見櫓かも、そして右手の大きな屋根は本丸御殿の屋根かも。
「日本橋魚市繁栄図」(広重)
日本橋魚市がメインに描かれていますが、日本橋、江戸城、富士も描かれています。
(参考)歌川広重生誕の地
広重は、寛政9(1797)年、八代洲河岸の定火消屋敷安藤家(現在の明治生命館)で生まれ育ちました。
文化6(1809)年、13歳の時に両親を失い火消同心の職を継ぎます。
文政6(1823)年、27歳の時には祖父十右衛門の実子の仲次郎に火消同心の職を譲り、浮世絵に専念します。
広重は江戸城の間近で生まれ育ったわけで、広重が描く江戸城の櫓群は、実際の光景に近い描写だと思われます。
「江戸八景 日本橋の晴嵐」(渓斎英泉)
葛飾北斎と同じような構図の絵です。
江戸城部分を拡大すると、多くの櫓が描かれています。
「江戸名所道外尽 壱 日本橋の朝市」(歌川広景)
富士山を望む日本橋の朝です。江戸城の多くの櫓が描かれています。
「江戸自慢三十六興 日本橋初鰹」(二代広重・三代豊国)
「東海道五十三駅 日本橋」(二代広重)
「末広五十三次 日本橋」(国貞)
三重櫓に二重櫓が見えます。
「二の丸巽三重櫓」(江戸見附写真帖)
「大手門内より三之丸に向ひ、二之丸巽三重櫓並東三重櫓を見たるところなり。」
多くの浮世絵に描かれている三重櫓は二之丸巽三重櫓でしょうか、奥に描かれている場合は富士見櫓でしょうか。
「千代田之御表 狼煙上覧」(楊洲周延)
櫓から狼煙を見物する将軍が描かれています。
屋根の上に鯱鉾が置かれており、描かれているのは富士見櫓の可能性が高いですかね。
※出典はすべて国立国会図書館蔵(デジタルコレクション)です。