平川門は、江戸城三の丸の正門で、本丸大奥に通じる奥女中の通用門だったため別名「お局門」、
場内の死者や罪人などの出口とされていたことから「不浄門」ともいわれます。
松之廊下刃傷事件を起こした浅野内匠頭は、この門から江戸城を出されました。
平川門の周辺(現在の九段南一丁目や一ツ橋一丁目)が平川村と呼ばれていたため、平川門という名がついたとされています。
<擬宝珠>
平川橋の欄干にある擬宝珠は、元々は二重橋に備え付けられていたもので、明治20(1887)年に橋が架け替えられた際に平川橋に転用されました。
擬宝珠は全部で10個あり、全て江戸時代のもので、慶長19(1614)年及び寛永元(1624)年と刻まれています。
和田倉門橋が木橋風のコンクリート造ですが、江戸城に架かる橋で木造橋は平川橋だけとなっています。
大手濠側
「慶長拾九年 甲寅八月吉日 御大工 椎名伊与」
「寛永元甲子年 八月吉日 大工 椎名源左衛門尉 吉勝作」
「寛永元甲子年 八月吉日 大工 長谷川越後守」
「寛永元甲子年 八月吉日 大工 椎名源左衛門尉 吉勝作」
「慶長拾九年 甲寅八月吉日 御大工 椎名伊与」
清水濠側
「慶長拾九年甲寅 八月吉日 御大工 椎名伊与」
「寛永元年甲子 八月吉日 大工 長谷川越後守」
「寛永元甲子年 八月吉日 大工 長谷川越後守」
「寛永元甲子年 八月吉日 大工 椎名源左門尉 吉勝作」
「慶長拾九年甲寅 八月吉日 御大工 椎名伊与」
<標柱「平川門」> 平川門橋北東側橋台敷内
「平川門
平川門は、江戸城内郭門の一つで、三の丸から城外への出口として、奥女中や御三卿が使用しました。
「御府内備考」によれば、現在の九段南一丁目や一ツ橋一丁目が平川村と呼ばれていたため、平川門という名がついたとされています。
御三家が幕府から特別な待遇を受けつつも、あくまでも他の大名と同様に大手門などから登城したのに対し、御三卿は「三家ヨリハ内輪ナル」(松平慶永著「幕儀参考」)とされ、平川門から江戸城奥に入ることが許されました。」
<パレスサイドビル屋上から平川門の光景>
<平川門>
平川高麗門
帯曲輪につながる脇門 枡形内から見た平川門渡櫓
(説明板)
「平川門
大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。小さな脇門は、平川濠の中に伸びた、「帯曲輪」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。」