○ 霞が関の由来 (旧文部省)
○ 霞が関跡碑 (国土交通省)
○ 大岡越前守上屋敷跡 (弁護士会館)
○ 燈籠と庭石 (法務省)
○ 黒田家上屋敷長屋石垣(外務省) 別頁
○ 陸奥宗光像 (外務省) 別頁
○ 国史跡江戸城外堀跡 (虎の門三井ビル) 別頁
○ 文部科学省構内石垣 (文部科学省) 別頁
○ 情報ひろば (文部科学省)
○ さざれ石 (文部科学省)
○ 史跡江戸城外堀跡地下展示室(虎ノ門駅) 別頁
○ 旧国立教育会館の石垣(霞ヶ関コモンゲート)別頁
○ 工部大学校阯碑 (霞ヶ関コモンゲート)別頁
○ 誓いの碑 (厚生労働省)
○ らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の碑(厚生労働省)
○ 海軍省跡碑 (厚生労働省)
○ 江藤新平君遭難遺址碑(虎の門三井ビル)
○ 政府刊行物センター (霞が関日土地ビル)
旧文部省庁舎前の歩道に、「千代田区町名由来板 霞ヶ関」が設置されています。
(説明板)
「千代田区町名由来板 霞ヶ関
皇居外苑南東端にある外桜田門から港区虎ノ門に至る桜田通りにかけての一帯は、霞が関(昭和四十二年〈1967〉に霞ヶ関から改称)といいます。江戸城を守る外郭門のひとつであった虎御門は、江戸時代初期までは遠浅の海(日比谷入江)に面していました。
霞ヶ関の名前は古代までさかのぼり、日本武尊が蝦夷の襲撃に備えて、武蔵国に置いた関所「霞ヶ関」から名付けられたといいます。その名前は関所から雲霞を隔てた遠方を望むことができるということに由来し、江戸時代の地図にはすでに、「霞ヶ関」と記したものもあります。
江戸時代には、幾多の大名が住む武家地であり、日向延岡藩内藤家(文部科学省・会計検査院・霞が関ビル周辺)、筑前福岡藩黒田家(外務省)、安芸広島藩浅野家(国土交通省周辺)、出羽米沢藩上杉家(法務省旧本館・法曹会館周辺)などの上屋敷がありました。
明治維新後、この一帯は政府用地として利用されます。一丁目・二丁目は、明治二十年代以後の官庁集中計画に基づいて、赤レンガ造りの官庁が林立し、現在の中央官庁街となりました。警視庁前に残る法務省旧本館の建物はその名残であり、重要文化財に指定されています。
三丁目には、明治四年(1871)、日本初の官立の工業技術教育機関である工部大学校(東京大学工学部の前身)が開校しました。のちには各国の大公使館も置かれ、政治や外交の中心地的印象が強い霞が関ですが、三丁目一帯は近代産業も芽生え、発展してまいりました。
霞ヶ関三丁目町会」
中央合同庁舎第2号館の桜田通り沿い側に「霞が関跡」碑が設置されています。
霞が関は、日本武尊が蝦夷に備えて関所を設けたという伝説によるとされ、
この関が大和から雲霞を隔てた場所にあったから、または雲霞を隔てた遠方を望める地であることから
霞ヶ関と名付けられたといわています。
山手台地にあり、江戸城に接し、城を守る要所であることから、諸大名の屋敷地となりました。
江戸期には武家屋敷の建ち並ぶ景勝地として霞ヶ関坂が錦絵に多く描かれました。
(国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」を参照しました。)
(標柱)
「霞が関跡
この辺りは、江戸時代、霞が関と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいました。そして、その名は代々受け継がれ、現在では中央官庁街の代名詞になっています。
霞が関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれていますが、正確な場所は分かっていません。今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられています。
千代田区に霞が関があったとの説は、『武蔵野地名考』という史料の「上古ハ荏原郡に属す今ハ豊嶋郡にあり。」という記述、『江戸名所図会』という史料の「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり。」という記述から導きだされています。
また、名前の由来については、『武蔵野地名考』に「この場所から雲や霞の向こうに景色を眺めることができるため」と記されています。
平成十二年三月建替 千代田区教育委員会」
「江戸名所図会 霞ヶ関」
坂の下から描かれています。
霞ヶ関坂の両側には、福岡藩黒田家と広島藩浅野家の大名屋敷がありました。
現在は、外務省と総務省があります。
「名所江戸百景 霞かせき」(広重)
坂の上からです。江戸湾が見えます。
空には凧が舞い、新年の霞ヶ関坂を描いています。
「江戸名所道戯尽 十五 霞が関の眺望」(歌川広景)
名所江戸百景と同様の構図で、坂の上から。江戸湾が見えます。
下肥を運ぶ馬が暴れて下肥をぶちまけています。
武士は扇をあおいて鼻をつまんでいます。女性は袖で鼻を覆っています。
「江都名所 かす美か世紀」(広重)
坂の上から。江戸湾が見えます。
左手には大きな傘に入って歩く住吉踊りの踊り子、青竹売りが見えます。
右手には三味線を持つ門付の女たち、しゃぼん玉売りが見えます。
中央にはしゃぼん玉が飛んでいます。その下を大名の一行が坂を下りています。
「東都名所 東都霞ケ関山王祭諌込ノ図」(広重)
霞ヶ関坂を下る「山王祭」の「山車行列」が描かれています。
「東都名所 霞ケ関全図」(広重)
坂の下からです。富士山が見えます。
霞ヶ関坂の右側が広島藩浅野家の上屋敷です。
浅野家の屋敷には、将軍の息女が輿入れしたことを示す御住居門(赤門)が描かれています。
「絵本江戸土産 霞ケ関」(広重)
坂の下からです。
「外桜田黒田侯と浅野侯の間の坂をいふ この所古き名所にて歌どもあまたあり」と記されています。
「江戸名所百人美女 霞ケ関」
10代広島藩主浅野慶熾(よしてる)の正室利姫が描かれ、こま絵には霞ヶ関坂が描かれています。
利姫は、天保7(1836)年に田安徳川家当主斉荘の娘として江戸に生まれ、10歳の時に養子に入った慶臧(よしつぐ)と婚約します。
しかし14歳の時に慶臧が死去し、広島藩主浅野家の嫡男で利姫と同い年の慶熾に嫁ぎました。
安政5(1858)年、慶熾は広島藩主に就任しますが、半年で急死。利姫は23歳にして未亡人(寿操院)となりました。
「東都三十六景 霞ケ関雪中」(二代広重)
雪景の霞ヶ関坂が描かれています。
弁護士会館の植栽の中に案内板があります。
「大岡越前守忠相 屋敷跡
名奉行として知られる大岡忠相(1667-1751)は徳川吉宗が八代将軍に就任した翌年
(享保2年・1717)に江戸奉行に起用され、以後20年間その要職にあった。
宝暦元年(1751)12月、半年前に没した吉宗の後を追うようにして亡くなった。
この地は晩年に忠相の上屋敷がおかれた場所である。」(案内板)
大岡越前守上屋敷に置かれていた2基の石灯籠、手水鉢、庭石が、法務省に移転保存されています。
また、由来の石碑があります。
現在の弁護士会館(検察庁旧庁舎)に大岡越前守の屋敷があり
旧司法省建設の際に屋敷跡から移転されたものです。
「由来
この燈籠と庭石は、明治初年まで 外桜田の一画 現千代田区霞が関1ー1ー3に存した
大岡越前守上屋敷に置かれていたもので 旧司法省庁舎建設(明治28年竣工)の際
その屋敷跡から現在地辺の司法大臣官舎裏庭へ移転されたと伝えられる。」
東京地検検事正・木村栄作氏が由来を書いた石碑が昭和61年1月27日に設置されたものです。
屋敷にあった燈籠と庭石が保存されていることに大岡越前守への敬意を感じます。
<厚労省HP「誓いの碑」>
「厚生労働省では、「薬害エイズ事件」の反省から、血液製剤によるHIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないように、その決意を銘記した「誓いの碑」を、平成11年8月24日、厚生労働省の正面玄関前に設置しました。」
(碑文)
「誓いの碑
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重
ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省」
<らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の碑> HP
平成23(2011)年6月の建碑です(撮影失敗画像なし)。
(参考)式典動画(令和4(2022)年6月22日:厚生労働省)
昭和60(1985)年11月の建立です。
(碑文)
「海軍省跡 軍令部跡
内閣総理大臣 中曽根康弘書」
「東京名所図会 海軍省」(明治23年 国立国会図書館蔵)
「文部科学省 情報ひろば」は、旧文部省庁舎(国登録有形文化財)を活用した文部科学省のミュージアム・情報発信スペースです。
展示1「旧大臣室」、展示2「教育」、展示3「スポーツ」、展示4「科学技術・学術」、展示5「文化」、展示6「企画展示室」があります。
昭和8年当時の姿に復元された旧文部大臣室です。
旧文部省庁舎と現在の文部科学省の間の緑地に、2個の「さざれ石」が展示されています。
昭和37(1962)年に、旧春日村が旧文部省に寄贈した「さざれ石」です。
(説明板)
「国歌に読まれているさざれ石
この石は学名を石灰質角礫岩と言う。石灰石が雨水に溶解して、その石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第に大きくなる。
やがてその石が地上に出て、国歌に詠まれているように、千代に八千代に年を経てさざれ石の巖となりて苔のむす、その景観誠にめでたい石である。
全国至る所の石灰質の山に産する石であるが、特にこの石は国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので、その集結の過程状態はこの石を一見してよく知ることができる。
春日村は現在、合併により揖斐川町となっています。」
<全国にちらばる「さざれ石」>
岐阜県春日村で見つかった50トンものさざれ石は、岐阜県天然記念物(昭和52年11月)です。
旧春日村は、旧文部省に「さざれ石」を贈って以来、各方面に「さざれ石」を送りました。
また、発見者の遺族が神社に奉納したざざれ石があり、全国にちらばっています。
これまでに見た「さざれ石」
「文部科学省」(千代田区)
「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」(千代田区)
「靖国神社」 (千代田区)
「神田明神」 (千代田区)
「日枝神社」 (千代田区)
「乃木神社」 (港区)
「幸龍寺」 (世田谷区)
「明治神宮」 (渋谷区)
「サンシャインシティ」(豊島区)
「天祖神社」 (豊島区)
「玉前神社」 (千葉県一宮町)
虎の門三井ビルの虎の門交差点側の横にあります。近くには「新聞創刊の地」碑があります。
漢文石碑です。額題は「懐旧表情」。大正5(1916)年6月の建立です。
<江藤新平>
江藤新平は、明治5(1872)年、司法卿となり、司法制度整備や民法制定などに尽力しました。
明治7(1874)年に佐賀の乱を起こし処刑されます。明治22(1889)年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令により賊名を解かれます。
大正5(1916)年に贈正四位。
江藤新平肖像(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
国立印刷局が運営していた霞が関の官庁街にあった政府刊行物センターは平成25(2013)年3月末に閉店し、
全国官報販売協同組合により新たに政府刊行物センターが平成25(2013)年4月にオープンしています。
国立印刷局が運営していた時より売り場スペースがとても狭くなりましたが、民間が運営しているのでいたしかたないところでしょう。
購入したい本はすぐみつかりました。
「独立行政法人の事務・事業の見直しの基本方針」(平成22(2010)年12月7日:菅内閣閣議決定)に沿って、
政府刊行物センターは全国10店の全店が廃止されたのが経緯です。