Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 明治神宮/明治神宮外苑


○明治神宮 渋谷区代々木神園町1-1

 明治神宮は、渋沢栄一が奉賛会の副会長、理事や造営局の評議委員など中心となって関わり創建されました。
 明治神宮の森は150年先の完成を見た森造りが行われ、現在も未完成の過渡期の森です。

【西参道】
 代々木オリンピックセンターでの所用を終えて、西参道から参詣。

   

(明治神宮案内)
「明治神宮
祭神 明治天皇(第122代天皇)
   昭憲皇太后(明治天皇の皇后)
鎮座 大正9年11月1日(1920年)
例大祭 11月3日(明治天皇の誕生日)
由緒
 明治45年7月30日明治天皇が崩御になりますと、国民の間からこ神霊をおまつりして、ご神徳を永遠に敬いお慕したいとの熱い願いか沸き起りました。当神宮の造営にあたっては、全国各地よりの献木と青年団員の勤労奉仕がなされ、更には奉賛会を設立して外苑が奉献をみるなど、全国民挙げての創建となりました。
沿革
 創建当初の社殿をはじめ主要建物は、昭和20年4月の戦災により焼失しましたが、昭和33年11月、国内はもとより海外からも多額の浄財が寄せられ、現在の社殿が復興されました。
境内
 内苑(東京都渋谷区代々木神園町)約70万u
 外苑(東京都新宿区霞ヶ丘及び港区元赤坂)約30万u
神楽殿
 平成の御大典記念事業として造営されたもので、明治神宮崇敬会及び全国崇敬者よりの多大な奉賛により平成5年に竣工しました。神楽舞、舞楽を奏しての厳粛な祈願祭を随時奉仕しています。
宝物殿
 正倉院の校倉風大床造りの棟式を模した建物で、大正10年に竣功しました。殿内にはご着用装束、お馬車、日常ご使用になられた品々など、ご祭神縁の御物が展示されています。
御苑
 ご祭神縁の名苑で、特に天皇が皇后のために植えさせられた花菖蒲が咲き競う6月には、多くの拝観者で賑わいます。
外苑
 大正15年10月に奉献された外苑は、ご祭神のご事蹟が描かれた80面の大壁画を展示する明治聖徳記念絵画館を中心に、苑内には野球場、テニスコート、アイススケート場等を備え、スポーツの森として広く親しまれています。
明治記念館
 本館は明治憲法の草案が審議された建物で、昭和22年明治神宮の総合結婚式場として開館して以来、毎年多くの方々が慶びの日を迎えられます。」

   

「明治神宮境内案内図」

  

<西神門>

    

<社殿>

  

<東神門>

  

<南神門>

 原宿口の正門から南神門を経ての参拝が一般的です。

    

<明治神宮境内図>

   

<明治神宮北側の木立>

 全国から寄付された約10万本の献木により造りあげた「人工の森」。
 本多静六が中心となって設計した森です。いまだ完成していない過渡期の森です。

   

<太鼓橋>

 北池に架かる「太鼓橋」。その名前にしては、平坦な橋です。

    

<江戸・東京の農業>

 宝物殿の前に、JAの説明板「江戸・東京の農業」が設置されています。

(説明板)
「江戸・東京の農業 代々木野と周辺の村落
 ここ明治神宮の境内は、かつて代々木野といわれ武蔵野の一部で、草深き原野は四季折々の山野草が咲き競っていました。
 それまで、寒村であった江戸周辺は徳川家康が幕府(1603)を置いた事から、原野は拓かれ、あちこちに集落が形成されました。
 寛永年間(1624〜44)には諸大名の別邸や旗本の屋敷などが作られましたが、代々木野(神宮境内)には元熊本藩主、加藤忠廣の別邸が造営されました。
 境内周辺には原宿村・千駄ヶ谷村・代々木村・穏田村・上渋谷村などの集落があり、米、麦、蕎麦などのほか、ナス、ダイコン、ニンジンなど、江戸で不足する野菜類を主に生産し、神田や日本橋に出荷していました。
 1867年、江戸幕府が崩壊し、明治政府が誕生すると、かつての大名屋敷の多くは空き家となり、青山周辺は市街化が進んだのに比べ、原宿村など、周辺の村々は、明治中期の頃まで、田園の景観をとどめていました。
  平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行五十周年記念事業」

    

<宝物殿> 国重要文化財

    

(説明板)
「重要文化財 宝物殿
  平成二十三年(二○一一)六月二十日指定
 この宝物殿は、明治天皇・昭憲皇太后ゆかりの御物を収蔵・展示するための施設として明治神宮造営局の大江新太郎が設計を行い、大正十年(一九二一)に竣工しました。
 展示施設の中倉を中心として各建物を左右対称に配置した構成で、正倉院の校倉造りを模した校倉風大床造り等の独特の和風意匠でまとめられています。また、建物全体を鉄筋コンクリート造りとした和風意匠の建築物ではわが国最初期のものであり、建築技術史上においても重要なものです。
 また、神宮外苑の中心的存在である聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝えるために、国民からの寄付金によって、大正十五年(一九二六)に竣功した建造物であり、わが国最初期の美術館建築として高く評価されています。館内には、明治天皇・昭憲皇太后の御事績を描いた壁画八十面が展示されています。
 ともに平成二十三年六月二十日付で国の重要文化財に指定されました。」

   

(掲示)
「宝物殿で展示しておりました御祭神ゆかりの品々は、明治神宮ミュージアムに収蔵されましたが、宝物殿は春秋大祭期間中に期間を限定して公開しております。」とのこと。

  

<至誠館(武道場)>

  

(掲示)
「至誠館
 明治神宮武道場至誠館は、当神宮鎮座五十年祭を記念し多くの崇敬者の協賛により昭和四十八年十月に開設されました。(以下略)」

  

【芝生広場】

 宝物殿前の芝生広場に、「ざされ石」と「亀石」が置かれています。

<さざれ石>

 宝物殿前の国旗掲揚台の裏手に「さざれ石」が置かれています。
 昭和37(1962)年に、岐阜県旧春日村(現:揖斐川町)が明治神宮に奉納した1トンの「さざれ石」です。

     

(説明板)
「国家「君が代」に詠まれているさざれ石
 さざれ石は、大小の石灰岩の角礫が集まったもので、学名は「石灰質角礫岩」 と言います。もともと小さな石、「細石」の意味ですが、長い年月をかけて雨水などに 溶け出した石灰分が沈着し、小石を凝結して少しずつ大きくなって出来ます。
やがてそれが国家、
 君が代は千代に八千代にさざれ石の
   巌となりて苔のむすまで
に詠まれているような立派なさざれ石となって地上に現れるのです。
この石は、国歌の由来となったといわれるさざれ石を産出した、岐阜県揖斐郡春日村の山中で採取され、奉納されたものです。
  昭和三十七年十月二十六日
  岐阜県揖斐郡春日村より奉納」

  

<亀石>

 北池の畔に、亀に似た形をしていることから亀石とよばれる石があります。

    


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