○ 御鷹の松碑
○ 権田原交差点
○ 聖徳記念絵画館
○ 樺太国境画定標石
三代将軍徳川家光が鷹狩りの際に寂光寺で休息していたところ、いなくなっていた愛鷹「遊女」が飛来し、境内前庭の松にとまったので、
家光はこれを大いに喜び、以前は「霞の松」と呼ばれていた松を「遊女の松」と名付けたと伝えられます。
後に「御鷹の松」とも呼ばれました。
(説明板)
「お鷹の松
大正7年(一九一八)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川三代将軍家光(一六○三〜一六五一)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある二代目の松(樹齢推定二○○年 高さ四メートル)は昭和三十九年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。
昭和五十四年十月 明治神宮外苑」
<題字>
題字は渋沢栄一の揮毫です。
「明治神宮外苑」は渋沢栄一たちを中心に、民間や市民の手によって作られました。
(題字)
「御鷹乃松
澁澤榮一書 時年八十又七」
(碑文)
「此の松昔は霞乃松とて名高く徳川三代将軍放鷹のをり樹下に憩ひて鷹の名をそのまゝ遊女の松と呼ばれしが又御鷹の松とも稍するに至れり當時の古松は枯れてこれは二代目なりと云ふ元は北方五十間の地境妙寺境内に在りしを大正八年此処に移植したり
大正十五年七月 明治神宮奉賛會」
「江戸名所図会 千駄谷 大神宮 寂光寺」
中央上に大神宮、左中央に別当の寂光寺が描かれています。
山門を入った左手に、三代将軍家光の愛鷹「遊女」がとまった「遊女松」の注記があります。
大神宮の別当であった日蓮宗寂光寺は、日蓮宗不受不施派への弾圧により、元禄12(1699)年に天台宗に改め、
天保5(1835)年には寺号も境妙寺と改めました。
明治神宮外苑造営に伴い、大正4(1915)年、上高田の地へ移転しています。
日露戦争終結後、樺太島の北緯50度の日露国境に、日露の紋章を刻した「天測境界標」と呼ぶ国境標石4基と、小標石17基が建てられました。
ここにある「天測境界標」は、樺太庁が明治神宮外苑に寄贈した第四号のレプリカです。
<標柱>
「樺太島日露國境天測標」
<天測境界標>
一番上には「模造」とあります。
(正面)
「模造
大日本帝國
境界」
(側面)
「天第四號
明治三十九年」
(説明板)
「樺太国境画定標石
時 明治三十九年六月〜四十年十月
所 樺太日露境界
明治三十七、八年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯五十度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治四十年九月四基の天測標と十七基の小標石を建てて境界を確定しました。
この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。
又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
昭和五十四年六月二日 明治神宮外苑」
「樺太に於ける日露の國境」(実写奠都五十年史 大正6年)
解説「上は國境の標石にして右は南面左北面のところ 下は境界をつくる為日本委員の伐木作業なり」