Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 千鳥ケ淵

  ○ 千鳥ヶ淵(国特別史跡)
  ○ 千鳥ヶ淵戦没者墓苑
  ○ 東郷元帥記念公園


千鳥ヶ淵(国特別史跡) 千代田区三番町2〜九段南二丁目
 
 千鳥ヶ淵は江戸開府当時、飲料水を確保するためのダム(貯水地)として機能していました。
 麹町から流れる小川をせき止めることで水源を確保し、本丸と西の丸の間を通って日比谷入江に流れ込んでいたと言われています。
 現在の千鳥ヶ淵と半蔵濠はもともと一つで、明治34(1901)年に代官町通りの道路工事に伴い分断され、今の形となりました。
 千鳥ヶ淵に沿って、700メートルに及ぶ「千鳥ヶ淵緑道」が整備されています。

    

<歴史と文化の散歩道「三宅坂・千鳥ケ淵散歩」> 千代田区三番町2

 千鳥ケ淵緑道前に設置されている「歴史と文化の散歩道 三宅坂・千鳥ケ淵散歩」です。

   

(説明板)
「三宅坂・千鳥ケ淵散歩は、桜田門から靖国神社へと至る約2.3kmのみちのりです。皇居内堀の桜田濠を右に眺めながら、広くゆったりした三宅坂を上がり、桜の名所である半蔵濠、千鳥ケ淵へと水辺をめぐる散歩道です。」

   

<展望台>

  

(説明板)
「千鳥ヶ淵
 千鳥ヶ淵は、旧江戸城の築城にあわせて、内濠の一部として造られました。現在の千鳥ヶ淵と半蔵濠はもともと一つで、明治34年(1901)に代官町通りの道路工事にともない分断され、今の形となりました。千鳥ヶ淵の名の由来は、V字型の濠が千鳥に似ているからといわれています。
 千鳥ヶ淵は、旧江戸城の一部として、昭和38年(1963)に文化財保護法による特別史跡「江戸城跡」に指定されています。
 千鳥ヶ淵は、東京屈指の桜の名所とされ、皇居を囲む内濠の中で、もっとも親しまれているお濠です。
 千鳥ヶ淵緑道の桜並木は、昭和30年代にソメイヨシノを植栽したことから現在に至ります。開花時期(見ごろ)は、3月下旬から4月上旬ごろになり、毎年多くの花見脚が訪れます。」

   

<腰巻石垣>

 「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にも、江戸城塁跡の石垣の説明板が設けられています。
 
(説明板)
「腰巻石垣
 千鳥ヶ淵緑道から、武道館の方向を見たとき、まず手前に、お濠と城塁が目に映ります。この城塁は上下にある石垣の中間に、四季折々の花と芝生によって彩られた、土居、つまり土手が狭まるという、上・中・下三段の珍しい構造になっています。
 一番上の石垣は、あたかも鉢巻をしているかのような姿から、「鉢巻石垣」と呼ばれ、一番下のお濠に接する石垣は、あまり、品のよい言い方ではありませんが、「腰巻石垣」と呼ばれております。こうした造りは、他に半蔵壕、桜田壕、牛ヶ淵などでも見られ、さらには遠く、彦根城の一部の石垣にも同様なものがあるそうです。
 千鳥ヶ淵の腰巻石垣は、石の形、表面、大きさをていねいに組み合わせた、精巧な造りで、石と石との間は、正面から見て、ほとんどすき間がないように築かれています。また、水面の下には、水の上と同じ造りが見られ、しかもその下には、根石といわれる大きな石が置かれるなど、極めて頑丈な造りとなっています。
 こうした、伝統のある、秘伝ともいえる優れた技術を持つ、専門的な職人たちの指導の下で、合理的にかつ厳格に築かれたからこそ、この城塁が、地震王国日本において、今日まで数百年も耐えてきたのだといえるのではないでしょうか。
 ちなみに、真ん中の芝土手は、「腹巻土居」とも言われているそうで、ここ北の丸の、三段構造の城塁は上から、鉢巻、腹巻、そして腰巻と、実にわかりやすい言い方で伝えられ親しまれてきたのです。」

  

 千代田区の江戸時代と現在

  


千鳥ヶ淵戦没者墓苑 千代田区三番町2

<千鳥ヶ淵戦没者墓苑>

(説明板)
「ここ千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、先の大戦において海外で亡くなられた戦没者の御遺骨を収めるため、昭和34年3月、国により建設された「無名戦没者の墓」です。
 ここに納められている御遺骨は、昭和28年以降政府派遣団が収集したもの及び戦後海外から帰還した部隊や個人により持ち帰られたもので、軍人軍属のみならず、海外において犠牲となられた一般邦人も含まれており、いずれも遺族に引き渡すことのできないものです。

納骨室について
御遺骨は、六角堂の中央に置かれた陶棺の下の地下納骨室と平成3年3月、平成12年3月及び平成25年3月に増設された六角堂奥正面の地下納骨室に安置されております。

陶棺について
陶棺は、型式をわが国古代豪族の棺に模したもので、主要戦域から収集した小石を材料とし、1,700度の高熱で処理した、重量5トンの世界最大級の陶製品です。この中に、昭和天皇御下賜の金銅製茶壺形の納骨壺があり、戦没者を代表する御遺骨が納められています。
  厚生労働省・環境省」

   

<墓苑の森林>

(説明板)
「千鳥ヶ淵戦没者墓苑の森林
千鳥ヶ淵戦没者墓苑の森林は、近代造園学の父とよばれた田村剛博士の設計により、都心における洗心・安息を旨とした単純・質素を理念とし、昭和34年(1959)に新たに造営されたものです。
当時は、約5,000坪(約1.6ha)の敷地に、シイやケヤキなどの高木13種、ツバキなどの灌木11種の合計1,800本が植えられましたが、その後の寄進や植樹、実生による自然繁殖などにより、現在では約4,000本に達しています。
植樹後約半世紀を経ることで、主に武蔵野の樹木を用いた植栽当初の樹木も大きく育ち、常緑樹を中心とした静寂、荘厳な森を形成しています。なかには、幹周りが二人がかりで手がつながるほどに大きくなった樹木(幹周250cm前後)も数多くみられます。

武蔵野の林とは、太古の昔には、関東平野の沿岸部の台地を広く被っていたカシとシイの混生した照葉樹林(葉がつやつやした常緑樹の林)で、林床にはヤブツバキやヒサカキ、アオキなどが茂った鬱蒼とした森林であったと考えられています。
しかし、武蔵野の開墾が進み、里山として利用されることで成立したケヤキ、コナラ、クヌギ等の落葉樹を主体としたいわゆる雑木林もまた、武蔵野の森の代名詞となっています。

苑内では、こうした武蔵野を象徴するケヤキやシイが大きく成長して、聖域の静寂、荘厳さを高めると共に、野鳥をはじめとする動植物の豊かな生息環境として、貴重な緑となっています。
また、千鳥ヶ淵の森林は、皇居の森林と一体となり都市のヒートアイランド防止の効果や、二酸化炭素吸収による地球温暖化の防止など、高度に市街化した都心にあって、都市の緑として大きな役割をあわせ持っています。」

   

<さざれ石>

 重量約2トンのさざれ石です。
 昭和56(1981)年6月に春日村の小林文治氏から戦没者墓苑に寄贈されたものです。

 「岐阜県文化財 さざれ石
   学名 石灰質角礫岩
   産地 岐阜県揖斐郡春日村」

   

<前屋と六角堂>

   

<御製の碑>

     


東郷元帥記念公園 千代田区三番町18

 東郷元帥記念公園は、東郷平八郎連合艦隊司令長官の私邸を東郷元帥記念会から寄付を受け、公園として開園しました。
 現在、全面的な改修工事が行われており、2004年4月1日から下段部広場の利用が再開されています。
 上段・中断部は引き続き改修工事中です。

   

<二宮金次郎像>

 九段小学校前の二宮金次郎像です。

  

<町名由来「三番町」>

 公園内に設置されていた、千代田区町名由来板「三番町」を見に行きましたが、見当たりませんでした。
 千代田区HPより引用します。

「千代田区町名由来板 三番町
 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
 寛政五年(1793年)、塙保己一が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた「群書類従」という書物の編纂で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂を開きました。さらに明治十年(1877年)には、漢学者三島中洲が二松学舎(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
 明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵・子爵などの華族や政府役人の邸宅地となりました。
 日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎も、明治十四年(1881年)から昭和九年(1934年)までの五十三年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥記念公園になり、四番町との境の坂は「東郷坂」と命名されています。
 また、「墨東綺譚(注意1)」で有名な永井荷風や、「武蔵野」の国木田独歩などの文学者も三番町の住人でした。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹も一時この地に住み、雑誌「明星」を創刊しました。
 錚々たる人物の顔ぶれがそろう三番町です。国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。
注意1:墨東綺譚の「墨」の字は、本来はさんずいに墨という字です。」


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