Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 西巣鴨 盛雲寺

  〇 盛雲寺
  〇 新門辰五郎
  〇 江戸の火消


盛雲寺 豊島区西巣鴨4-8-40

 三宝山歓喜院盛雲寺と号します。
 元和5(1620)年に下谷に開山、明治41(1908)年に下谷西蓮寺と合併し、同年西巣鴨(現在地)に移転しました。

「江戸切絵図」

 広大な「広徳寺」の東に「西蓮寺」が描かれています。
 「西蓮寺」の西隣は「清雲寺」とあり、「盛雲寺」でしょうか。
 「西蓮寺」の東に、下谷山崎町(新門辰五郎の生誕地)があります。

   

<すがも史跡まっぷ>

 新門辰五郎の墓が紹介されています。

  

<地蔵二基>

 門をくぐると右手に地蔵二基。

    

<階段をくぐる>

 六地蔵と石燈籠の間を階段でくぐると墓地に出ます。

    

<新門辰五郎の墓>

 墓地に出ると、すぐ右手に「新門辰五郎の墓」はあります。

   

 中央に家紋と「先祖代々霊位」とあり、
 右下に「俗名 辰五郎 ぬい」とあります。後妻の「縫」と思われます。
 台座は横書きで「新門氏」とあります。

    

 岩組みには石銘版がはめられています。
 「新門若者中」6人の名前と石工の名前が刻まれています。

  

(裏面)
 元治元(1864)年に建立。新門辰五郎が徳川慶喜とともに上洛した時です。
 「元治元年甲子五月建之」
 「を組」と刻まれています。

    

「施主」
 「大正元年九月拾九日下谷區稲荷町西蓮寺ヨリ移墓ノ際建之」とあります。
 下谷の西蓮寺が盛雲寺と明治41(1908)年に合併、西巣鴨へ移転後、大正元(1912)年に墓が移されています。
 墓碑史蹟研究によると、施主のうち、浅草田島町の新門金太郎が町田家の当時の当主です。新門辰五郎の孫です。
 2代目(養子)は放蕩で評判が悪く先代と比べようがないと明治の文献にありました。

   

「中村屋」
 中村は、新門辰五郎の生家です。

  

<百回忌の碑>

 百回忌の碑が昭和49(1974)年9月19日に建てられています。

 「徳広院正誉真覚居士 新門辰五郎 壱百回忌記念」
 「昭和四十九年九月十九日 後裔 杉林一郎 建之」
 (故・杉林一郎氏は、新門株式会社のHPによると新門六代目とのことです。)

  

庚申塔> 豊島区文化財

 新門辰五郎墓の裏に、貞享4(1687)年銘の庚申塔があります。

    

 正面中央「奉修庚申待祈願成就也」。
 三猿が刻まれています。
   

<観音菩薩>
 「皇紀2600年記念 昭和15年建立」

   


新門辰五郎
  寛政12(1800)年(寛政4年や寛政9年の説あり)〜明治8(1875)年9月19日)

 新門辰五郎は、煙管職人(飾職人とも)の中村金八の子として生まれました。
 江戸の町火消、浅草十番組「を組」の組頭であり、また輪王寺宮の衛士で輪王寺宮が隠棲した浅草寺伝法院の新門の警護をしていた町田仁右衛門の養子となります。
 町田仁右衛門の娘「錦」を妻とし、錦に先立たれ、後妻に「縫」を迎えています。
 明治8(1875)年9月19日に浅草馬道の自宅で亡くなり、下谷の西蓮寺と善養寺とに分骨されました。
 なお、西蓮寺は盛雲寺に合併して豊島区西巣鴨に移転、善養寺も西巣鴨に移転しています。
 娘のお芳は徳川慶喜の妾といわれていますが、明治時代の文献に「お芳」は見当たりません。

 「珍らしい写真」(永見徳太郎編 粋古堂 昭和7年)に掲載の「新門辰五郎」の肖像です。

  

(参考)
 「被官稲荷神社」 (新門辰五郎が勧進)
 「新門辰五郎碑」 (円通寺 彰義隊の遺体を埋葬)
 「力石・熊遊の碑」(浅草新奥山 新門辰五郎らが建碑)
 「上野東照宮」  (手水舎を新門辰五郎が奉納)
 「新門辰五郎の墓」(盛雲寺)
 「町田家の墓」  (善養寺 新門辰五郎を分骨)

〇新門飯店 北区滝野川3-44-5

 新門辰五郎のご子孫が営んでおられる中華料理店「新門飯店」です。
 「滝野川八幡神社」に由来する滝野川八幡通りにあります。盛雲寺から徒歩750mです。

      


江戸の火消

 江戸の町には「大名火消」(大名家による火消)、「定火消」(旗本による火消)、「町火消」という火消の組織がありました。
 町火消は享保3(1718)年に町奉行大岡忠相によって組織された町人による火消です。
 享保5(1720)年「いろは48組」及び本所・深川を担当する「16組」が誕生しました。
 各組の目印として、各組によって纏と幟が定められていました。

「江戸の花名勝会 を 十番組 中村歌右衛門/下谷広徳寺/下谷」(三代豊国 国立国会図書館)
 「江戸の華名勝会」は、江戸町火消「いろは四十八組」の各組の名所旧跡を紹介しています。
 「を組」(新門辰五郎が有名)には、「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれるほど広大な敷地を擁していた「下谷広徳寺」が描かれています。

   

「町火消纒装束の図」(東京都立図書館蔵)
 町火消の纒と装束が絵巻で掲載されています。

 「を組」「人員二百八十九人」
  

「新板纏つくし」(落合芳幾 安政3年 国立国会図書館蔵)
 いろは組とその纏が描かれています。

 「を組」
   

〇破壊消防と龍吐水

 江戸の町火消では、火災の延焼阻止に家々を破壊するいわゆる破壊消防がもっぱら用いられました。
 また、 龍吐水(りゅうどすい)と呼ばれる木製の腕用ポンプが開発され、町火消組で使用されていました。
 放水する様子が、龍が水を吐くように見えたことから名付けられたといわれています。
 放水距離が短く水量も少なく、火災を消火できるほどではありませんでした。
 板橋区立郷土資料館の解説では、龍吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものと言いきっています。

(参考)
 石神井神社(越谷市西新井)の龍吐水(こちらで記載

  

(参考)
 吉原公園と京町公園(台東区千束)に「動力龍吐水格納庫」が置かれています。

   

(参考)
 ポンプ車及び輅車(らくしゃ) 板橋区立郷土資料館(こちらで記載
(説明板)
「ポンプ車及び輅車
 明治3年(1870)にイギリスから輸入されたのが、この形式のポンプ車の始まりである。同17年には警視庁で製作され、実際に配備された。こうして江戸時代以来の「竜吐水」は廃止された。
 竜吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものであり、直接消火に役立つものではなかったが、ポンプ車はこの意味でも画期的なものだった。
 輅車は普通、消防自動車に詰まれ、火災現場に到着すると降ろし、これを引いて走りながらホースを伸ばすものである。」

   


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