Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 浅草寺

  ○ 新奥山


○奥山(新奥山) 台東区浅草2-7-31

    

(説明板)
「奥山(新奥山)
 江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸の盛り場として大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう、著名な場所であった。
 奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと思われる。
 明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。
 現在は、この地を「新奥山」として整備し、諸碑が建立されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。
  金龍山 浅草寺」

  
 

<奥山>

 西参道の終端に説明板があります。

(説明板)
「浅草公園史蹟めぐり 第四番札所
 奥山
 奥山の地名には諸説があり、定かではない。享保十八年(一七三三)浅草寺境内のこの地に千本桜が植え継がれた頃より盛場となって栄えはじめ、江戸時代から明治初期にかけ庶民の遊楽で賑わいを呈した。奥山には参詣人の憩の掛茶屋などと並び、既に貞享(一六八四)には宮地芝居が興行されていたという、宝歴(一七五一)では深井志道軒の講談が名高く、下って曲独楽の松井源水と居合抜の長井兵助が人気を集め、異国の珍島奇獣が渡来すれば、いち早く奥山の見世物になったと、安本亀八が生人形と書き技を競い、猿芝居、犬芸、軽業、手妻(奇術)をはじめ、時にはヨーロッパのサーカスの小屋がかかったこともある。矢場女(揚弓場)の嬌声、水茶屋や揚子見世の看板娘は春信、歌麿などの浮世絵になって評判となった。奥山の取締は江戸町火消の頭で有名な新門辰五郎であった。
 明治十七年、浅草公園埋立造成地の第六区に奥山第五区の諸出店、諸興行小屋が移転されることになって、東京一の大衆娯楽の集団地「六区興行街」が誕生するに及んだ。奥山の名は消えても盛場浅草の歴史、いな日本の民俗風物史の変遷を知る上に極めて貴重である。
  昭和五十二年十月  浅草公園町会建札」

    
 

<三匠句碑>

 人丸堂から明治27(1894)年に移しています。
 宗因、芭蕉、其角の句が刻まれています。 

(説明板)
「三匠句碑  台東区浅草二丁目三番 浅草寺
 ながむとて花にもいたし頸の骨 宗因
 花の雲鐘は上野か浅草か    芭蕉
 ゆく水や何にとどまるのりの味 其角
 江戸時代前期を代表する俳人三匠の句が刻まれている。
 西山宗因 慶長十年(一六○五)肥後(熊本県)の生まれ。後、大阪に住み談林の俳風を開く。この句は「新古今集」にある西行法師の和歌「ながむとて花にもいたく・・・」からとった句。天和二年(一六八二)没。
 松尾芭蕉 正保元年(一六四四)伊賀(三重県)の生まれ。数次の漂泊の旅に出て作品集や紀行文を残し、『おくのほそ道』は世に知られている。蕉風俳諧を樹立。元禄七年(一六九四)大坂で没。
 榎本其角 寛文元年(一六六一)江戸に生まれる。蕉門十哲の一人。のち蕉風を脱し、その一派の傾向は、洒脱風などともいわれた。宝永四年(一七○七)の没。 
 碑は文化六年(一八○九)の建立。台石には明治二十七年(一八九四)春の移築の由来が記されている。
  平成八年三月  台東区教育委員会」

     
 

<正岡子規句碑>

 こちらで記載
 

<狂歌三十六歌仙碑(亀趺)>

 狂歌三十六歌仙碑は、文化14(1817)年の建立、碑を支えるのは、亀趺です。

     
 

 狂歌三十六歌仙碑の左右に、2人の和算学者の顕彰碑があります。

<五瀬植松先生明数碑>

 五瀬氏、後に植松家を継いた和算学者の顕彰碑で、安政5(1858)年の建立。

   
 

<会田先生算子塚銘>

 和算学者の會田安明の顕彰碑。
 文政2(1819)年に亀田鵬斎や門人によって立てられました。撰文は亀田鵬斎です。

   
 

<戸田茂睡墓> 東京都旧跡

 墓はこちらですが、句碑が東陽寺(こちらで記載)と待乳山聖天(こちらで記載)にあります。

(説明板)
「東京都指定旧跡 戸田茂睡墓
   所在地 台東区浅草二の三の一 浅草寺内
   標識 大正八年一○月
   指定 昭和三○年三月二十八日 
 戸田茂睡(一六二九ー一七○六)は元禄期の歌人です。渡辺監物忠の六男として駿府城内で生まれ、父の死後伯父戸田政次の養子になります。名は馮、後に恭光、通称は茂右衛門、茂睡のほか露寒軒などと号しました。一時岡崎藩本多家に仕えましたが出家し、浅草寺近くに居を構えました。「梨本集」「紫の一本」「若葉」などを著し、形骸化した伝統歌学の積極的批判者としての文学的意義が認められています。
 自然石の土台、宝篋印塔の基壇、五輪塔の順に配されており、茂睡自身が生前に自らの後世を供養した逆修塔です。
  平成二四年三月 建設  東京都教育委員会」

    
 

<瓜生岩子女子の銅像>

(説明板)
「瓜生岩子女子の銅像  台東区浅草二丁目七番
 岩子は通称。正しくは“岩”という。文政十二年(一八二九)二月十五日、岩代耶麻郡(現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生れたが、九歳の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。十四歳の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。十七歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治二十二年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。
 明治三十年四月十九日、福島で没す。享年六十九。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同三十四年四月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。
  平成八年七月  台東区教育委員会」

    
 

「故瓜生岩子之銅像」(人見幾三郎 諏訪堂 明43.5)

 造立されて間もない頃の銅像です。

  
 

<高橋石斎碑>

 「故瓜生岩子之銅像」の2つ左隣。
 明治12(1879)年1月建碑。

   
 

<一葉観音像碑>

 「故瓜生岩子之銅像」の左にある、一葉観音が線刻されている碑です。
 文政9(1826)年の建碑。

  
 

<力石>

 力石が複数あります。

(説明板)
「力石
 力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
 正面の「力石・熊遊の碑」は、明治七年(一八七四)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約三七五キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。
  金龍山 浅草寺」

     

     
 

<庚申塔>

 力石の右にはおむすび形の庚申塔があります。

  
 

<半七塚碑と青蛙神像>

  

(説明板)
「青蛙神像
 半七塚碑に対面するように、一匹の丸々としたカエルがいる。
 よく見ると変わった姿をしており、前足は二本、後足の代わりに尻尾の足が一本伸びている。これは中国の霊獣「青蛙神」であり、福をもたらす存在として特に道教で信仰された。『青蛙堂鬼談』シリーズがあるように、綺堂は青蛙神に大きな関心を寄せていた。
 この像は半七塚を静かに見守っているようである。
  金龍山 浅草寺」

     
 

<櫻痴居士福地君紀功碑>

 入口にあるおおきな福地源一郎(福地桜痴)(『東京日日新聞』を主宰)の顕彰碑です。
 山縣有朋の揮毫です。大正2(1913)年に碑の彫工を終えましたが、故あって天女池に建てることができず、
 大正8(1919)年に浅草公園に建てられました(碑文より)。

 渋沢栄一が除幕式に出席しています。
 「大正8年11月28日(1919年)
 是日、浅草公園ニ於テ、福地桜痴居士紀功碑ノ除幕式挙行セラル。栄一出席シテ追悼演説ヲナス。」

   
 

<瀧沢世古先生之碑>

 江戸時代の書家、瀧沢世古の碑。弘化2(1845)年門人が建立。

   
 

<浅草観光纉緒の碑>

  
 

<喜劇人の碑>

  
 

<石井漠「山を登る」記念碑>

  
 

<映画弁士塚>

  
 

曽我廼家五九郎顕彰碑>

 左に久保田万太郎の句「浅草の茶の木ばたけの雪解かな」が刻まれています。

  
 

「浅草金竜山奥山花屋敷」(広重)

 桜の名所でした。

   
 

「浅草寺奥山群集の図」(一勇斎国芳)

 現在は浅草神社に移設されている「花塚」の碑が見えます。

  
 

「浅草奥山桜花盛之図」(梅蝶楼国貞 安政4)

 「正観世音菩薩碑」が描かれています。現在は浅草寺参道脇に建っています。

  


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