○ 待乳山聖天
○ 待乳山聖天庭園
○ 待乳山聖天公園
○ 江戸名所図会と錦絵
とても大きな案内板があります。
項目のみ抜粋します。
「@待乳山聖天
A山谷堀公園
B池波正太郎生誕地碑
C葛飾北斎終焉地
D金竜山下瓦町
E猿若三座跡地」
<入口>
正面の入口は2ヶ所に分かれています。
左から入ると、トーキー渡来碑が、右から入ると庚申塔が建っています。
江戸名所図会の挿絵によると、左からは、裏門口のようです。
<庚申塔群>
左から、寛文9(1669)年、天和2年(1682)、不詳、寛文12(1672)年、元禄13(1700)年、宝永元(1704)年、延宝7(1679)年。
<待乳山聖天>
(説明板)
「待乳山聖天
台東区浅草七丁目四番一号 本龍院
待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(六〇一)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
哀れとは夕越えて行く人も見よ
待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根際には多くの信者で賑う。
なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。
平成十一年三月 台東区教育委員会」
<欲油供祈祷の勧め>
<トーキー渡来の碑>
アメリカの発明家リー・デ・フォレスト博士の顕彰碑です。
博士は大正12(1923)年にトーキー(発声映画)を発明しました。
「昭和三十一年五月吉日」に、皆川芳造の建碑です。
<金龍山大聖歓喜廟碑>
文化元(1804)年に建てられた「金龍山大聖歓喜廟碑」です。
漢文で綴られおり、聖天宮創設のこと、天安元(857)年に慈覚大師が逗留し十一面観音像彫り安置したこと、
歓喜天の功徳のことなどが記されています。
<出世観音像>
参道右手にあります。
(説明板)
「出世観音像
昭和十一年境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(一、六〇〇年頃)の作と鑑定された学業芸道に志す者の尊信をあつめている」
<歓喜地蔵尊>
参道左手にあります。
(説明板)
「歓喜地蔵尊
数度の火災に遭いその尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている」
<額堂>
御供の大根を売っています。
以前は200円、今回は250円。市場の動静によって上下し、400円の時もあったようです。
<水屋>
<築地塀>
(説明板)
「築地塀
江戸時代の名残りをとどめる唯一のもので貴重な文化財である。全長二十五間(四五.五m)
広重の錦絵にも描かれている」
<心願成就>
浴油祈祷により心願成就した方の寄進碑です。
文政3(1820)年庚辰秋九月、新吉原神楽講中が奉献。
葛飾北斎「絵本隅田川両岸一覧 吉原の終年」に描かれている狐の神楽のことでしょうか。
奉献の文化3年は、北斎は存命で活躍中です。
<神楽殿>
扁額は「舞殿」です。
<水行場>
待乳山聖天は、戦災で灰燼に帰していますが、立派な水行場。戦後も水行が行われたのでしょうか。
<香炉>
香炉は巾着をかたどっています。
<本堂>
大根と巾着がいたるところで見られます。
【境内】
本堂から左回りでめぐります。
<銅製宝篋印塔>
天明元(1782)年に奉納された笠を持つ「銅造り宝筐印塔」です。
(説明板)
「銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
台東区浅草七丁目四番一号 本龍寺
宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(一七八一)に鋳物師西村和泉守が製作し、蔵前の札差等十六名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、十一代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、特に区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
平成十四年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
平成十九年三月 台東区教育委員会」
<稲荷尊>
境内奥左手に「稲荷尊」。
山谷堀方面がどうにか見えます。
待乳山便りによると、道灌稲荷跡碑の除幕式が2017年9月3日に行われています。
(説明板)
「道灌稲荷跡
かつて当山境内には、太田道灌勧請の「道灌稲荷」が祀られていた。
文政八年(一八二五)、本龍院より江戸幕府に提出された『寺社書上』に、「一、稲荷社、道灌稲荷と唱候、四尺一間」と見て、また、かつて当町内の木戸には「道灌稲荷の守護」の札が貼られ、地域の人々より尊崇を受けていた由が知れる。
人望篤く、文武両道の部将として名を馳せていた太田道灌(一四三に?八六)は、文明八年(一四七六)、鎌倉の詩僧を招き、隅田川に船を浮かべて詩歌管弦の宴を開いている。自らの稲荷尊信仰と景勝の待乳山に浅からぬ因縁を窺うことができる。」
<百度石>
百度石が本堂の裏に2基あります。
ひとつは平成22(2010)年11月と新しいです。
<糸塚>
三味線の糸の「糸塚」です。
(説明板)
「糸塚
十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立
この糸塚は元治元年十一世杵屋六左衛門が父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為建立せるものにして
十世六左衛門 三世勘五郎共に長唄三絃の名人と云われた人である
昭和六十三年四月 六世杵屋勘五郎記」
<戸田茂睡歌碑>
江戸最古の歌碑と称された「戸田茂睡歌碑」は、戦火に遭い昭和30年拓本をもとに再建されました。
戸田茂睡歌碑
「哀れとは夕越えて行く人も見よ待乳の山に残す言の葉」
(説明板)
「戸田茂睡歌碑
茂睡は元禄の頃活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた、江戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭い昭和三十年拓本をもとに再建された」
修復工事を経て、開放されています。
「天狗坂 開放いたしました。ご自由にお通りください。」
天狗坂が描かれている「東都名所 真土山之図」(広重)掲示。
天狗坂説明板に久保田万太郎の句を掲示。
(説明板)
「天狗坂
昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を下りたところに竹屋の渡しがあった
天狗坂 夕木枯の おもいでに 久保田万太郎」
「東京風景 六 待乳山から隅田川」(大正5年(1916)5月 織田一磨 画)
震災前の東京を記録した石版画です。
(説明板)
「古来、待乳山は聖天信仰の聖地としてはもちろん、風光明媚な名所としても、つとに有名であった。
詩歌にも多く詠まれ、江戸期から大正期の浮世絵にも多く描かれた。
「江戸名所図会」には、この東側を望む山上から、近くは葛飾の村落、遠くは国府台の木々の緑が一望できたとある。
奉納 朝まいり会
発会七十周年記念
令和二年」
<龍の水盤>
天狗坂を上がった境内には、「龍の水盤」があります。
○天狗坂下
坂の途中で立ち止まらないようお願い致します。
<狛犬>
石段下に、一対の狛犬があります。
<常夜燈>
<浪曲相輪塔>
昭和18(1943)年、浪曲協会の建立です。
<さくらレール>
駐車場と本堂を結ぶモノレール。途中に寺務所駅があります。
<天狗坂口社号標>
天狗坂下は駐車場で、駐車場入り口に社号標がありあす。
道路反対側の先は、竹屋の渡し跡碑があり、その先、隅田川に面して東京都下水道局の山谷堀水門です。