○ 五色桜 (荒川堤)
○ 五色堤公園 (江北)
○ 江北橋の五色桜(江北)
○ 五色桜大橋 (江北)
○ 名勝荒川堤櫻 (鹿浜)
○ 足立区都市農業公園(鹿浜)
○ 荒川リバーフロント(新田) 別頁
里帰り桜 別頁
○ レーガン桜 (舎人公園)
○ 南宮城公園 (宮城)
○ 元宿神社前 (千住元町)
○ イトー児童遊園(千住中居町)
ハナミズキ 別頁
○ 日比谷公園
○ 尾崎メモリアルホール/前庭(永田町)
○ 数寄屋橋公園 (銀座)
○ 中央区明石町 (明石町)
<熊谷堤>
埼玉県熊谷市から千住にいたる延長約60kmの荒川の堤防は、熊谷堤といわれていました。
荒川は、「荒ぶる川」から名付けられたように、洪水による災害が過去幾度となく発生しました。
<荒川堤の補修と桜の植樹>
明治18(1885)年にも大洪水が発生し、川口から西新井橋付近の熊谷堤も甚大な被害を受けました。
熊谷堤の道は、デコボコで歩けるような状態ではありませんでした。
明治18(1885)年、沼田村の戸長、清水謙吾氏は、堤の補修工事とともに桜の植栽を提案し、
荒川堤の補修と桜の植樹は明治19(1886)年に完成しました。
78品種、3225本の桜が植栽され、桜が成長するにつれ、江北の荒川堤は花見の名所となりました。
荒川堤の桜は、里桜の様々な色合いを楽しむことができ、「荒川の五色桜」とも呼ばれました。
大正13(1924)年、名勝(史蹟名勝天然紀念物保存法)に指定されました。
昭和20年代に姿を消しました。
<桜の寄贈と返礼のハナミズキ>
明治42(1909)年、東京市は、桜2000本をワシントンDCに寄贈しましたが病害虫のため、焼却処分にされました。
明治45(1912)年、荒川の五色桜を穂木として接木された桜苗がアメリカに寄贈されました。
大正4(1915)年、アメリカから「返礼のハナミズキ」が贈られました。
<里帰り桜>
昭和27(1952)年、8種55本の桜の苗木の里帰りが行われましたが成功しませんでした。
高速道路工事のため、その桜は大部分が五色堤公園に移植されました。
<第2回里帰り桜>
昭和56(1981)年、再度里帰り桜が企画され、33品種3,000本の「桜の里帰り」が行われました。
「桜の里帰り」の一環として、ナンシー・レーガン米国大統領夫人から贈られた「レーガン桜」も都立舎人公園に植えられました。
※「日米さくら交流のふるさと
荒川堤の桜」(日米さくら交流100周年記念事業実行委員会)を参照しました。
熊谷堤と荒川堤の関係と範囲が判然としません。
五色堤公園に「栽桜記碑」が移設されています。
<五色堤公園の由来>
「五色堤公園の由来」碑があります。
(碑文)
「五色堤公園の由来
明治時代の末頃、このあたりの土手の桜は「荒川の五色桜」と呼ばれ、世界的に有名な桜の名所でした。ワシントンのポトマック公園の桜も、明治四十五年に当時の東京市長尾崎行雄が、江北の桜を贈ったものです。
その後、この五色桜は土手の改修工事などで伐られたりして衰え始め、終戦後の昭和二十二年頃には全滅してしまいました。
足立区では昭和二十七年、ワシントンからもらった桜を中心に復活をはかりましたが、障害が多くあまり成功しませんでした。今般の高速道路工事のため、その桜は大部分が当公園に移植されました。
公園名は荒川堤の五色桜にちなみ「五色堤」と名付け、区では昭和五十七年、区政五十周年を記念して第二回目の里帰りをした桜も、この公園に植えることにしました。
どうか皆さんこの歴史ある桜を愛し、大切に育ててください。
昭和五十六年三月 東京都足立区」
<栽桜記碑>
桜の提唱者で初代江北村の村長、清水謙吾翁の栽桜記碑があります。
(説明板)
「栽櫻記について
この石碑は、東京都市計画道路補助線街路第一一三号線築造工事に支障となり江北二丁目五十七番地先よりこの場所に移転されたものです。なお、この栽櫻記の訳文は、次のとおりです。
(表訳文)
栽櫻記
武州荒川堤ハ、熊谷ニ起コリ千住二至ル。延亘スルコト十数里、俚俗謂ク所ノ熊谷堤ナリ。其ノ江北西新井ノ二村ニ係ルモノハ、堤路凹凸。行歩スルコト甚ダ難シ。予嘗ツテ之ヲ修メント欲シテ、當路ニ獻言シタレドモ報イラレズ。明治十八年九月、東京府知事渡邊洪基君、管内ヲ巡視スルノ次、予ノ家ニ憩ウ。乃懇請スルニ企圖スル所ヲ以テス。君、其ノ請ヲ充セリ。越エテ明年工ヲ起コス。工竣ル。乃謂ラク、櫻樹ヲ堤上ニ種レバ、春ル則チ花ヲ賞シ、夏ハ則チ暑ヲ避ク。未ダ必ズシモ世ニ裨益スルコト無シトセズ、ト。乃チ之ヲ郡長尾崎班象氏ニ謀ル。氏、絶賛シテ措カズ、因りテ同志ノ者ト胥議リ、醵金シテ其ノ費ニ充ツ。遂二數十種ノ櫻三千餘株ヲ植エ。實ニ十九年三月ナリ。爾来五裘葛ヲ經テ、樹ハ稍長ズ。夫レ、櫻花ノ勝タル、西ニ芳野嵐山アリ、東ニ東台墨陀アリ。然ウシテ後ハ則チ昔時帝都ノ在ル所、此ハ則チ今日帝都の在る所、安ンゾ此ヲシテ彼ニ遜色アラシムベケヤ。衆ノ擧アル、亦タ徒爾ナラザルナリ。嗚呼、修堤ノ業ハ渡邊君ノ採納ニ成リ、栽櫻ノ功ハ尾崎氏ノ賛嚢ニ由ル。而シテ有志ノ者ノ力、亦タ興ッテ少ナカラズ。今ヤ?テ東都ノ勝ノ彼ニ過グルト曰フハ、蓋溢美ニ作ルナリ。況ンヤ數十年後、春風駘蕩ノ日二方リテ、芳雲爛漫、謂ク所ノ白銀世界ナルモノ、必ズ期スベキカ。乃チ之ヲ記ス。
明治二十四年四月 清水謙吾識
(裏訳文)
栽櫻記ハ、淡如清水翁ノ嘗テ自ラ荒川堤ノ栽櫻ノ亊歴ヲ識ス所ナリ。信ヲ取ルコト焉ニ過クルモノ莫シ。大正十四年六月、里人胥議リ、此ヲ石ニ刻ミ以テ不朽ヲ謀ル。蓋シ必ズシモ文ヲ傳ヘントスルモノニ非ズ、其ノ實ヲ傳ヘント欲スルナリ。
首唱者 江北村作業会建之
昭和六十年一月吉日 足立区役所」
「荒川堤五色桜」(絵葉書 足立区立郷土博物館蔵)
かつての五色桜の絵葉書です。
親柱の上には、五色桜の花弁のおしべが形取られています。
橋の欄干に、彩色された「五色桜」が延々と続いています。
彩色されている欄干レリーフは、初めて見ました。
桜のステンドグラスもあります。
<東詰のオブジェ2基>
「流れ」(制作 平成六年三月)北側
「水」(制作 平成六年三月)南側
江北橋から見た、首都高「五色桜大橋」(平成14(2002)年開通)です。平成14(2002)年に土木学会田中賞を受賞しています。
「五色桜大橋」では、平成19(2007)年から世界初の「振動発電」の取り組みが行われていました(12月14日に足立区立宮城ゆうゆう公園で点灯式)。
橋のライトアップに使う電力の一部を、通行するクルマのエネルギーでまかなっていました。
発電量が想定より少なく安定性も低かったため、現在は取りやめとなっています。
大正13(1924)年に、荒川堤桜が国の名勝(史蹟名勝天然紀念物保存法)に指定された石標柱があります。
都市農業公園の遊具広場門の園外の荒川堤防に設置されています。
<名勝荒川堤櫻>
(正面)「名勝 荒川堤櫻」
(左面)「大正十四年十二月建設 東京府」
(右面)「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ
大正十三年十二月内務大臣指定」
(説明板)
「荒川堤五色桜碑 一基
五色桜は、明治十九年(一八八六)三月、後の江北村村長清水謙吾の主導で、地元民が資金を出し合い、七十八品種三二二五本の桜を荒川堤上約六kmに植えたのがはじまりである。苗木は駒込(豊島区)の桜専門業者高木孫右衛門が栽培した逸品で、花の色が数種あったので、五色桜の名で呼ばれるようになった。当時は、荒川(現偶田川)に多くの乗合船が出て、定期航路が臨時便を江北まで延長するなど、多くの花見客で賑わった。
明治四十五年(一九一二)には、当時の東京市長尾崎行雄がアメリカ合衆国の首都ワシントンに五色桜の接穂を踏呈し、ポトマック河畔に植えられた。
大正十三年(一九二四)十二月、内務大臣により国の史蹟名勝天然記念物に指定されるほどの名所となっていた。そのことを示すのがこの石碑である。
石碑は、江北二丁目の都バス荒川土手バス停付近の荒川堤防脇に設置されていたが、補助第一一三号線道路建設工事の支障となり、教育委員会に保管されていたものを現在地に移転し、今に至っている。
近代東京有教の名所のひとつであった荒川堤五色桜は、昭和二十年代に姿を消したが、昭和五十六年(一九八一)二月に、当時のナンシー・レーガン大統領夫人が足立区に桜を送り、舎人公園に植樹され(レーガン桜)、同年にはポトマック河畔から桜の里帰りも実現し、区内各地の公園・学校などに植えられ、五色桜を現代に伝えている。
令和二年三月 東京都足立区教育委員会」
<あだち五色桜の散歩みち>
鹿浜橋から西新井橋までの土手上に「あだち五色桜の散歩みち」が続きます。
<芝川水門/岩淵水門>
荒川上流には「芝川水門」「岩淵水門」が見えます。
<都市農業公園とスーパー堤防>
都市農業公園は、平成8(1996)年に国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。
赤丸印が「名勝荒川堤桜」の場所です。園外とはいえ、案内図やパンフレット、HPにその存在が記されていないのは不思議です。
正門から高速道路沿に遊具広場門を目指します。
<日米桜寄贈100週年記念植樹>
日米桜寄贈100週年記念植樹(平成24(2012)年4月植樹)と説明板があります。
<江北の五色桜資料展示室>
遊具広場の前に、「江北の五色桜資料展示室」があります。
五色桜の品種や歴史に関する資料が展示されています。こじんまりとしたスペースです。
<昔の農機具展示室>
農家で使われていた古い道具の展示やパネル解説の展示があります。
江戸時代後期に建てられた茅葺きの家屋が保存されています。
(説明板)
「旧和井田家住宅(母屋) 一棟
この住宅は江戸時代後期の建築で、間口八間、奥行五間、屋根は寄棟造の茅葺きである。もと花畑二丁目にあった和井田家邸で、伝えによれば安永二年(一七七三)頃に生まれた四代目当主の代に建てられたという。
間取りは典型的な田の字型の古民家で、正面右手の大戸から入ると「ドマ」がある。「ドマ」の手前の一画には、籾や米を貯えた「コメビツ」、奥には「カマド」を備えた台所である「カッテ」がある。さらにその奥には「ミソベヤ」がある。左手には家族の居間である「イタノマ」、寝室に使われた「ヘヤ」、平書院と床の間を備えた「ザシキ」や「オク」と呼ばれる部屋などがある。「イタノマ」と「ヘヤ」が根太天井であるのに対し、「ザシキ」と「オク」は棹縁天井であり、二部屋の間には、欄間も設けられている。「イタノマ」と「ヘヤ」は日常生活の場であり、「ザシキ」と「オク」は格式を備えた空間となっている。天井裏には、「ドマ」から梯子で昇り降りし、物置として使用された。
安政大地震(安政二年・一八五五)を経てきたというこの家屋は、台所をはじめ、南側瓦葺きの庇、西側廊下と便所など、増改築の跡をうかがうことができる。東側壁面は、竹を細かく割って土真壁を覆う「しぎ竹」という工夫も見られる。また「ドマ」や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時代の花又帝国煉瓦の工場で作られた製品である。この住宅は貴重な江戸時代の農家建築として区に寄贈され、昭和五十八年十二月に足立区指定有形民俗文化財となった。翌年に掛けて足立区都市農業公園に移築保存され、一般公開されている。
平成二十二年三月 足立区教育委員会」
「郵便」と書かれた郵便受けが生活感を醸し出しています。
元は久右衛門新田を開発した浅野家の長屋門です。
(説明板)
「旧増野製作所長屋門
現在の足立区谷中周辺は、江戸時代初期に開発された谷中新田である。谷中新田には北の浅野久右衛門の開発地と南の吉野長左衛門の開発地があり、それぞれ上谷中、下谷中という呼称もあった。元禄年間(一六八八〜一七○四)にこの上下の谷中は分村し、それぞれ開発者の名前を冠して久右衛門新田、長左衛門新田となった。
旧上谷中の浅野久右衛門家は、地名と名前から各一字をとり、「谷久様」と呼ばれていた。この長屋門は明治三十年(一八九七)頃の建築で間口一七・五メートル、奥行四・八メートル、高さ三・九メートル、屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、浅野家の正門として「谷久門」と称されていた。
その後、昭和十一年(一九三六)に増野製作所の創業者増野清香氏が現青井五丁目に新工場を建設する際に譲り受け、これを補修し多年にわたり工場の門として利用された。昭和五十年(一九七五)に同工場が茨城県へ移転する際、後継者である増野鋼四郎氏が保存を決意し、防護柵を施す等保護に尽力された。
平成十二年(二○○○)都道補助一四○号線の建設にともない区が寄贈を受け、東京都建設局の協力を得て当地に移築復元した。
平成十三年十月 足立区教育委員会」
<みのり>
芝生広場にある、子ども五人が小鳥と遊んでいる真海徳太朗の作品です。
背景の長屋門と良くマッチしています。