憲政記念館は、令和4(2022)年1月30日に参観を終了し、建て替えに入りました。令和10(2028)年度末の完成予定です。
令和4(2022)年6月2日から代替施設で再開しています。代替施設所在地:千代田区永田町1-8-1
○ 代替施設
○ 国会前庭(電子基準点「東京千代田」)
旧憲政記念館の記録です。随所に記載していたものをとりまとめ加筆しました。
○ 尾崎行雄
○ 三権分立時計塔
○ 日本水準原点
○ 桜の井
○ ハナミズキ植樹
○ 憲政記念館(旧・尾崎記念会館)
○ 尾崎メモリアルホール
○ シモン・ボリヴァー像
<国会参観バス駐車場>
「国会参観バス駐車場
憲政記念館 入口」
上記の掲示のある建物に入ります。
「国会ギフト 思い出屋 国会参観バス駐車場店」があります。
国会関連のお土産を数多く取り揃えています。
「国会参観バス駐車場」の奥にある代替施設に歩いて向かいます。
<館内>
入口は2階になっています。
尾崎行雄の像は見当たりませんでしたが、記念撮影用のパネルがあります。
<パンフレット>
受付でコロナ対策の用紙に記入してパンフレットをいただきます。
<憲政プラザ>
国会議事堂中央広間を再現したスペースがあります。
中央広間床のモザイク模様が描かれ、「伊藤博文」「大隈重信像」「板垣退助」の銅像の写真があります。
国会議事堂の中央広間は撮影禁止ですが、ここでは銅像と一緒に写真を撮ることができます。
国会の資料が展示されています。
<議場体験コーナー>
本会議場を3/4のスケールで再現しています。
<尾崎メモリアルホール>
尾崎行雄関連資料が展示されています。
<世界各国政府からの善意の寄贈>
「尾崎記念会館」(現:憲政記念館)の建設に際し、世界各国政府から善意の寄贈が多々ありました。
記念品の一覧は、(財)尾崎行雄記念財団の尾崎紹介ページ(英語版)に掲載されています(日本語版には掲載なし)。
「Memorial
Gifts From Various Countries of the World」
「ゲーテ胸像」
ドイツ政府からの寄贈です。
「ナタラージャ像」
インド政府からの寄贈です。
※他に1階にも展示されています。
<憲政の歩みコーナー>
<1階展示>
「シモン・ボリヴァー胸像」
1783年7月24日〜1830年12月17日
ベネズエラ政府からの寄贈です。
「クァウテモックの胸像」
メキシコ政府からの寄贈です。
クァウテモック(1495頃ー1525)は、アステカ帝国最後の皇帝です。
「リンカーン頭像」
アメリカ合衆国からの寄贈です。
新たに電子基準点が設置され(2018年)、日本水準原点が国の重要文化財に登録され(2019年)、国土地院の説明板が設置されています。
電子基準点は、地上約2万kmの高さを周回するGPS衛星が発信する電波を受信し、国土の位置を高精度に観測するための施設です。
国会前庭に、電子基準点「東京千代田」が設置され、平成30(2018)年3月26日に観測開始式が行われました。
<電子基準点銘板>
「基本 電子基準点
No.171222
国土地理院
この電子基準点は、GPS衛星や準天頂衛星などの衛星測位システムから出された電波信号を受信しています。
受信したデータは、茨城県つくば市にある国土地理院にリアルタイムで転送されています。
国土地理院は、受信データでこの電子基準点の正確な位置を求め、土地の測量や地図作成の基準点としての利用に供するとともに、地震・火山噴火等に関わる地殻変動の監視を行っています。
【管理者】
つくば市北郷1番
国土地理院
029(864)1111(大代表)」
(説明板)
「電子基準点「東京千代田」
この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの衛星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調整に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。
電子基準点「東京千代田」は、日本の標高の基準となる日本水準原点(明治24(1891年)設置)の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。
平成30年3月 国土地理院」
<日本水準原点碑>
「日本水準原点碑」に、「土木學會選奨土木遺産」のプレートが新たに掲げられました。
「土木學會選奨土木遺産
2019
日本水準原点と日本水準原点標庫」
(説明板)
国土地理院の説明板が新たに設けられています。
「重要文化財【建造物】 「日本水準原点」
所在地 東京都千代田区永田町1丁目1番2号
指定 令和元年12月27日
日本水準原点は、明治24年に創設された我が国の高さの基準になるもので、130年近くにわたり、我が国の測量の歴史を支えている重要な施設です。
日本水準原点の歴史的及び技術的な価値が認められ、測量分野の建造物としては初となる国の重要文化財に指定されました。
日本水準原点
日本水準原点の零目盛りは、温度変化の影響を受けにくい水晶板に刻まれており、丈夫な花崗岩台石にはめ込まれ、固い岩盤まで達する約10mの基礎に支えられています。
日本水準原点標庫
日本水準原点標庫は、ドーリス式ローマ神殿形式の古典的建築で、日本人建築家により設計された初期の洋風建築として、歴史的、建築学的にも貴重なものです。
令和元年12月 国土地理院」
<ハナミズキ>
2015年10月に植樹されたハナミズキが大きくなっています。
<尾崎行雄記念碑>
時計塔の前にある大きな石碑です。前回はベンツが置かれていて撮っていなかったので今回は撮りました。
(表面)
「尾崎行雄 1858〜1954
尾崎行雄は、民主主義と世界平和とのために一生をつらぬいた。若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例に座して首都を追われ、海外に亡命したが、国会開設とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年、世界議会史上の記録をなした。素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力に弾圧に屈せず、つねに民衆の陣頭にあってたたかった。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護の起るや、世は彼を仰望して権勢の神と称した。軍国主義が一世を支配し、戦雲急なるに及んでも、平和の新年をまげず、三たび辞世をふところにして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。つとに世界連邦を提唱し、議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた。高風を追慕する国民の支援と国際的賛助とにより、ここにこの記念会館が成ったのである。
1960年2月25日しるす」
(裏面)
「尾崎行雄略歴
1858年11月20日神奈川県津久井郡津久井町又野に生まる。父は行正、母は貞子、長男、幼名彦太郎。
1874年慶応義塾に入り、福沢諭吉に学ぶ。
1879年福沢諭吉の推薦により新潟新聞主筆となる。
1881年退社上京す。
1882年報知新聞に入り、1890年まで各紙記者として活躍す。大隈重信をいただき改進党を組織す。以来政党活動に身を投ず。
1885年東京府会議員となる。
1887年保安条例により3年間東京退去を命ぜられたのを機会に欧米を視察す。
1890年日本最初の衆議院議員総選挙に三重県より立候補し当選す。以来同一選挙区より25回連続当選す。
1898年大隈、板垣連立内閣に文部大臣として入閣す。
1903年第2代東京市長に就任す。(国会議員はそのまま)
1910年国会議員として万国議員会議に出席後欧米を視察す。
1912年桜苗木3000本をアメリカに贈る。水源林の確保、市街鉄道買収その他幾多の功績を残し東京市長を辞任す。
1914年大隈内閣の司法大臣に就任す。
1916年辞任す。
1919年第一次世界大戦後の欧米の惨状を視察す。
1931年アメリカを経てイギリスに渡り、日本国民に対する遺言ともいうべき「墓標に代へて」を執筆。また欧州各地を視察す。
1933年帰国す。
1942年田川大吉郎選挙応援演説にからみ不敬罪容疑で起訴さる。
1944年無罪の判決を受ける。
1950年渡米。第二次大戦後の日米国交に貢献す。
1953年衆議院名誉議員、東京都名誉都民に推薦さる。
1954年10月6日永眠す。北鎌倉円覚寺黄梅院に埋骨さる。」
「碑文起草 阿部真之助氏
碑文揮毫 文学博士石橋啓十郎氏
花崗岩寄贈 株式会社鈴木石材店
工事 柴田石材工業株式会社」
(表)
(裏)
<国会前庭南地区>
憲政記念会解体中の光景です。
昭和25(1950)年92歳の時、米国の日本問題審議会に招かれた時、帰路ハワイで別れを告げる姿です。
朝倉文夫の作で、躍動感のある銅像で、とても92歳には見えません。
<人生の本舞台>石碑
「人生の本舞台は常に将来に在り 九四翁行雄」
尾崎行雄94歳の時の碑ですね。石材はスウェーデン政府からの寄贈です。
<尾崎行雄>(近世名士写真頒布会 昭和10年)
安政5年11月20日〜昭和29年10月6日(1858年12月24日〜1954年10月6日)
国会前庭は、北地区と南地区があります。
○三権分立時計塔 千代田区永田町1-1-1 国会前庭洋式庭園
(説明板)
「時計塔
この時計塔は、尾崎記念会館(現 憲政記念館)建設時に、その施設の一環として、塔全面の噴水池・花壇とともに設計され、昭和35年(1960)7月に完成した。
三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものである。また、塔の高さは、百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から、百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された。
時計は、時間を厳守した尾崎行雄を称えてスイスから贈られたものであったが、現在は国産のものに改修されている。
チャイムは、10時・13時・17時・22時の4回鳴動する。これは、衆議院、参議院の会議開会時刻と退庁、就寝時を標準にしたもので、その音響は静寂時には5キロメートル周囲に響き渡った。」
全国の土地の標高を決める基となる「日本水準原点」があります。(明治24(1891)年5月設置)
国の重要文化財及び東京都指定有形文化財(建造物)に指定されています。
(碑文)
「日本水準原点
日本水準原点は、わが国の土地の標高を測定する基準となる点である。明治24年(1891年)5月にこの場所に設置した。
日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。
その標高は明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので当時24.500mと定めた。
その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140mに改正したが、平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900mに改正した。
平成23年10月21日 国土地理院」
(説明板)
「東京都指定有形文化財(建造物)
日本水準原点標庫
日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治二四年(一八九一)五月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第一期生の佐立七次郎(一八五六〜一九二二)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93uで、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。
日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。
平成九年三月三十一日建設 東京都教育委員会
※この日本水準原点標庫は、国の重要文化財及び千代田区特別登録有形文化財(建築物)として登録されています。」
<一等水準点>
水準原点の近くには、「甲、乙、丙、丁、戊」と名づけられた一等水準点が5点あります。
「丁」は地上にありますが、他の4つの水準点は、鉄の蓋で覆われています。
「櫻の井」は名水井戸として知られた「江戸の名所」で、近江・彦根藩井伊家上屋敷の表門外西側にありましたが、
元は加藤清正邸跡(都旧跡)で、清正が掘ったと伝えられています。
2度移設され、現在は憲政記念館の公園内にあります。
・昭和43年に道路工事のために10mほど移設。
・平成28年8月に現在の場所に移設。
石枠だけ移設されているので、井戸の役目は持ち合わせていません。
(説明プレート)
「東京都指定旧跡 江戸の名水「櫻の井」
「櫻の井」は名水井戸として知られた「江戸の名所」で、近江・彦根藩井伊家上屋敷の表門外西側にあったが、ここは加藤清正邸跡(都旧跡)で、清正が掘ったと伝えられている。三連式釣瓶井戸で、縦約一.八メートル、横約三メートルの石垣で組んだ大井戸で三本の釣瓶を下ろし、一度に桶三杯の水が汲め、幕末当時江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられた。
江戸名所図会に絵入りで紹介され、 歌川(安藤)広重の「東都名所」の「外櫻田弁慶櫻の井」(天保十四年(一八四三)(図)にも描かれている。安政7年(一八六○)三月三日には大老井伊直弼がこの井戸の脇から登城途中、暗殺された。
大正七年(一九一八)史蹟に定められ、東京都は昭和三十年(一九五五)旧跡指定。
昭和四十三年(一九六八)道路工事のため交差点内から原形のまま十メートル離れた現在地に移設復元された。
平成一九年(二○○七)彦根城築城四○○年祭と東京金亀会設立九十周年に記す。
平成十九年十月
東京金亀会(滋賀県立彦根中学校・彦根東高等学校同窓会)
東京都教育委員会」
現在の場所への移転作業
以前の場所撤去作業
以前の場所に看板設置
<移設後>
「江戸名所図会 櫻の井」
「東都名所外桜田弁慶堀桜の井」広重 「外桜田雪あがりの朝」広重
「東京府史蹟 櫻の井」(東京府編 洪洋社 大正8年)
「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖.第1輯 櫻が井」(東京市公園課編
1922年)
当時は、散水用に使われていたとのこと。
<この地の由来>
石燈籠がありますが、これは移設されたもので、井伊家の燈籠ではないようです。
(石碑文)
「この地の由来
室町時代の末期、太田道灌がよんだ
「わが庵は松ばらつゞき海ちかくふじの高根を軒端にぞ見る」という歌の松原の一角に連なっていたこの地は、江戸時代のはじめ、加藤清正が居住し、寛永年間に井伊家の居所となり、明治初頭に及んだ。開国の難衝に当たった大老井伊直弼もここに住んでいた。明治以降、弾正台ついで参謀本部の所在地となった。この地にある日本水準原点は、明治二十四年に設けられた。昭和二十七年、この地は衆議院に移管され、三十五年、憲政の功労者尾崎行雄を追念してここに浄財で記念会館が建設された。」
<明治の頃の参謀本部>
出典:「東京風景」小川一真出版部 明44.4(1911)
尾崎記念会館(現憲政記念館)の建設が決まった際、米国からハナミズキが寄贈され、
竣工と同時に植樹されました。
「尾崎行雄・返礼ハナミズキ100周年の集い」が2015年10月に開催され、米国からハナミズキ20本が寄贈されています。
前庭に植樹されています。
植樹者「NPO法人咢堂香風土井孝子理事長」
<仮議事堂の門柱の頭部/英国議事堂の飾り石>
玄関入口には仮議事堂の門柱の頭部と
英国議事堂の飾り石(イギリス政府から寄贈)があります。
受付の前に「尾崎メモリアルホール」があり、貴重な資料が展示されています。
小石川植物園にあったハナミズキの原木の切り株が、展示されています。
平成27(2015)年、「米国からのハナミズキ寄贈100周年」記念切手が日米両国で共同発行されました(こちら)。
<ロビー>
1783年7月24日〜1830年12月17日
ベネズエラでは多く見かけます。通貨の単位はボリーバルです。
、日本で、シモンボリーバルの像があるとは驚きました。
日本ではここにしかないのでは? ベネズエラ政府からの寄贈です。
憲政記念館1階会議室の入り口、尾崎行雄記念財団の横に据えられています。
<休憩所>
「ギンナン」を洗うこと禁止の張り紙は、日比谷公園と同じ内容です。