元宿堰稲荷大神の祠が建立されています。南にある元宿堰稲荷神社の元宮です。
この傍らには、かつて隅田川につながる元宿堀があり、堀には堰、水門がありました。
ここは葛飾北斎が描いた「冨嶽三十六景 武州千住」の場所で、「顕彰碑」が設置されています。
<土台の煉瓦>
<道標「子育地蔵大菩薩道>
天保11(1840)年の道標です。
(正面) 「弘法大師御作 子育地蔵大菩薩道」
(同左下)「是よ里下道 壹里」
<道標「弘法大師道」>
左は、道標「是より西阿ら井 弘法大師道」、寛政5(1793)年の造立です。
右の石碑は墓石ですかね。
(正面) 「弘法大師道」
(同右上)「是より西阿ら井」
(同左下)「石橋二所建立 万人…」
「東京府南足立郡千住町全図」(昭和6年1月15日 足立区立郷土博物館蔵)
昭和6年の地図を見ると、現在は千住桜木ですが、ここはかつて西新井町です。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の中に千住を題材にした作品が三つ含まれています。
NPO法人千住文化普及会による顕彰碑が、平成28(2016)年に3ヶ所設置されています(千住仲町、千住橋戸町、千住桜木)。
(説明文)上段
「「武州千住」
千住浮世絵顕彰碑
江戸時代より千住は風光明媚な名所として多くの文人墨客が集まり、文化的にも進んだ地域でした。
葛飾北斎(1760‐1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。
富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。」
(説明文)下段
「江戸時代、ここには荒川(後の隅田川)につながる水路があり、元宿圦と呼ばれました。
葛飾北斎の「冨嶽三十六景 武州千住」は、この場所から描かれたと推定されています。堰の前にネギを運ぶ馬子、水路に釣り糸を垂れる人たち、その先に荒川(後の隅田川)と思われる河川と富士山が描かれています。
昭和十年頃までの元宿堀は、荒川(通称隅田川)への船の出入り口で、付近に十数人の船頭衆が住み、小さな港のようでした。
その後、公共下水道が整備されたことにより元宿堀はその役割を終え、昭和四十五年に水路は埋め立てられ、平成二十二年の道路改良工事等を経て現在の形になりました。
平成二十四年六月 足立区」
「冨嶽三十六景 武州千住」(国立国会図書館蔵及びフリー素材)
農夫と馬の向こうに、堰枠が見えます。
刈った草を運ぶ馬を曳く農夫の手綱には草履が結び付けられており、どこまで行くのでしょうか。
元宿圦では釣りをしている2人が見えます。
、遠景に隅田川が見え、堰枠の向こうに雪化粧の富士山が見えます。
元宿堰稲荷神社は、墨堤通りに面してあります。
「旧千住四本煙突守護社」と「『いつでも夢を』ストーリーの町」の標柱があります。
<参道>
短い参道の左手に大きな社号標と保存樹のいちょうがあります。
4つ!の鳥居をくぐって、拝殿です。
<水神社>
拝殿左手奥に「水神社」。
<拝殿>
「元宿堰稲荷神社」「由緒略記」「四本煙突「足立の今昔」より」
<本殿>
本殿は、煉瓦造です。
「Vol.1 煉瓦と足立」佐藤貴浩(「足立史談605号」)によると、
明治のはじめ頃、元宿堀に堰を設けることになり、宮城村の下川氏が工事を請け負うことになりました。
工事は難航、怪我人が続出し、夢枕に現れた狐のお告げにより、堰に使っている煉瓦と同じ煉瓦を使って小さな御堂を造り、
土中から見つかった田中稲荷の石を祀ったところ、工事が順調に進み、元宿堰が完成したそうです。
なお、明治のはじめに、下川馬次郎氏が宮城村に下川煉化工場を創設しています。
尾竹橋(足立区千住桜木2丁目〜荒川区町屋6丁目・7丁目)と、
隅田川左岸の隅田川テラス(千住桜木地区)です。
足立区→荒川区 荒川区→足立区
尾竹橋東詰 隅田川上流右岸から尾竹橋 隅田川下流から尾竹橋
尾竹橋下流お化け煙突付近 千住桜木町公園際 浚渫工事
千住桜木公園際から上流方面 千住桜木1丁目行き止まり
お化け煙突の筒身部分の半分と、お化け煙突4本のモニュメントが展示されています。
(説明板)
「『お化け煙突』は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
千住火力発電所は、昭和39年1月に解体され、その後、煙突の一部が元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。」
(説明板)
「『お化け煙突』は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
千住火力発電所は、燃料に石炭を使用していましたが、発電所自体の老朽化も進んだことから、昭和28年に一部を重油で発電するように変更されました。さらに技術革新が進み、より大型で効率の良い発電所が建設されたことから、昭和38年3月に現役を退きました。
千住火力発電所は、昭和39年1月に解体され、その後、煙突の一部が元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。」
<煙突筒身部分の半分>
<煙突モニュメント>
実物大のお化け煙突のゲート、お化け煙突の登り棒、説明板「お化け煙突の由来」があります。
<おばけ煙突の由来>
ひび割れた説明板「おばけ煙突の由来」ですが、かろうじて読めます。
(説明板)
「おばけ煙突の由来
おばけ煙突を知っていますか。
昭和30年代当時、東京の下町でシンボル的存在だった千住火力発電所の煙突、それが通称「おばけ煙突」です。
4本の煙突は菱形に配置されていたため、見る角度によって4本だったり、3本だったり、2本や1本にも見え、そんな名前がついたそうです。また、時々思い出したように煙を吐く煙突を見て、いつしか近所の人々がつけたという話もあります。とにかく場所によって本数が変わり、いつ煙を吐くかわかららないこの煙突のことを、いつしか「おばけ煙突」とい呼ぶようになったのです。
公園入口のゲートで当時のおばけ煙突の大きさを体感できます。
ゲート天井には煙突の配置を模した天窓があります。
登り棒はおばけ煙突の配置となっています。
見え方が変化する地点を探してみましょう。」
<おばけ煙突ゲート>
おばけ煙突の筒身部分の半分の実物大のゲートがあります。
ゲート天井には煙突の配置を模した4つの天窓があります。
<登り棒>
おばけ煙突の配置を模した登り棒があります。
千住火力発電所は、大正15(1926)年1月に建設されました。
昭和38(1963)年に発電所は解散され、煙突は昭和39(1964)年秋から取壊され11月末には姿を消しました。
五所平之助監督の映画「煙突の見える場所」(昭和28(1953)年)でも全国的に知られるようになりました。
<千住火力発電所の1/200の模型>
「煙突の見える場所」(五所平之助監督作品。昭和28年公開)
「お化け煙突(1本〜4本)」(昭和29(1954)年 足立区郷土博物館データベースより)
「取壊し中の4本煙突」(昭和39(1964)年 足立区郷土博物館データベースより)
北斎顕彰碑の道路反対側に、レトロな「ミルクホールモカ」があります。
元宿神社前の区道の歩道に、「里帰り桜」碑と、説明板「桜土手」があります。
現在の墨堤通り(旧掃部堤)は、明治時代に桜が植樹され、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、多くの花見客で大変賑わいました。
関東大震災後、桜並木は徐々に衰え姿を消しました。旧掃部堤西側は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めています。
旧桜土手から東にのびるこの区道に、昭和60(1985)年3月に桜を植えてかつての名残としています。
(説明板)
「桜土手
現在、干住地域の南部を走る都道補助一一九号線は、従来、元和二年(一六一六)に石出掃部助吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が築いた荒川水除堤(通称は掃部堤)と熊谷堤の跡に敷設された道路である。明治時代中頃、この堤防には桜が植樹されてから、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、春の開花時期には多くの花見客で大変賑わった。
大正十二年(一九ニ三)の関東大震災後、土手の桜並木は徐々に衰え残念ながらその姿を消した。昭和六年(一九三一)一月一日を期して、旧掃部堤西側の西耕地は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めた。
旧桜土手から東にのびるこの区道には、桜を植えてかつての名残とした。
平成二十九年三月 足立区教育委員会」
<里帰り桜>
(表)「里帰り桜」
(裏)「昭和六十年三月植樹」
<里帰り桜とは>
昭和27(1952)年、8種55本の桜の苗木の里帰りが行われましたが成功しませんでした。
昭和56(1981)年、再度里帰り桜が企画され、33品種3,000本の「桜の里帰り」が行われました。
「桜の里帰り」の一環として、ナンシー・レーガン米国大統領夫人から贈られた「レーガン桜」も都立舎人公園に植えられました。
千住元町は地名の通り、江戸時代初期に日光道中開発とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称し、奥州路が通る宿場町でした。
かつての元宿の元宿耕地、川田耕地は、荒川の河川敷になっています。
また、川田耕地に築かれていた富士塚は、現在、大川町氷川神社にあります。
<社号標>
昭和10(1935)年銘の社号標「元宿神社」です。
(説明板)
「元宿神社 千住元町三三−四
祭神 誉田別命(八幡神)宇迦之御魂命(稲荷神)
この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。
天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。
荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れなければならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。
平成十七年三月 足立区教育委員会」
<大師堂>
石鳥居の手前右に「大師堂」があります。
荒綾八十八ヶ所霊場五番札所です。大正14(1925)年に建立。
「札所碑」
「八十八ヶ所第五番 元宿 大師堂」
「荒綾八十八ヶ所五番大師堂」「弘法大師」
<八幡神>
左に石祠、右に石扁額「八幡宮」、後方に石扁額「元宿神社」
「天正ニ年 一五七四年 八幡神 建立
昭和六年 元宿神社 改称」
<手水舎>
花手水です。
<感旧碑> 足立区文化財
この石碑には、鈴木印幡守貞宗の末裔である鈴木与吉氏によって大正5(1916)年に造立され、
元宿開拓の歴史と、荒川放水路開削により故地を離れざるを得なくなった思いが漢文で記されています。
(説明板)
「感旧碑(現代語訳)
我が祖先、因幡守貞宗は、長享元年、武田氏に仕え、甲府に住んでいました。長男蔵人は大永六年、武州安達郡に移り、さらに陸羽街道「元宿」に転居しました。その子左ヱ門尉信義は、天正元年(1573)、この地を開墾し、多くの良田を得ました。翌二年八月、村の東南に八幡神祠を、九月東北に稲荷新祠を建てました。
この信義は戦にも才能を発揮し、徳川に仕え、幾度となく功績をあげ、天正・慶長の時には、功状を賜ること三度、今尚、当家に伝わっています。この地に移転当初は、一族二十四戸でした。しかし、元禄二年、そのうち二十戸が今の千住四丁目一帯に移り住み、僅か四戸しか残りませんでしたが、後に十四戸までになり、全戸代々農業を営んできました。
天明七年(1787)の飢饉の時も、先祖代々の土地を固守して、この地を去ることなく、明治四十年〜四十三年の大洪水の時は、家屋に浸水すること十余日、田圃もほとんどが被害にあい荒廃しましたが、それでも村から離れず死守して来ました。
大正元年八月、内務省が荒川改修工事を行うことになり、この村もその改修区域に入っていたので、先祖伝来の土地を十四戸分すべて国に提供し、その後一族は四散してしまいました。
我が一族が、この地に移り住んで四百余年、私は貞宗の遠い子孫になりますので、今この地を去るにあたり愛慕の情を禁じ得ず、碑を八幡神社に建てその概要を記して末代に伝えたいと思います。
大正五年次丙辰三月 貞宗遠孫 鈴木与吉建立
平成十八年丙戌三月 元宿神社」
<社務所>
<千寿七福神 ぼけ封じ 寿老神>
<狛犬>
昭和10(1935)年9月の奉納。
<拝殿/本殿>
<神楽殿>
<御神輿庫>
<庚申塔/三峯神社/元宿神社縁起>
左は天保9(1838)年2月銘の「庚申塔」です。足立区文化財です。
表に「庚申」、裏に紀年が刻まれています。
中央は「三峯神社」です。
右は昭和41(1966)年3月銘の「元宿神社縁起」碑です。
昭和2(1927)年創業、昭和13(1938)年築のレトロ銭湯「タカラ湯」があります。
こちらで記載しています。
墨堤通りの下から東へ向かい、
旧千住遊郭(柳新地)北側の「千住ニコニコ商店会」へと続く商店街が「千住元町明公会」です。
街灯が立派な商店街です。
西端から東方向 街灯 東から西方向 東端から西方向